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2013年4月21日 礼拝

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2013年4月21日 聖書 ルカの福音書15章11〜32節 讃美歌 86番 525番

 説教題「恵みの福音による再生」 副題「失われた二人の息子たちへ」

 説教を始める前に、お断りしておきますが、今朝の説教の文脈の発見は、2000年1月にアメリカのオーランドにある改革主義神学校で エドマンド・クラウニー博士とティム・ケラー牧師の二人の先生方から受けた特別講義に負っています。先生方は、私たち受講者に「キリスト中心の聖書理解」「ポストモダーンにおける福音説教」という講義をしてくださったのです。以後、11年間、多くの発見をさせていただき、感謝しています。その発見のお裾分けです。では祈りましょう。

 序文)読んでいただいた聖書の箇所は、通常は「放蕩息子」の話しとして、伝道会などでたびたび話されます。しかし今朝は、全体の文脈からの解きあかしをお分かちしましょう。自分が放蕩息子であるか、品行方正な兄であるかを思いましょう。あなたの人生が不道徳であるか、道徳的であるか、非宗教的であるか、宗教的であるか、そのどちらであるかにかかわらず、第三の「恵みの福音により生きる道」があることを知りましょう。いずれの生き方をしている兄弟をも愛してやまない天父の存在と、救いのために,「まことの兄が」払われた尊い犠牲と、最終的に御国の聖晩餐式における祝いの筵を想定した、天父が主催される大宴会に思いを馳せることができるなら、喜びと感謝に満ちて、主イエス様にお仕えできることと信じます。

 イエス様が、話しをされた対象:主イエス様は、この話しを取税人、罪人に話されたのではありません。みもとに近寄って来て話しを聴こうとしている取税人、罪人に対して パリサイ人と律法学者がつぶやいて「この人は罪人を受け入れて、食事まで一緒にする」と主イエス様を非難したので、それに対して、たとえ話しを用いて答えられた内容なのです。ですから、パリサイ人と律法学者たち、すでに神様を知っていると思っている宗教的な人々へのたとえ話しなのです。 

 パリサイ人、律法学者たちのつぶやきはどこから来たか。それは聖書を解き明かす「新人」である主イエス様に対抗した、自分たちの既得権からくるプライド、自己中心、自分たち仲間同士のなれあいなどからなのです。主イエス様は、このたとえ話において、イエスの福音の恵みによって生きる人生へと新たにあなたを招いておられるのです。 

 Ⅰ 主イエス様の答え 11〜24節 放蕩息子のたとえ。自分の家の変化の無い毎日、刺激に乏しい日々から逃れたい。隣近所の目、何でもすぐに知られてしまう息苦しさからの自由を求め、そのためにお金が必要。父親から財産の生前贈与を奪うようにして求め、自由を体験するために、欲と二人ずれで、受けた二分の一をすべて湯水のように放蕩に使い果たした。豚の世話をするほどに身を落とした。お金がすべてであると思い込んでいた人生に、お金で失敗した。食べるものもなく、豚の食べるもので満たしたいと思うほどになった。これほど不自由になるとは。そのとき彼は、我に返った。暖かい家庭をおもいだした。家庭が果たす役割は大切ですね。反抗している弟を、我に返らせるだけの霊的な養いがかつてあった。父のもとに帰ろうとする暖かさを彼は思い出した。心から悔い改めて「おとうさん、私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」家族にたいして罪をおかしているだけではなく、天の父にたいする罪であると自覚した。

 ところが、父親は「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足に靴をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて祝おうではないか。」

 神の元から遠く離れている、心が遠く離れている、神を愛していない、そのような私たちであった。家族さえも疎ましく思い、それでいて、自由を謳歌できると思い込んでいる。そのような生活で挫折をたくさん経験し続けている。

 父を振り切りたいと願っていた放蕩息子の戻ってくるのを毎日のように待っていた父が、全面的に一方的に愛もって受け入れた。その理由が「この息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」

