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2013年2月3日礼拝 

130203_001

礼 拝 式 順

司 会     廣橋嘉信牧師

奏 楽   園田理恵姉妹 Vn.石川絢楓姉妹

前 奏      

神の招きと賛美

司式者:主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

会 衆:さあ。主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで」と。

司式者:主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。

会 衆:主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

讃 美 歌         62 番 主イエスのみいつと    

開会の祈り

司式者:祈りましょう。「全能の神よ。すべての者はあなたに向かって心を開きます。あなたはすべての願いを知られ、御前には隠されていることは何一つありません。どうぞ聖霊によって私たちの心の思いをきよめてください。あらゆるものを持ってあなたを愛し、ふさわしい仕方であなたの聖なる御名をほめたたえられますように。私たちの救い主キリストの御名によって祈ります。アーメン」

罪の告白の招き

司式者:神の御前に、またお互いに罪を告白しましょう。

ヨハネ第一の手紙1章8-9節「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

罪の告白の祈り

会 衆:あわれみ深い聖なる神よ。御前に私たちの罪と過ち、あなたへの背きを告白します。あなたは、私たちがどれほどしばしば罪を犯したのかよくご存じです。私たちは、あなたの道からさ迷い出て、あなたの賜物を無駄にし、あなたの愛を忘れました。主よ。あわれんでください。私たちは、あなたのみ心に背いたすべてのことを恥じています。今、御前にへりくだって悔い改めます。どうか、私たちの罪をお赦しください。あなたの道を歩み、光の中を生きていけるように助けてください。私たちの救い主イエス・キリストの御名によって。アーメン

個人的な告白 ( 黙祷のうちに )

赦しの確証

司式者:赦しを与える福音のみことばを聞きましょう。

(ローマ8章34 節)(第二コリント人への手紙5章17節)

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

会 衆:アーメン

平和のあいさつ

司式者:神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。

会 衆:主の平和があなたとともにありますように。

讃 美 歌   354 番 かいぬしわが主よ   

執事任職式               

みことばの宣教

聖 書 朗 読     テモテ第一の手紙 3章 1-13節                           

聖書の話し      「神の教会の世話 」  朴 柱炫教師候補者

讃 美 歌      138番 ああ主は誰がため         

聖晩餐式

[制定のことば] 牧 師:私たちの主イエス・キリストが聖晩餐を定めた制定のみことばを聞きましょう。コリントへの手紙 第一11章23〜29節

[聖晩餐の教え]いま私たちが執り行おうとしている聖晩餐は、主イエス・キリストを思い起こし、交わりを喜び、御国の訪れを待ち望む祝いの礼典です。今、思い起こしましょう。私たちの主イエス・キリストは、御父のもとからこの世に遣わされ、私たちのために神の律法を成就し、十字架の苦しみと死を耐え忍ばれました。主は、ご自身の死とよみがえりによって、恵みと和解の新しい永遠の契約を結んでくださいました。神を受け入れる人は、決して見捨てられることはありません。今、主イエス・キリストとの交わりを感謝しましょう。主は世の終わりまで、いつも私たちとともにいてくださると約束してくださいました。パンを裂いて食するとき、主は永遠のいのちのパンとして私たちを強めてくださいます。また、杯から飲むことによって、主は私たちのうちにとどまり、豊かな実を結ばせてくださいます。

さあ、信仰をもって待ち望みましょう。パンと杯は、やがて御国が成就することのしるしであり保証です。栄光のうちに顔をあわせて主にお会いするときに、私たちは永遠の愛の祝福を味わうのです。

[聖霊を求める祈り]私たちの主なる神よ。どうぞ聖霊をお注ぎください。このパンと杯を聖別して、キリストのからだと血の聖餐に与らせてください。    あなたの御霊によって、私たち主にあるすべての者を、生けるキリストにあって一つにしてください。主への信仰と希望と愛を保ち続けられますように。主よ。あなたの栄光の御国に私たちを呼び集めてください。

[陪 餐 招 き]主イエス・キリストにある皆さま。主はご自身を愛する者、救いのために主にのみ信頼する者を、この聖晩餐の食卓に招いておられます。すでに洗礼を受けている方は、いずれの教会の信徒であっても、パンと杯をお受けください。まだ洗礼を受けておられない方、また、幼児洗礼を受けても信仰告白をされていない方は、どうぞ今日、主イエス・キリストを受け入れて、一日も早く陪餐する日を待ち望んでくださいますように。このパンと杯は、神の民のための神からの賜物です。傷んだたましいをいやす力です。どうか主イエスがすみやかに来てくださいますように。

