2013年6月9日 ルカの福音書16章14〜18節 招詞 コリント第二 6:2
説教題 「今は、福音の時代」
序文)先回の聖書個所16章13節までの学びは、主イエス様が、弟子たちに神の子として、賢く、この世の賜物を忠実に用いて神に仕え、来るべき人生の総決算に備えるようにと語られたことでした。ところがお金が好きなパリサイ人たちが、これを一部始終聞いて、イエス様をあざ笑ったので。彼らは、この世のことと、宗教的な事とを区別して、いわば二元論な生活をしていました。自分たちは宗教的な人間だが、同時にこの世の富を愛してはばからないのでした。イエス様は二元論的な生き方の誤りを指摘して、神の目の前に全人生は関係を持っており、神に仕えるという統一性の中に、日常がある事を教えられました.そしてパリサイ人のあざ笑いに対して、間違った姿勢を18節まで教え、次主日説教します19-31節までに、たとえ話しをもって彼らの状態を分からせようとされました。
Ⅰ パリサイ人、イエスをあざ笑う。14-15節
パリサイ人はイエス様をあざ笑いました。嘲笑は嫉妬や猜疑とともに人間の交際の中で最もいやな態度です。嫉妬は愛の歪曲であり、猜疑は心の信頼の欠乏であり、嘲笑は穏やかで誠実な心を突き刺す行為です。パリサイ人たちはイエスの真実な心と教えに対して、自分たちの欲深さのために罪の実りを結びました。
何と言ってあざ笑ったか内容は記されていません。しかし、「金の好きな」と福音書著者ルカが断りをつけていますので、その態度はよくわかります。パリサイ人は本来、イスラエルの信仰をギリシャ的な偶像崇拝から守ろうとして立ち上がったユダヤ教の一派でした。モセーの律法の厳格な遵守をもってエホバの信仰を純粋に守ろうとしました。しかし、イエスの時代には、彼らはこの世の権力と富をむさぼって堕落し、律法を守る事にも、本来の大目的を見失っていました。人々の前では、自分たちを義とし、外側はすばらしく飾り、どのような悪をも彼らの責任とする事を拒否し、人々からは尊敬をうけていました。そこに彼らのむさぼりへの偽善が隠されていました。
主イエス様は答えました。「あなた方は、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存知です。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれます」(15節)。
心の中では金を愛する思いで満ちていて、表向きは「むさぼるなかれ」という律法を守り維持しているので、自分たちは義であると言っているのです。このような姿は神様に憎まれるのです。この世の富を主人として心で仕えながら、パリサイ人たちは同時に神に仕えていると自負していました。このような生活を送る者にとって、イエス様のことばは全然理解できないのです.彼らは神の国に入ると言う事を心の問題としてより形式的、外側の課題として捕らえていました。信仰生活の善し悪しを区別するのに、神は心をご覧になると言う事を見落としているのです。だから律法を形式的に守り、人々から尊敬されているなら、それで神の国に入れると考えています。しかし目の前に神の国から遣わされて来た救い主イエス様がおられ、真理を伝えているのに、それがわからないのです。高慢と貪欲の罪が、神は彼らの心を知っておられるという事実を見えなくしてしまった。
Ⅱ 今は福音の時代 16節
しかし主は、おっしゃいました.16節「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、」神様の救いの時代区分で、旧約聖書時代は、バブテスマのヨハネまでです。いま、この時代は福音の時代です。新約の時代なのです。ヨハネ以後は主イエス様が神の国の福音をのべつたえ、こころからそれを受け入れる者を神の国にいれる時代なのです。神の国に入る方法は、態度は、救い主への心のありようにかかっているのです。律法を守りさえすればよいといった消極的な方法ではなく、「だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」といった態度、積極的な求めの必要性が語られています。
伝道されて、神の国の到来が分かった人々は、ただ待っているのではなく、古い考えとの関係を断ち切って、激しく、体当たりして、求道し、神の国を奪い取るほどの気構えを見せるべきです。今の時代は、そのような全生活をかけて神の国を求めるかいがある時代です。
