2013年6月16日 ルカ16:19-31 「富者と貧者」
序文)先回16:18節までの段落で、神様が人の心をご覧になるお方であって、人間の評価、判断基準が違うこと、さらに、神のみことばの確かさと福音の力について話しました。今朝の19-31節は、これらのことをさらに強調するために、富む者と貧しいラザロの譬えを、主がはなされました。
Ⅰ たとえ話しの登場人物とはなしの推移
二人の人がいた。富める者と貧しいラザロである。名前が挙げられたたとえ話は他に例がないので、実際に起こった事をイエス様が引いておられるのだ!というのと、そうではなくて、あくまでたとえはなしであるというのとで、論争があります。富める者の名前が無いということは、当然のことで、永遠に神に覚えられている名前は、『いのちの書』(黙示録20:15)に記されている。名前が神に覚えられているかどうか、その判断基準は、地上の名声と財力等にあるのではない。ひとえに神の前にへりくだって、自分の罪を認め、主イエス様を救い主と信じているかどうかにあるからです。信じた者は『いのちの書』に名前がしるされている。ラザロは、イエス様が個人的に愛と憐れみを注いで、彼の地上での貧しさとの戦いを、それも敗れている状態を覚えておられたのではないか。それも死後、神のみもとに帰ったのをご存知であったから、彼の名前が書き留められていたことを主はしっておられた。クリスチャンは地上で名前を成し、残そうとする者たちの中で、名も無く、貧しく、苦戦していても、永遠にいのちの書に名前をしるされていて、永遠に消し去られることはない。
さて、富める者と窮乏の極致に置かれていた貧しいラザロとの間の地上での相違が、先ず語られて、次に、死後の相違が告げられています。
金持ちは紫布の細布を着ていた。毎日贅沢に遊び暮らしていた。その生き方の中心は「自分を楽しませた」ところにありました。ラザロは全身できものができて、犬が来て、彼をなめても追い払うことができないくらいに弱っていた。金持ちの門前に人々に抱えられて来て、寝かされていた。この富める者の食卓から落ちる物で、飢えを凌ごうとした。そして、それさえも、むなしい思いで終わった。彼はある日、死んだ。御使いたちによってアブラハムのふところに入った。信仰の父のもとにである。彼がその心に神をたのみ、希望を神にのみおいていた事がこれでわかる。ラザロという名前の意味は「神は助け」です。この世に頼むべき何ものも持たなかった。貧しさと病いの中に人生を送っていた。しかし彼が神を頼みとして、富める者を恨まないで、自分の運命をつぶやかないで、信仰の父を見習って神にのみ信頼を向けていた。神がいるなら、なぜわたしがこのような目に遭わなければ成らないのだと恨み言をいったりしなかった。ただ永遠の神を頼みとしていた。神に創造された人間は、神を信頼すると言う基本的な心構えを、神はご覧になった。受け入れてくださった。貧しい者がすべて神のもとに行くと言うのではない.金持ちが全て地獄に行くというのではない。この地上でどのような歩みをするにしても、神を信頼して歩んだかどうかが、重大な永遠を決定する。
この点で、金持ちは自分を頼みとして、富を頼みとして、自分を楽しませる生活に終止していた。門前の貧しい病める者を無視していた。死んだ。盛大な葬式を家族は出しただろう。墓も立派だろう。しかし地上の貧富の差は、そこまでであった。彼はハデス(死者の世界)にいて、神を信じないで死んだ者の行くところに落ちた。そこで、苦悩している。悲劇である。23-24節と言っている。
Ⅱ 23-24節
地上で生きていたときに、多くのしもべにかしずかれ、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲み、美食三昧にふけっていた。今は、生前に軽蔑して無視していたラザロを遣わして、指先の水の滴りで渇きをしのごうと願って叫んでいる。主を信じる者たちを地上で圧迫し、迫害し、苦しめ、無視した者たちが、死後に主イエスの約束の確かさを発見させられている。しかも、クリスチャンたちの幸いを、自分は苦しみの中から見あげている。これほどの悲劇は無い。この叫びの祈りは拒否された。「マタイ25:41-46。」アブラハムが彼の事を「子よ」といっているのは、彼がユダヤ人であったからで、だからといって彼のことを天に入れるわけではない。彼がこの世で良いものをうけたが、その用い方において、心の配置においてまちがえていた。ルカ6:24-25のイエス様の警告が、ここで裏付けられている。
