2013年1月6日 ルカ13:22-30 「狭い門から入れ」
序文)「主よ、救われる人は少ないのですか」とある人がイエス様に尋ねました。古くて、しかし常に新しい質問です。日本のクリスチャン人口の少なさとともに、イエスの福音に対する反応の鈍さを思うたびに、この問いを発してしまいます。
主イエス様に向けてこの問いは発っせられました。ということは、イエス様がユダヤ人のごく少数の弟子を集めるのにも大変苦労しておられるようにと見えたからでしょう。この質問には「主よ、救われる事は難しいのですか。救われる人が少ないと言う事は,あなたの教えに問題があるのではないでしょうか。」という思いも込められているようです。
主イエス様は答えられました。
1 答え 24節
「努力して狭い門から入りなさい。」だいたいこの人の質問は第三者的なのです。「救われる人」は少ないのですか、と聞いています。「私が救われるのは」とは問わないのです。私たちも、自分に関わる質問ではなくて、第三者の事を良く聞くのです。あの人はどうですか。この人はどうですか。あの人は,このような信仰生活を送っているようですが、どうでしょうか。私たちは他の人については、多くの質問を主イエスにします。自分については、できる限り避けるのです。自分以外の事、教会の事を論じてうわさするのです。それは興味を引くでしょうが、あまり役にたちません。自分は救われているので、大丈夫だけれども、といった姿勢です。
主はこたえます。「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなた方に言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」と斬り付けられました。質問者は、どのように思ったでしょうか。他人事としてではなくて、自分の事として救いを考え、信仰を考え、教会を考える事がなければ、イエスのことばは、生きたことばとして心に入ってこないでしょう。信仰による恵みの救いは人を内的に変化させます。パン種のたとえ話しで教えられたとおりです。そして、神の国に入るものとなった人は、その福音のいのちの故に、今、生活している場所で努力し、苦闘して道を進むことになるのです。信仰はその人を無為無能な人にするのではなくて、努力させ、精進させるのです。堅くたって動かされる事がないためには、全力を注がなければなりません。信仰を全うする歩みは、信頼と従順の両輪が必要なのです。そして従う歩みはやすやすと、楽々とエスカレーター式に天国に入るのではないのです。一段一段信仰の階段を努力して踏み登らなければなりません。
主イエス様ご自身の地上での歩みについて次のようであったと書かれています。「キリストは人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び,完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によってメルギゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」(ヘブル5:7-10)ですから、私たちは、悠長に構えて、適当に、ほどほどにすれば良く、「努力して」とか「恐れおののいて自分の救いの達成に務める」とかは必要ないといっておれません。主イエス様は狭い門から入るための努力を勧めておられるのです。
2 その門は狭いのです。
主イエスは、門は狭いと答えておられます。この狭さはマタイの福音書で言われているような、キリストにある人生の歩み方の狭さ、狭い門、狭い道のようにとることもできましょう。わたしたちが、利己的なしわざ、罪にあたるはなはだしい物欲や、世間的な名声などを背負ったままでは、到底くぐることができないような狭い門というのです。
しかしルカはここで、そのような狭さではなくて、「25-27節」とあるように時間的な狭さ,緊急性、門が開いている間に入らなければならないという狭さなのです。神の国の救いは、このような性質を持っているのです。時が来ると、主人が門をとじてしまうというのです。すると二度とはいれないのです。
そのとき、自分がはいれなかった理由を、どれほど並べ立てても、だめです。主イエス様が提供される機会を利用しなければならないのです。主がさまざまなめぐみの機会を設けて、伝道の門戸を開いておられる間に、招かれ続けているのであり、天国に自由にすぐにもはいることができます。
ところが、多くの人々は門にはいろうとしないで、仲間といっしょになって、門の外で、放浪しているうちに、扉は主人により閉められてしまいました。帰ろうとおもったときは閉め出されているのです。今、信仰に入らなければならいません。
さらに次に大切なことは、入り損なった人に対する主人のことばが、今日の私たちに対する警告となっています。
主人といっしょに食べたり飲んだりしたとか、大通りで教えていただきましたとかいうのでは、だめなのです。キリストの教えに接したことがある、キリスト教文明の一員である。といってもそれでクリスチャンであるとはかぎらないのです。教会に出入りしてその恩恵に浴するかもしれません。しかし、審判者の主人は「あなたがどこの者かわたしは知らない」25.27節「どこの者」とは、その人の本質の由来を問うています。バブテスマのヨハネは「天からか、人からか」とイエスさまが敵対する者に問われたとき、人々は「天からだといえば、ではなぜ彼を信じなかったかとイエスがいうし、人からだといえば、民衆は皆、ヨハネを預言者だと信じているので,私たちを石で打ち殺すだろう」と思い、ついに「どこからか知りません」と答えました。「どこの者」とは、「どこに属する者」か、と言う問いです。どこからの者か、というのです。「神によってうまれかわった人か、地につけるままの人か」というのです。イエス様は本質的に生まれ変わっていない人は、地につけるままの人で、天につける者ではない。それで「知らない」と審判者イエス様がおっしゃることにより、しめだされるのです。このような狭さがあるのです。
自分は信じたからそれでいい、と主人の家の内側にいるべきなのに、外に出たままで入ろうとしなければ、時既に遅しとなる危険性があるのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」これが第一の戒めである、と言われたクリスチャンの道を誤解してはなりません。主人イエス様をあなどり、主人のいましめ、お心を軽んじるものは、時が来て、閉め出されている自分を発見します。
信仰の道を全うするための狭い門からはいるための努力は「規定にしたがって競争するのでなければ栄冠は得られない」(テモテ第二 2:5)といったことばと同じ文脈にあります。
アブラハム、イサク、ヤコブ、すべての預言者たちが神の国に入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、泣き叫んだり歯ぎしりしたりする。
3 今しんがりの者が、あとで先頭になり、いま先頭の者が後でしんがりになります。地上で、どのように先を歩んでいても天ではしんがりになる。しんがりを歩んでいるようでも、天では先頭になる。このことばは神の国ではかくれた戦い、本人のすべての努力があらわになるので、多くの驚きと狼狽がある事を示しています。ユダヤ人たちは神の選びを受けていました。賜物も与えられていました。特権もありました。しかし、それらに頼って生きていても、むなしいのです。傲慢が砕かれて、捨てられたと見られていた異邦人が最も高い栄誉と特権を受け、ユダヤ人が最もひくいことになる。
結び)この世で無視されているけれども、ひたすらに祈り、賢明に戦い、主に付き従った者が、天国では最高の扱いをうけるのです。