この世にたましいの安住の場所をもたない罪人、迷っている者たち、わたしたちが何としてでも、神の国に割り込ませてもらおうと体当たりで激しく攻める事を神はみておられるのです。
それは、あの天井の屋根を破ってでも、イエスぬ引き合わせたいと病人を連れてきた者たちの信仰に見られました。また、12年の長血に苦しんでいた女性が、人々の非難もかまっておらずに会衆の中で、イエスに近づき衣に触れた信仰にも見られるのです。周囲の冷たい目も、恐れずに、イエスを愛する一心で、ひざまずいて涙でイエスの足を拭ったマリヤ、木に登って上からでもイエスを見たいとの一心だったザアカイ、皆々、無理にでも入ろうとする心、イエスに向かって突き進む心を示しています。主イエスの愛を悟り、自分のものとさせていただいたのでした。
神の国に入るのは、信仰なのです。心です。今は、新しい時代、心の時代なのです。
Ⅲ 福音の力は律法を全うする 17−18節
イエス様は、福音の時代である事を鮮明にされましたが、それが同時に律法を無効にする事ではない事も、教えられました.律法の無価値、無用を意味しないのです。新時代に入ったからといって律法の一点一画も揺るがせにされることはない。律法を尊び、その大原則は貫徹されます。イエス様自身「わたしは律法を廃止するためにきたのではなく成就するためにきた」といわれました。主イエスの福音は律法を成就します。パリサイ人が正しく守っていると主張している律法が、彼らをさばくことになるでしょう。パリサイ的な形式主義により、律法が被って来た悪用や曲解は退けられ、まことの意味が主によって語られています。主はここに一つの例を示して律法はゆるがせにされるのではないことを語られました。例にあげられたのは離婚の問題でした。
「だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。18節」
イエスの時代に結婚制度が乱れ、ささいな理由で離婚が行われていました。世俗的精神にそまり、欲深く、形式論者のパリサイ人は、この問題についてルーズでありました。モーセが、人の心のかたくななためにゆるした離婚についてのことばは「人が妻をめとって結婚した後に、その女にはずべきことのあるのをみて、好まなくなったならば、離縁状を書いて、彼女の手にわたし、家を去らせなければならない」(申命記24:1)とありました。「はずべきこと」とは何を指しているのか、確かな事は言えないのでした.ヘブル語文字通りの意味は「事物の裸」です。ラビたちは解釈が二つに分かれていて、シャムマイ学派は「不貞の振る舞い」とみなし、ヒレル学派は「下品なこと、あるいわ、夫に取って不快な事」であるとみなしていました。これは後代になって、もっと軽いことにも適用されて、例えば、「女が皿を割ること、長話をすること、見知らぬ男に話しかける事、夫の聞いているところで夫の肉親をあしざまに言う事、隣家に聞こえるほどの大声でわめきちらすこと」と主張しました。イエスの時代は、この説が大勢を占めていました.結婚を拒む女性も続出して、家庭生活が聞きに見舞われていました。実は「すずべきこと」は不貞であるとの説は旧約聖書の用例から、間違っているし、反対しているのです。では、ヒレル学派のゆるい説が正のかと言うと、それも支持されているとは思えないのです。だれでも間違えて皿ぐらいは割ります。神学者のジョン マーレーは、離婚論の中で「ある下品な振る舞い、あるいは非礼な振る舞いと推論できる。それは欠陥あるいわ、怠慢の範疇に属する事ものであったかもしれない。たぶん、下品とは不正な性的な交渉までには至っていないが、性生活と結びついたある種類の恥ずべき行為であったのだろう。あるいは、それは夫の側からの叱責に値する他のある種類の非礼であったのかもしれない。」と書いている。
主はこのようなパリサイ人に対して、結婚というきずなの神聖さを教え、離婚否定を語っておられる。「18節」創世記の結婚の制定をまもるようにと主張されました。「マルコ10:5-12」
神の福音は、人間がかつて気ままに曲げて来た道をまっすぐにし、はじめの心に絶ち帰えらせる力があるのです。こころがかたくなで、気ままにふるまう人間の心を福音は作り替えて、神を恐れうやまう心を生み出すのです。この福音は、律法の要求を本来の意味で全うする力を与えます。
信じる者を新しくし、生まれ変わらせる力、良い心にする力を福音はあたえます。
結び)神は、あなたの心を知っておられます。福音を受け入れて、新しい命、力を賜ることにより、主イエスの前に喜ばれる信仰の歩みを全うしましょう。激しく天の国を求めて進みゆきましょう。