さらに重大なことがある。死後の世界には、天国と地獄がはっきりと合って、その間には深い淵があって、相互に行き来することは決してできないということです。死後に人は其の居るべきところを変更できない。不可能である。生前に決定的に決まる。死んでから悔い改める道はない。
ここに人生の送り方への厳粛な教えがある。富める者は生き方が間違っていた。彼は手遅れである事を悟り、地上にいる兄弟たちの事を考えた。兄弟たちも同じ過ちを犯している。27-28節。
神を恐れ敬い信じて歩む事の無かった親族が、今も、ゲヘナにおいて願っている事は、地上に生を受けている家族、親族が自分と同じところに来ないようにという叫びである。多くの人々がこの点を誤解している。死んだ人々が自分を拝んでほしいと思っているとか、死んだ人たちと同じところに行きたいとか、言っているのです。真の神様が、み子イエス様によって用意された救いを拒否して、この厳しい罪へのさばきに会うことを本気で受け止めようとしない。軽く考えている。このままでは生きている家族も同じところにきて苦しむ事が分かっているので、金持ちの苦しみは、倍加している。
神様のみことばに目を開きましょう。金持ちはラザロを地上の家族に遣わして兄弟たちに警告してほしいと願った。たしかに天国にいった者が帰って来て、こうだったといえば、地上の人間はいっぺんに信じるだろう。大多数の人々が天国や地獄の事を信じないのは、そこに行った人々で帰って来た人がいないからという理由。そういうところはない。そうおもっているにすぎない。
しかし本当にそうだろうか。アブラハムは答えました「29節。」彼らにはモーセや預言者がいる。旧約聖書がある。今流にいえば、全聖書がある。神様のみことばがそう教えている。語っている。神の真理は不思議や奇跡によって確認されるのではなくて、聖書によるのです。第二テモテ3:16。富める者の兄弟たちは聖書を読めば、どのように生きるべきか、神の存在、愛、さばきのすべてを知ることができるのです。信仰をもって実践するならば、同じ過ちをくりかえすことはないのです。
金持ちは答えます。「30節」
アブラハムは答えます。「31節」
聖書を読み、教えを聞き、教えられて実行しようとしない者は、いくら死人がよみがえってきても、それを受け入れたりはしないのです。
ベタニヤのラザロが、死んで四日目に主イエス様によって生き返った出来事のときに、何がおこりましたか。パリサイ人たちは、自分の生活を悔い改めイエス様にしたがいましたか。いえいえ、むしろイエスを殺すためにますます不信仰な思いを募らせました。つけねらいました。
さらに主イエス様が十字架に死に、葬られ、三日目によみがえられました。40日間証明してまわられました。しかし、それでもなお、彼らは信じる事をしなかったのです。
人間の心はみことばに聞く心が無ければ、今ここに主イエス様が立ってくださっても、それを受け入れないのです。悲しむべき罪深さをもっているのです。
Ⅲ このたとえから学べる事をまとめましょう。
1 神様がそれぞれにくださっている賜物の管理を間違って自分のためにだけ使用してはいけない。それがお金であっても、時間であっても、からだの健康であっても、霊的な賜物であっても。
2 死において、意識は継続している。
3 主イエスの贖いを信じない失われた者は、意識的な苦しみに永遠に会う。救われた者は、意識的な喜びに入る。
4 救われた者と失われた者との間には、深い淵があって、永遠にこの状態を変更できない。
5 地上での聖書の神に対する選択が永遠を決定する。
6 神は地上で、永遠を求めるために十分な光と警告を与えておられる。
結び)救い主イエス・キリストの身代わりの死と葬りとからだの復活は、今も、宣べ伝えられている。信じない者にならないで信じる者になりましょう。神の子とされた光栄を覚えて、ゆだねられている地上人生をよく管理しましょう。