2013年2月10日 ルカ14:1-6 「尽きざる、憐れみ」
序文)主イエス様はパリサイ派の指導者の家に、食事に招かれました。大勢の人々が同時に招かれていました。その日は安息日でした。ユダヤ人がお祝いのもとなしをするとき、良く安息日を利用しました。彼らはこの日を厳格な禁欲の日としていたと考えるのは間違っています。彼らは、悪用して、宴会、暴飲、暴食の日に変えてしまっていました。プルタルコス(帝政ローマ時代の古代ギリシャ最大の伝記作家)は「ヘブル人は、お互いの家に招きあって酒宴をするために安息日を守る」と皮肉っているほどです。今日の主題は主イエス様の憐れみの深さを示していることです。
Ⅰ 14:1 パリサイ人に詮索されるイエス
主は、この食事の招きに応じられました.主は、長い苦難と忍耐の公生涯の終わろうとする時にも、なお、パリサイ人たちを真理に叛く者たちとしては取り扱われなかった。むしろ、み国のために彼らを得ようと努力されました。彼らを友人とする機会を求め、応じられました。招く側は好意をもって招いたわけではなかったが、主は最後のチャンスを生かすために努められました。イエス様の行動は失われた者を尋ねて救うという一点において、味方も敵も神様に立ち空けるべき存在という広い視点をもち、憐れみを込めた好意をされました。この心が、招いた側の悪意にも平静に対処された。パリサイ派の人々は「「みんながイエスをじっと見つめていた。」これは「悪意ある目で偵察する」という言葉で、主イエス様をジックリと観察して訴える口実を得ようとしていたといえます。
私たちは誰でも他人の詮索にさらされていることほどつらい事はありません。四六時中、何をしているかじっと見つめられて、そのことごとに批評を受けたら、大抵の人は、神経をいらだたせてしまい、癇癪を起こしてしまうことになります。そして短気は苦痛と傷心の種となる。他人の詮索ばかりか、身内の人からの詮索も同様のことをもたらします。
主イエス様は、そのような毎日の中に歩み続けられました。そしてイエス様の心は驚く程に平静で、その対処のしかたも憐れみの心で一貫していました。何とかして、神の国にひとりでも人を得ようとする愛の心から、そのような詮索をする人々を見ておられました。私たちも、主イエス様とともに歩み、主と共に生きる事により、敵対する者たちに狼狽させられず愛の心で平静に行動したいですね。
Ⅱ 14:2-4 水腫の人を癒す
水腫をわずらっている人がその席にいました。水腫の人は旧約聖書の民数記5章19-22節を読むと、道ならない事をした人に対して、神がのろいをもたらされた証拠として描かれています。それで、ユダヤの律法の教師(ラビ)たちは、水腫を不品行の罰である性病の一種と呼んでいました。当然パリサイ人たちはそのような人を宴会に招き仲間入りさせるはずはありませんでした。ところが、その水腫の人が、この席にかってにやって来たのを幸い、主イエス様を試す丁度よい機会、利用できると考えてそこにおらせたのです。
主イエス様は、彼らの意図を見抜かれました。そして、この人を癒されました。本人は苦しみから解き放たれました.人々の悪意からも解放して、家に帰らせました.
私たちが、イエス様に心を向けさえするならば、神の憐れみをいただけないことは一つもありません。主はご自分から進んで彼を癒されました、人は罪の故に、お互いにさまざまな苦痛や、病いをもたらしてしまい、神が創造において祝福されたいのちを、苦痛の満ちたいのちに変えてしまいました。しかし神はその罪と悲惨の道を永遠のいのちの道に変えてくださいました。「私を信じるものはえいえんのいのちをえる。」とイエス様は約束されたのです。このおこころは、罠をしかけているパリサイ派の頭であっても導くチャンスがあれば、あえて客になられたのと、おなじこころです。水腫の方にも、ここに座っている私たちのためにも、注がれている憐れみと愛のおこころです。
Ⅲ 14:5-6 愛の行動をするように
「安息日に人をいやしてよいかどうか。」について、すでに13章10節以降で詳しくまなびました。ここでは、主がパリサイ人のために、再三、同じ視点から、彼らの間違った信仰理解を正そうとされたことを確認しておきます。
「自分の息子や羊が井戸におちたのに、安息日だからといって、すぎに引き上げてやらない者があなた方のうちにいますか。」5節
この質問は、同時に彼らに対して愛の行動をするようにとの、奨励になっているのです。なぜ、自分を愛するように、あなたの隣人を愛さないのか.自分の所有物にたいするように、助けを必要としている者にたいして、手をさしのべようとしないのか。私が、そうしていることに、なぜ不平をもらすのか。この質問への答えは明白なのです。自分の息子、牛、羊なら、すぐにたすけます。それとおなじように行動する。
彼らに対する、主イエス様の真理に立った行動と教えは、パリサイ人たちの沈黙を持って答えられただけでした。このことから、神に対して心を開こうとしないものは真理にたいして怒る事がわかります。
パリサイ人の信仰生活はささいなことを重大視して安息日に病人を苦痛から解放することを罪と教え、それでいて、自分の息子、牛、羊は助けるといった、陳腐なバランス感覚の欠けた歩みとなってしまっていました。
結び)私たちも、主イエスに結びつくという中心を見失い、主とともに歩むという信仰のいのちを軽んじるならば、全体を見失ってささいなことを全体と見間違え、道をあやまることになります。こころすべきです。
主イエス様の尽きる事のない憐れみを信じて、したがってまいりましよう