2013年5月19日 大会20周年 講壇交換 板倉邦雄牧師
「枯れた骨は生きるか」
エゼキエル37:1-14 招詞 36:26-28
序文)私は、「明日の詩」という歌の,次の一篇が好きです。「人生は繰り返す。これはないけど、やり直しはいつだってできる。だから、泣いて昨日を振りかえるより,明日の詩を歌おう。」
今日は、世界中のキリスト教会が「聖霊降臨日」(ペンテコステ)として、記念日を守っています。イエス・キリストは十字架で死なれ、三日目に復活されました。復活祭(イースター)を私たちは,今年3月31日に記念してお祝いしました。そして40日間復活のキリストは弟子たちに現れ、すごされ、昇天されました。それから10日後,丁度復活から50日目に,天の神様と,イエス・キリスト様から出て、この地上に遣わされましたのが、聖霊でした。今日は,その聖霊降臨を記念して忘れない日です。一般に「降臨」とは,神様が人間の世界に降りてくることを言います。そして、私たちの中に住んでくださる。私たち日本人は「済んだ事は忘れましょう。水に流しましょう。」といいます。しかし聖書では、記憶せよ、忘れるなと書かれています。私たちは聖霊降臨を記憶し、忘れてはならない大切な事柄なのです。その理由が、今日の聖書個所に幾度も出てくるからです。聖霊は私たちを生き返らせてくださる。私たちの信仰を回復させてくださるからです。枯れて干涸びた骨に、筋がつき、肉が生じ皮膚がおおい一個の人間になり、そこに神の生命の息である聖霊が吹き込まれると、生き返ったのです。(4-6節)人は生きた者と成った。自分の二本の足で歩くのです。(10節)そして14節。
Ⅰ まず「枯れた骨」は、生き返ることができるか(1-3,11節)。エゼキエルは、紀元前587年南ユダの滅亡と共に、バビロンへ捕囚された人々の中にいました。エゼキエルはバビロンの地で、イスラエルの全家のために、主成る神のことばを語り続けました。主なる神のみ手に導かれて、エゼキエルは主なる神の霊によって谷間に連れ出されました。それは夢か幻か、分かりません。そして谷間の間中にたったのです。そこには骨が満ちていました。しかし、長い間がたったので、枯れて干涸びた骨でした。この骨とは谷間に住んでいたイスラエルの全家でした。まさに、神様に捨てられた! 光が射さない谷間です。希望も無い絶望的な状況を表していました(11節)。預言者エゼキエルは平野や谷間を巡回しました。多くの人々の絶望的な声を耳にしたのです。「ああ、望みは消えた。神様にも捨てられた.神様との関係も断ち切られた。お先真っ暗だよ。」哀しく嘆きの声でした。
主なる神は、エゼキエルに質問しました。「人の子よ。これらの枯れた骨は、生き返ることはできるか?」神の人エゼキエルは応えました。「神、主よ。あなたはご存知です。」「干涸びた枯れた骨が生き返ることは、とても無理です。それは主よ、あなたがご存知でしょう。」
私は、この問答と、イエス・キリストと老人ニコデモの問答を思い出しました。イエス様が「人はだれでも新しく生まれ変わらなければ、神の国を見る事も、神の国に入る事もできない」と老人ニコデモに言いました。彼は答えました。「人は年を取ってから生まれる事がどうしてできるでしょう。もう一度母の胎に入って生まれることができましょうか。」すると、イエス様は不思議な答えを言いました。「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。」ここからは「人は自分自身ではできないが、神にはできる」ということばが響いて来るようですね。
Ⅱ 次に、「枯れた骨」が生き返ることは、主なる神のことばを聞く事から始まるのです(4-6節、12-13節)。希望を失い、絶望した人々は、まさに枯れた骨、生きていますが、死んだような人です。そのような人に向かって神のことば(預言)が語られたのです。そして、「イスラエルの全家は主のことばを聞いたのです。すると、イスラエルの全家の信仰が回復してゆくのです。それは主のことば(神のことば)が語られるとき、神の息吹が、天から枯れた干涸びた骨に吹きこまれるのです.まさに「聖霊降臨」が起きるのです。主成る神様が、私たちの中に降りて来て下さり、住んで下さるのです。そして生き返るのです。新しくされた者に成るのです「(5-6節)。聖霊は、神の息吹として、主なる神のことばを聞く人々に降臨されるのです。「信仰は聞くことに始まり、聞く事はキリストのことばからくるのです。」(ローマ10:17)
神のことばが語られ、私たちが聞き信仰によって神と結びつく時、そこに神から流れてくる生命があるのです。それが聖霊降臨ではないでしょうか.神の「息吹」です。「神の息吹」といいますと、私たちはアダムが神にあって土のちりから造られたことを思い出します。主なる神は「土のちりで人を造り、いのちの息をその鼻に吹入れました.すると人は生きた者となった。」(創世記2:7)。とあります。私たちは、神様から流れて来る生命の息によって肉体も霊も生き返るのです。ですから死ぬとき、息を引き取ると言います。誰が息を引き取るのでしょう。生命の息を与えてくださる神が、生命の息を引き取るのですね。
「人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きる者である。」私たちはパンだけでは生きる力を与えられて、この人生を生きて行くことはできない存在なのです。パンだけの人生は、いつか、自分の無力にぶつかって行き詰まるでしょう。ひとりぼっちの滅びの中に
