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2013年2月17日 礼拝

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2013年2月17日 ルカ14:7-11 [上り道は下り道] 招詞ヤコブ書4:6

序文)パリサイ人の家にイエス様が招かれて、そこに居た水腫の人をいやされた事を、先週まなびました。その彼が喜びながら帰っていったときに、パリサイ人たちは、先を争って上席につこうとしました。彼らはイエス様をためそうとして招いたのに、主がどこに座るかを見ようともしないで、自分たちで、上座の争いをしてしまいました。はしなくも、彼らは常々「宴会の上座、会堂の上座を好む」(マタイ23:5)とイエス様が指摘しておられた通りのことをしました。そこでイエス様は彼らに一つのたとえ話しを教えられ、まことの「謙遜」こそ、神によって喜ばれる人間の求めるべき態度である事をしめされました。この譬えは単なる礼儀作法以上の事を教えておられます。カギのことばは11節「なぜなら自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 Ⅰ 8-10節 たとえ話しの説明

 

 Ⅱ 11節 

 1 これが宴会の席ぐらいの問題ならばまだよいのです。しかし、主が教えようとされたのは、それ以上の事でした。自分を高くするもので、低くされた者の実例は、聖書の中にでてきます。神の御使いたちの中で、自己満足をもって、自分を見つめだした者たちが、天の光から外の暗やみに投げ落とされ、不従順の例となった事を示しています。また、そのかしらである悪魔が、蛇を通して、私たちの最初の両親アダムとエバの心に吹き込んだ思いも、神のようになりたいという高ぶりの毒でありました。それぞれ高い地位から現在のみじめで悲惨な罪の深い淵に落ちました。天においても地においても高ぶりは地獄の門です。罪の根本的な姿が高ぶりにはこもっています。

 自分を高くする。それによって人間は根本的に神に逆らい、神よりも自分を賢いとします。神よりも自分に能力があるとします。悲惨や戦争や流血や自己主義、野心、嫉妬、失意などは、自分自身の高ぶりや、他人の高ぶりによって引き起こされるのです。

 このような高ぶりは神に対してなされるものでありますから、神はそうした者を低くします。罪の結果を問い、地獄に落とします。どれほど多くのひとたちが「神はいない」といって、現実に苦しみを招いていることでしょうか。

 2 このような者たちのために、神が成し遂げられた救いのみわざは終始一貫して、謙遜の中に勝ち取られたものであります。自分を低くする者で、高くされた最高の実例のお方は、神のみ子イエス・キリストご自身です。

 神のみ子は天の栄光の座から、この汚れた地上に来られました。ご自分を無にして仕える者の姿をとり、地上生涯を全うし、自分を卑しくし、死にまでも従われたのです。それゆえに、神は、キリストを高く上げられました。神の栄光の右の座にまで引き上げられました。悪魔が高ぶりにより、地獄を私たちに日々に提供するとき、第一のアダムの罪への堕落が、その影響力とともに、私たちを苦しめました。第二のアダムとなって下さったイエス様は謙遜によって天国を私たちに日々提供しておられるのです。謙遜の力を、いのちを、わたしたちに与えて、神のみ前に本来あるべき立場へと私たちをたたせてくださるのです。

 ですからイエス様の十字架により、救いにあづかった一人一人には、イエス様の特徴である謙遜の徳が宿っていなければなりません。

 

3 イエス様は弟子たちにいくたびも、この「謙遜」について教え示されました。あるときはことばを変えて「あなた方の間で、人の先に立ちたいと思うものは、あなた方のしもべになりなさい」と本気で忠告されました。 

 主に従う一人一人の道は、自分を神様の目に低くする道であります。それは他の人々に仕えて行く道です。神の国において偉くなろうとするならば、へりくだる道しかないのです。そしてそのような道は、謙遜のいのちである主イエス様に心のうちに住んでいただく以外にないのです。

 私たちは熱心で活動的な信仰もっているかもしれません。しかし謙遜が欠けていることもありうるのです。弟子たちが最後の晩餐の席上でも、なお、誰が一番偉いかと論じ合ったことを覚えておきましょう。個人的な努力や、外からの教えも実のところ高ぶりを克服し、やさしいへりくだった心をもたらすには無力なのです。聖書にこの上座を選ぶというたとえ話があるので、今日、多くの人々が虚偽の謙遜によって末席を選び、主人のすすめによっても容易に席をたとうとしないために時間が空費されることもしばしばです。この課題を避けるために大抵は座席指定をするようになりました。

 自分を低くする者とは、キリストの心を心とする者です。それは聖霊によって与えられるいのちであり、変化であり、力です。自分に死に、キリストに生きることが、謙遜の徳を身に付ける道です。それは自分の罪に日々に死にキリストのいのちに日々に生きることです。結局のところ、謙遜は招いた主人の判断にまかせること、神の判断に全部任せることなのです。そうしたら、神があなたを生かしてくださるのです。用いてくださるのです。神が高くしてくださるのです。神があなたを許してくださるのです。聖めてくださるのです。

Ⅲ 福音の力によって

謙遜のために、何が必要でしょうか? 救いの始まりにおいて、主イエス様の十字架のうちに、神のめぐみを発見せしたのですから、現在も日々に発見しつづけることです!イエス・キリストの十字架にくることは、まさに一回だけでよいはずはなく、常にプロセスとしてくるべきなのです。使徒パウロは書いた。「あなたがたはこのように主イエス・キリストを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。」聖書は私たちに「神が高ぶる者に敵対して、へりくだる者に恵みをくださる。」と告げている。

謙虚に神に来ることは、イエス・キリストの十字架を通して、キリストにくることを意味している。ガラテヤ6:14でパウロが書いている。「私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって世界は私に対して十字架につけられたのです。」神があなたにだんだんと罪を示されるとき、あなたは、赦されるためばかりでなく、変化する力のためにも、十字架のイエス・キリストに謙虚に再び、再三、度々くることを学ぶのです。神の変化させてくださる恵みの流れが、あなたの生活にそそぎ入れられ始めるのは、十字架においてのみです。水のように神の恵みと力が常に低い所に流れ下るのです。

神の現臨と力の現れが、今日、それほど多くの生活と宣教にあらわされていないのは、何故かという理由は、誇りと自己過信の罪の故です。聖書は神の臨在と力は謙虚と悔い改めた心以外のいかなる場所にも示されないと教えています。

 

結び)イザヤ66:2「主は言われる。私が目を留める者はへりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」恵みのパラドックスは、上がり道は下り道!

福音の良きおとずれ

あなたは赦された!

あなたは受け入れられた!

あなたは神の子とされた!

あなたは一人ぽっちでない!

あなたは自由である!

あなたの生活のどの領域で、誇りと自己信頼の罪が明らかであるか?

どのようにしてこれを悔い改めるか? 十字架の上に謙遜の鍵があるのです。

 

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