[分 餐] 配餐者:那須宗泰長老 大場清文長老

牧 師:また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子達に与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」(マタイ26:26) 分餐します。

牧 師:これはあなたがたのためのわたしのからだです。私を覚えて、これを行いなさい。

会 衆:アーメン(と言って食す)

牧 師:また杯をとり、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。私の父の御国で,あなた方と新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マタイ26:27-29)分餐します。

牧 師:この杯は,私の血による新しい契約です。これを飲むたびに、私を覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

会 衆:アーメン(と言って飲む)

[祈 り]恵みの神よ。御子イエス・キリストは、パンと杯によるこの聖なる食事を定めてくださいました。それゆえ、私たちはこれによって、キリストの体と血に与るかることができたのです。心より感謝と賛美をささげます。主が定めたこの大いなる愛のしるしを祝う者たちが、自分の歩みを通して贖いの実りを結ぶことができますように。永遠の御国に至るときまで,キリストとの交わりと聖霊の力によって私たちを強めて下さい。私たちの主イエスキリストの聖なる御名によっていのります。アーメン

献 金        感謝の祈り          芹田姉妹

頌 栄         541番 父、み子、み霊の

祝 祷

後 奏      567番 アーメン・アーメン・アアアアメン

 

2013年2月3日主日礼拝

聖書:第一テモテ3:1−13

説教題:「神の教会の世話」

序文)私たちは前回の説教で、公の礼拝における男と女にふさわしい姿を学びました。今日は監督、すなわち牧師と長老などの教会の指導者、執事について学びます。聖霊様の助けを求めながらともに学びましょう。

1. 監督について

パウロは3章からは監督と執事について教えています。まず、監督の職という言葉は世話をする、監督する意味です。第一ペテロ2:25節ではイエス様はたましいの牧者であり監督である方だと書いています。それと同じ言葉です。ですから、監督の働きはイエス様の働き、すなわち牧会に関係があることが分かります。今日は神様の民を世話、すなわち牧会するために召された牧師と長老たちと教会の指導者たちを意味します。初代教会は監督になることは完全な献身と犠牲を要求される大変難しい働きです。しかし、それは神様に栄光を返す働きでもありました。また、それが職であると教えています。ですから、パウロは「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。と励ましています。パウロは監督の職はすばらしい仕事であるから、2節から監督に求められる15の資格を教えています。一つ目は非難されるところがないことです。非難されるところがないというのは攻撃を受けてない意味です。それは監督の尊い権威が守られるために生活の非行がない意味です。二つ目はひとりの妻の夫であることです。それは必ず結婚した者であるか、再婚を禁じている意味ではないです。ただし、一夫一妻であることと監督は自分の妻に忠実であるという意味です。三つ目は自分を制することです。この言葉は酒に酔う状態ではないという意味から派生した言葉で、「まともな、慎重な」ことを現す言葉です。ですから、監督は酒と他の肉体的な欲望を避けて、霊的に覚めている状態を保つ必要があります。四つ目は慎み深いことです。これは健全な精神、自制が出来る、落ち着いているという意味です。ですから、突然の衝動に左右されることではなく、常に分別力を持って行動するのです。五つ目は品位があることです。これは秩序があり、礼義が正し、名誉がある意味の言葉です。度を超えないおとなしさと丁寧な行動をすることです。六つ目はよくもてなしをすることです。この言葉は旅人を愛するという意味の言葉です。1世紀のキリスト者は旅をする時、異教の旅館は避けました。それで、彼らは泊ることが出来るキリスト者の家を探しました。キリスト者の家で彼らを受け入れて、もてなしをすることによって遠く離れたキリスト者たちの事情を分かるようになりました。それで、お互いに知ることになって祈りと交わりが深めるようになりました。ですから、当時、このようなもてなしは大切な信仰の美徳でありました。七つ目は教える能力があることです。これは話が上手な人という意味ではなく、神様のみことばを生活に適用できるように霊的に教える力を意味します。また、未信者を伝道し、神様から委ねられた羊たちを牧会して、みことばでよく養育する力を意味します。八つ目は酒飲みでないことです。それは酒の隣に長く座っている人から由来した言葉で、酒飲みでないし、酒を通して心の安楽と快楽を求める人でないという意味です。九つ目は暴力をふるまわないことです。それは気が短いから暴力をふるったり、自分の主張だけをする言語的な暴力も含まれます。十番目は温和であることです。これは正確に翻訳が難しい言葉でありますが、好意的、親切な、忍耐強い、憐れみ深い、寛大な、情が深いなどに翻訳されます。聖書に逆らうことでなければ、自分はどんな損害と辛い事であっても受け入れることが出来る意味です。十一番目は争わないことです。これは寛容の意味で、自分の主張だけではなく、他人の意見をよく聞いて受け入れることを意味します。十二番目は金銭に無欲であることです。それは不正な方でお金を集めないことと人生の第一の目的が金銭を集めることでないことを意味します。十三番目は自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。よく治めという言葉は前に立つ、前に置くという意味です。それは先に行う意味です。すなわち、全ての行いで子どもたちの模範になることです。それで、子どもたちは両親を敬い、信頼を持って、礼儀作法がきちんとした者になります。また、監督は子どもたちの信仰の育成においてもその品性を失うことなく、子どもたちを真理に導くことに力を入れることを意味します。その理由は5節で、自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。と書いています。家庭は社会集団の一番小さいものです。ですから、一番小さいものを治めることが出来ない者は教会もよく治めることが出来ないことです。教会はギリシャ語でエクレシアです。それは正式に集まる市民の政治的な集会の意味でしたが、だんだんイスラエルの宗教的な集会に使われるようになりました。後にはキリスト者の集まりを指す言葉になりました。従って、教会は建物を指す言葉ではなくキリスト者の共同体です。教会は家庭と似たところが多いです。牧師、長老たちに対する権威は家庭の家長としての権威と似ています。また、キリストの血によって集まった兄弟姉妹もそうです。ですから、そのような意味では教会は大きな家庭だと言えます。十四番目は信者になったばかりの人は避けることです。パウロは信者になったばかりの人にはこのような大切な職務を任せないと教えています。確かな召命と治める力がない者が突然に大切な役割を任されると自分は高い地位をもらったと誤解し、高慢になりやすいからです。また、その理由をパウロは悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。と書いています。悪魔はその始まりは神様の被造物として作られた天使だったが、自ら高慢になり堕落したゆえにさばきを受けるようになっています。それと同じように高慢な者は厳しいさばきを受けることになるので注意を払うべきです。最後の十五番目は教会外の人々にも評判の良い人です。当時、キリスト教を迫害した時代的な背景を考えるととても難しいものです。しかし、教会が無駄な攻撃を避ける為には妥当なものです。牧師と長老は教会外の人々にも評判の良い人である必要があります。教会の指導者が世の人々に良い評判をもらうことが出来ない場合、教会とその教会に属している人々も正しい評判を受けることが出来なくなります。キリスト者は天の国の市民でありながらこの世にも属する者です。ですから世との関係を無視することはできません。ここで、パウロが意図しているのは教会の指導者が世の人々にへつらうことではなく、正直で模範的な生活を通して認めてもらうことです。それは、そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。と書いています。教会外の人々にも評判の良くない人はよく批難を受けるようになります。それは、悪魔が信仰の弱い人々を捕まえるために置いてあるわなです。

