31日 イースター礼拝 ルカの福音書 24章36〜43節 魚を取って召し上がり
招詞 第一コリント人への手紙15章51-52節
序文)「うれしさのあまり、まだ信じられず」と41節に書いてあります。皆様は、「うれしさのあまり、まだ信じられず」に似たようなことを、何か経験したことがありますか。このようなことは日常、滅多におこらないことが起こったために、人間が陥る心理状態です。よく夢ではないかと、我が身をつねって「痛い」、やはり本当だ。というのと同じたぐいです。イエス様の復活については、信じられないでいる弟子たちのために、イエスさまご自身が、彼らの面前で魚を食べて信じさせられたのでした。今朝は、復活を信じられないでいる者たちのために、イエス様がなさった実証による説得をいっしょに考えます。また、それにともなう、わたしたちのよみがえりについても、思いを馳せ、信じる者になりたいとおもいます。
Ⅰ 背景 36節「これらのことを話し合っている間に」とあります。ヨハネ福音書によると、11弟子たちと仲間がユダヤ人たちを恐れてエルサレムのある家に集まり、戸を閉じ、籠っていた。弟子たちは最近起こったことの様々な事柄を話し合っていたことでした。外からはノック無しには開けてもらない状態でしたし、中の人たちの許可無しには入れてもらえませんでした。室内に居た人々は復活した主イエス様がシモンに現れた様子や、エマオから戻ったクレオパたちの報告を中心に話し合っていたのでした。
其の時、彼らの真ん中に突然イエスが立たれたのです。原語でこの表現は「事実を示す不定過去動詞」を用いています。彼らの真ん中にイエスが立っていた、そのことをのみ示します。イエスの復活を否定する人たちは、この出来事をなんとか説明しようとして、イエスは梯子を上って窓から入られたのだとか、屋根から階段を伝って中に入られたのだとか、戸のカギが掛けられる前に中に入っていたのだが姿を隠しておられただとか、エマオから二人の弟子たち帰ったときに二人の間をすり抜けて部屋に入ったのだとか、イエスは自分で戸を開けて入って来たのだとか説明をしています。
どの説明も聖書の表現にはそぐわないし、からだの復活はなかったとしたいためのこじつけでしかありません。
弟子たちは「突然真ん中に立たれた」イエス様に「驚き恐れて霊を見ているのだと思った。」それはエマオの宿で、食卓から突然に姿を消されたのと同ように、突然に、ここに姿を表されたからにほかなりません。イエス様がご自分で現れたいと望まれるところに現れ、そうでないときは、見えない状態であるということは超自然的なことであります。人間の考える合理では合わないことです。しかし、神にとって可能なことが、ここに示されているのです。弟子たちは34節、35節を読むと、彼らはイエス様の復活についてだんだんと分からせられてきた様ですが、いざ、イエス様が目の前に現れた時、大変な「恐怖」を感じたのです。その恐れは人間の心に潜在的にあるすべての迷信によって引き起こされることがわかります。彼らは「霊」だと思ったのでした。前にも、イエス様が湖の上を歩いて彼らの船に向かってこられたときに、「幽霊をみているのだと」思って叫び声を上げたと書かれています。
Ⅱ 主のからだの復活
このような弟子たちの反応にたいして、主イエス様は直ちに「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」と言われました。
イエス様は、からだの復活についての誤解と、異端的な考えをすべて締め出すために、からだの復活をはっきりと疑う余地なく証明されました。彼らに手と足を見せました。さわりなさいといわれました。肉や骨があると示しました。復活の栄光のからだについて、はっきりと、生前のイエスさまのからだであって肉や骨がある。それでいて、生まれながらのからだではない。戸締まりをした家の中に入って立つことができた。栄光のからだが、どのようであるかをしめされました。