沈み込んでゆくでしょう。豊かな食生活の中にありながら、無気力に悩むでしょう。そして、人生の様々な困難に疲れ果ててゆくのです。しかし、どのようなときでも、たとえ干涸びた枯れた骨のような絶望の中にあっても、神から流れて来る生命の息吹があります。それは聖霊なのです。神のみことばです。キリストのおことばです。「わたしの語ったことばは、霊であり、いのちである。」と主は言われました.私たちは、この主のことばを聞いて、このことばに信仰によって結びつくのです。その時、私たちのからだもたましいも聖霊による生命を受けて、力を回復してゆくのです。聖書のことばです。「だが、聖霊があなた方にくだるとき、あなた方は力を受け、 地の果てまで、わたしの証人となるでしょう。」(使徒1:8)「私たちにもキリストの福音が伝えられている。しかし、その聞いたみことばは、彼らに無力であった。それは聞いた者立ちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」(ヘブル4:2)
Ⅲ 「枯れた骨は生き返るか」私たちが神のことばを受け入れる時聖霊が働いて、私たちは生き返る事ができるのです。(7-10,14節)エゼキエルは「息」に向かって預言しました。生命の息は、骨の中に入り生命に回復したのです。枯れた骨が動き、相互にくっついた。筋ができ、筋肉がつき肉がついたのです。皮膚が上を覆った。預言者エゼキエルは主なる神に命令されたように。預言の言葉(神のことば)を語りました。其の時、音がありました。それは「雷鳴」のような大きな音でした。それがまさに「聖霊降臨」ではなかったでしょうか。新約聖書使徒の働き2章に聖霊降臨の出来事が記されています。主イエス様が復活されてから50日目の収穫祭(五旬節)の日、イエスの弟子たちと信徒120名が、エルサレム神殿で礼拝し、祈りをしていました。神殿の庭にくる一つの家屋でした。聖書のこうあります。「五旬節の日がきて、みなのものが一つ所に集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が、天から起こって来て、一同が座っていた家いっぱいに響きわたった。」(使徒2:1-2)。聖霊降臨の出来事は、まさに、激しい風がふいてきたような音であった事が分かります。まさに、エゼキエルが経験した聖霊降臨と同じです。「イスラエルの全家」は信仰の回復が起きるのです。
エゼキエルが神のことばを語った時、何が起こりましたか。「激しい風が吹いてきたような音が起こった。」のです。そして、枯れた骨(死んだ肉体)が、再生してゆきました。しかしまだその中に生命の息はありませんでした。さらに息に預言するように言われ、息に預言しました。
「息よ。あなたは四方の風邪より来て、この殺された者たちの上に、息吹をして、生きるようにしなさい。」この息「ルアハ(ヘブル語)」は「風」と同じ意味です。そして息に預言すると、息が、再生した人々の中に入り、みんな生きて、その足で立ち、多くの群衆となったのです。
「聖霊降臨」とは、風のように天から吹いて来る、神様からの生命の息です。この神の息吹に触れる人は、どのような人でありましても、また、たとえ枯れた骨のような、生ける屍のような人でも、「生き返る」ことができるのです。
「新しく生まれ変わりたいのですか。」「信仰の回復を与えられたいのですか。」天からの聖霊の働きを求めましょう。年老いたパリサイ人の指導者ニコデモに、イエスは言いました.「あなたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うにおよばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこに行くかは知らない。聖霊から生まれる者も皆、それと同じである」(ヨハネ3:7-8)。わたしたちは、この世の人生で様々な者を求めます。しかし一番求めなくてはならないものは何でしょう。私たち一同に与えられる聖霊降臨ではないでしょうか。天の神様とキリスト様が降りて来て、私たちの人生を肉体とたましいと霊である私たち人間の間に住んでくださることです。
イエス・キリストのことばです。[ルカ11:9-13]。
結び)私は、1964年高校3年生の5月「聖霊降臨日」に信仰告白して、洗礼を受けました。私に取って、聖霊降臨日は忘れる事のできない記念日です。また決して忘れてはならない日です。「記憶は贖罪である」。という言葉があります。キリストの降誕を記憶する。キリストの十字架を記憶する。キリストの復活を記憶する。そして聖霊降臨を記憶する。それは、私たちの信仰生活にとって、忘れてはならない出来事だからです。聖霊降臨は、「神の息づきの時」だからです。しおれた草が春の雨に巡りあって、しゃんとするように、私たちのたましいも、再び生き返えらせてくれる時です。風が吹いて来て、ゆううつな雲を取り去ってくれる時です。神の息づきの時なのです。聖霊降臨の日の後で、人々に語ったペテロの言葉を引用して終わります。使徒3:19-20!! [だから、自分の罪を拭い去っていただくために、悔い改めて(神に)本心に立ち返りなさい。それは、主のみ前から「慰めの時」がきて(聖霊降臨の時が来て)、あなた方のために予め定めてあったキリスト(救い主)なるイエスを、神が遣わしてくださるためである]主なる神様のみ前から「慰め主」「助け主」であります。聖霊が遣わされる。それはまさに救い主イエス・キリストの霊が、私たち一人一人に送られて、悔い改め、信じる者のうちに住んでくださるのです。そして私たち枯れて干涸びた者を生き返らせてくださるのです。