2.執事について

パウロは13節からは執事について教えています。執事の資格も監督の資格と似たところが多いです。執事はギリシャ語でしもべという意味を持つ言葉で、食事の時、世話をする人たちを意味します。この言葉が初代教会に仕える者、奉仕する者の意味で発展しました。執事という表現は使徒の働きの6章で初めて登場します。エルサレムの教会の使徒たちは祈りと御言葉を伝えることに専念するために貧しくて、困難な教会の人々を経済的に助ける救済の働きのために七人の執事を選択しました。執事という人は教会の霊的な生活と財政を管理する人と奉仕する人の意味で呼ばれました。それは、執事が他の人を指導する立場ではなく、世話をし、仕えることに自ら犠牲を払う人であるという意味です。パウロは「執事は謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。」と教えています。謹厳であることはその行いがしとやかで、品があり、しっかりしていることです。二枚舌を使わずとはこの人にはこのことを話して、あの人は同じことでも別のことを話すことで、二重的な言葉使いをすることの意味です。それは、信頼感が無い言葉使いをすることの意味で、誠実でない態度です。執事は公明正大な立場で、誠実な言葉使いが必要であります。「大酒飲みでなく」とは多くの酒に心が捕らえていないことです。酒にふけっていないことです。不正な利をむさぼらないことは不正な手段を使ってわずかな利益を得ることをしないことです。また、正当な方法であっても過渡な欲望によるものは汚れたものであります。それは初代教会の執事の役割を考えると貧しい兄弟姉妹に分けるために集めたものを勝手に使ったり、それを利用して利益を得るような行動を避けるための教えです。また、このようにキリストのために委ねられた職務に努める者はきよい良心をもっている者です。それは良い良心、すなわち、キリストの血によって清められた良心です。それと同時に執事は信仰の奥義を保っている人です。信仰の奥義とは長い間に隠されていったものがついに選ばれた人々に公開されたという意味です。それは聖霊によって啓示されるイエス・キリストの救いの奥義です。従って、執事は信仰の奥義を保っている者、すなわち、イエス・キリストの教えに従って、神様を恐れ、キリスト者として正しい知識を持っている者です。パウロは「執事はまず審査を受けさせなさい。」と命じています。それは期間を決めて合格の有無を決めることではなく、この人の真実性と救いに対する確かな信仰を持っているかを審査するという意味です。8節、9節に書いているように執事に選ばれる人はうわさで評価するのではなく、必ず教会全体の調和と観察を通過する必要があります。これは三つの段階がありました。それは試験と試験に対する証明、そして、その試験の結果に対する認定がありました。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。と命じています。11節からは婦人執事に対する教えです。パウロは「婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」と教えています。悪口をすることは非難する、嘘で告発する意味です。特にこの言葉は牧会書簡だけに現れる言葉で、初代教会に要求されるものであり、今日も警告されるものです。自分を制することは酒や肉的な快楽を避けて、霊的に覚めている状態を意味します。すべてに忠実な人とは教会の働きをする人は自分に与えられている職務と使命に忠実であることです。それで、信頼が出来る人になります。パウロは執事も「ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」と教えています。パウロは13節では執事の職務を忠実にした者がもらえる祝福を教えています。その一つ目は良い地歩を占めることです。二つ目はキリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができることです。良い地歩を占めることは教会の中で地位が上がる意味ではなく、忠実に働く姿を人々が認め人々から高い評判をもらうことを意味します。また、信仰について強い確信を持つことはキリストに仕えることにもキリストの福音を伝えるにも大胆になる意味です。その大胆さはキリスト・イエスの中にある信仰につながっています。ですから強い確信と大胆さはイエス・キリストを頼ることによって可能になります。