それでも彼らは嬉しさのあまり信じられないで。不思議がっていました。不信仰ということと、喜びのあまりに信じられないということとは違いがあります。心が全く並外れた偉大な出来事にであったとき、それを受け入れるには、あまりにも小さすぎるのです。現実ではないようなことが、現実に起こったとき、心に動揺を感じます。喜び驚きが最高調にたっした時、イエスは彼らに尋ねました。「ここに何か食べ物がありますか。」彼らは、すぐに焼いた魚を一切れ差し出しました。イエス様はこの魚を取り、彼らの前で食べました。もちろん、それはイエス様がおなかをすかしていたからではありません。彼らにイエス様が霊ではなくちゃんと復活のからだをもっておられることを信じさせるためでした。これは圧倒的な強い証拠でした。復活のからだ、霊のからだを持っていても、イエス様が食べられたことは、いまでに人間の知識では解明することができないことでした。しかしこの事実は旧約聖書の創世記18:6-8,19:3で、神の使いや、旧約聖書のおける神のみ子の顕現において、示されていることも会わせて考えてみる必要があります。アブラハムを尋ねた3人の旅人は、実は人間の姿を取った、天使と「主」でした。アブラハムの持てなしに与り、「彼らは食べた」のでした。その後で、サラに子ども生まれることを示し、またソドムとゴモラを滅ぼしに来たとつげました。彼らはロトの家でも「食べました」。使命を終わったときに彼らは天にかえりました。
わたしたちがその実態を何もしらないのに、勝手に、栄光のからだについて不可能だとか可能だとかいろいろ論じることはできません。ただ、聖書が書き留めている事実をもって受け入れる以外にはないのです。イエス様の復活がからだを持ってしての復活であったことを、証拠を持ってはっきりと示された以上は、そのとおり受け入れましょう。
さて、このことは、信じる私たちに取って、おおきな約束をあたえることです。それは、わたしたちの救いが、単に霊的よみがえりによって成し遂げられるのではなくて、このからだをも含めた全人の救いであることをあかししているからです。死に対する勝利は、徹底的な勝利であることがわかります。ありとあらゆる人間の造った宗教が、たっすることができなかった、完全な救いの道がイエス・キリストによって達成されていることを、今、主は見せておられるのです。
Ⅲ わたしたちのからだの復活
使徒パウロが、からだのよみがえりについて、神様から教えられた奥義は、第一コリント人への手紙15章35-44節に詳しく載せられています。例えば、種を蒔く。この種が新しい植物として生え出て来るために、地中で死ななければならない。種子の死(からだの分解)は、新しい植物として、新しいからだをもって生え出て来る(再組織)ことの必須条件である。また蒔く種は後に生え出て来る植物を蒔くのではなく、種粒だけです。蒔かれたものと、生え出て来るものは同一ですが、からだは異なっているのです。人間の血肉のからだと復活のからだもこれと同じです。
さらに肉と言っても人間の肉や、魚の肉や、獣の肉や、鳥の肉があって、それぞれ独自の肉です。神にとって、物質の変形、変化の可能性は制限がないのです。だから、からだと言っても、天上のからだがあり、地上のからだがあります。その栄光は異なります。からだという同一性の中で栄光を異にすることもあります。死人の復活も同じです。わたしたちが現在もっているこの血肉のからだが復活を通じて、この現在とは推測できないような異なったからだに支えられ、しかもそれはまちがいなくわたしたちのからだであるということは可能です。神はイエス・キリストによって、これを立証してくださったのです。
「朽ちるもので蒔かれ」ます。現在のからだは病み、衰え、消耗し、死にます。そして地中に葬られて分解します。しかし、復活は、朽ちないからだをもたらします。
「卑しいもので蒔かれ」死のときに、わたしたちの生前の美しさ、つかのまにしてもそのような魅力をはぎ取られます。遺体となって葬られます。しかし栄光あるものによみがえります。種粒と地上に新鮮な生き生きとした若い芽を比べてみましょう。
「弱いもので蒔かれ」遺体は無力です。何事もなすことができません。何事にも抵抗できません。人間のからだの弱さは、死においてははっきりと示されます。しかし、強いものによみがえります。力においてよみがえります。復活のからだのもつ機能を想像できません。
「血肉のからだで蒔かれ」自然のからだで蒔かれ、御霊のからだによみがえる。御霊によって新たにされ、支配される永遠のいのちの祝福のうちに全く聖められた霊を宿すにふさわしいからだ、天的存在に適するからだをいただくのです。
結び)第一コリント人への手紙15章51-52節 この幸いな完全な救いの日、復活の日を私たちは待っています。其の根拠は、あまりの嬉しさに信じられない者に示された、復活の主イエス様の行動にあります。キリストの復活を信じる者にとって、自分のからだのよみがえりは、いのちの連動があることを悟らせられるのです。
それとも皆様は、このような祝福に満ちあふれた望みをあまりに嬉しいことなので、信じられないと、おもわれるでしょうか。