3.結論

パウロは人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることであると教えています。監督、すなわち、今日の牧師と長老と教会の指導者に求められる15の資格を教えています。すなわち、「非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。また、信者になったばかりの人でなく、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。」と教えています。また、執事も「謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人で、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」と教えています。「婦人執事も、威厳があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。」と教えています。パウロは教会の監督、すなわち、今日の牧師と長老と執事になる人はとても厳しい基準があると教えています。それぐらいに、この働きは尊い働きであり、重大な働きであるからです。多分、皆さんは今日の聖書を読み始めて半分ぐらいで自分と関係ない遠い存在の人の話だと思うかもしれません。それは牧師であれ、長老であれ、執事であれ、皆、同じだと思います。この厳しい基準に完全に満たされる牧師と長老、執事はどれくらいいると思いますか。多分、ほとんどの人は牧師や長老と執事の職を辞めざるをえなくなるでしょう。聖書に従って基準に満たされない人は皆やめるべきでしょうか。それも一つの方法であるかもしれません。しかし、やめたり、落胆する前に、読まなければならない大切な聖書の教えがあります。それは第一テモテ1章12節から17節までです。私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが、世々限りなくありますように。アーメン。」そうです。私たちからではなく、神様が私たちをこの務めに任命して、私たちを忠実な者と認めてくださったからです。しかも、私たちが罪人であった時、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者であった時でした。私たちが神様に何か良いことをしたから忠実な者と認めてくださったのではありません。全くその反対です。神様が全く資格も条件も満たされない者に対して、あらかじめ偉大な計画を始め、それを一人一人に実行しています。それが私たちに対する神様のあわれみです。そのあわれみの上に全てを始めたことで完成に至のです。それが私たちの教会の働きの基本です。監督と執事の資格を見ると偉い人だと思うかもしれません。確かにそうです。しかし、その監督と執事になる人を日々導きイエス様に似た者に変えられ準備させ、その職務を任命する方は神様です。全てが神様の御業です。ですから、神の教会の世話をする者はイエス様に似た者にならなければなりません。模範にならなければなりません。ですから、教会は祈りと聖書に従って、その信仰と生活をよく見ながら相応しい者を選ぶ必要があります。教会から選ばれた者は高慢にならず、その成熟した姿に変えられるように熱心に祈り、自分の成長に前進する必要があります。また、この働きは今後イエス様を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にするものであることを忘れてはいけません。神様は神の国の仕事、すなわち神の教会の世話の仕事を人に委ねています。この働きはとても大切で、失敗すると非常に大きな影響があります。しかし、それにも関わらず、神様は全く資格も条件の満たされない者たちを信頼して、何も出来ないし、下手な者に対して忠実な者だと宣言しています。ですから、私たちは自分の召しに死に至るまで忠実に行うべきです。なぜならば、神様は私たちのこの名誉がある働きに対する素晴らしい約束も与えているからです。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。黙示録2:10

 

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