 神様に創造された私たちが、天父よりも、お金が第一、否、すべてとその力に頼り切って、使い方を完全に間違ってしまっている。この弟息子は、父親からもらった財産を放蕩に使い果たした。理不尽な使い方をしてしまった。罪の深みに陥り、自分をどんどん失っている生活を日々に送っている。これほど創造主から見ると理不尽な生き方はない。神の前に「死んでいる」との判断であった。「あなたがたは以前は罪過と罪との中で死んでいた者であって」(エペソ2:1)。しかし、神の前に悔い改めて戻ってきた者たちは「生き返った」と行って最高のもてなしを持って喜んでくださる。放蕩息子は、主イエスのそばに来た、取税人、罪人をさしている。それは私たちである。理不尽な人間を赦すために、天の父が示した愛は、理不尽な愛なのです。十字架に御子イエスを架けることで救おうとされたほどの理不尽な愛なのです.途方もない愛なのです。多くの人が、他のひとから自分に向けられた理不尽な事柄を赦せないと思い、赦さないと心の中で叫んでいます。本当にゆるすためには、それらを上回る愛が必要なのです。天の父はそれを私たちに示されました。この天の父の理不尽な愛を心に与えられた者が、同じ愛を発揮することができるようになるのです。ギブアンドテイクではない、一方的な愛です。

 Ⅱ 兄はどうでしょう。兄は、父親のことを怒っています。責め立てています。話しに出てくる兄は、パリサイ人、律法学者をさしています。イエス様を責め立てているのです。兄は明らかに父親の心から遠く離れています。弟のお金の使い方に怒っています。それだけではなく、父の帰って来た弟に示した財産の使い方にも怒っています。また、自分は父親に全く従っているのにと言っています。完全に宗教的に、全く模範的な道徳的な生き方をして来ましたと言っている。宗教的には品行方正なのです。でもそれは、自分が自分の救い主であって主イエスさまではない。兄は父と共に歩いていると思っていた。実際には、心は遠く離れてあゆんでいた。兄は自分の生き方に義を見いだしていた。自己義認であて、信仰義認ではない。行為義認であって、愛と憐れみによる義認ではない。兄は、神様に向かって祈っているのですが、悲しく、怒りが溢れ、恨みがあるのです。パリサイ人の祈りであり、律法学者の祈りです。人生や神様に対して怒りを覚えているのです。兄は神様に対して貸しがあるとおもっているのです。自分のために子山羊一匹くださったことがありません。くださっても良いのにという風です。自分の生活は一向によくならないではないかと?祈りは神を喜ぶこともあるのに、楽しむこともあるのに、一切ないのです。

 そのような兄に対しても、天父は、説得します。「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえの物だ。」兄は忘れていました。神は共にいることを。一緒に住んでいたのです。否。わたしたちを聖霊の宮にしてくださっているのです。いないときが一瞬もありません。兄は忘れていました。全財産は弟と二分の一にされた時からずーっと自分のもであったことを。どのように使っても良い状態でした。しかし彼は単なる財産の管理人ぐらいにしか自分のことを思っていなかったのです。クリスチャンであることのセルフイメージが、低すぎたのです。本当は神様が与えてくださっているすばらしい神に子の特権と権利とにおいて、高く、御子と同じ状態に養子されていることを忘れていました。キリストにあって、私たちは共同の相続人です。「もし子供であるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光を共に受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)。天父は、この兄に自分が置かれているすばらし現実を見直すように、受け入れるようにと説得しておられます。兄にも神の愛は注がれているのです。兄は説得を拒否しています。受け入れませんでした。兄は理不尽な生き方をしてしまった弟が罪を悔い改めるのは当たり前であるとさばいていました。しかし兄は自分の正しい生き方を悔い改めなければなりません。主イエスの福音が、なぜ必要なのかを理解するはずでした。自分を義とするほどの宗教的正しい生き方は、主イエスを不必要とするのです。正しい故にパリサイ人たちは悔い改めなかったのです。主は彼らにそのままなら地獄に堕ちると警告されました。律法による義では救われないのです。福音の恵みのより信仰による義しかだめなのです。

Ⅲ 私たちが学ぶべきこと。天に本当の兄がいることを知ろう!

 先ず弟が家に帰るために、何を天父は払われたのか?

  父は二人の息子に全財産を二人に分けて与えられた。弟は使い果たした。兄は残り全部彼の物であった。弟歓迎で父が用いた肥えた子牛、一番良い着物、指輪、靴などのすべては、実は兄の財産であった。

 彼が本当の兄ならば、自分で弟を捜しに出かけ、見つけたならつれて帰るだろう。自分の財産を使ってお祝いの会を開くだろう。そうしなかった。自分の財産を父が、このような弟のために使っていることを怒っている。兄はパリサイ人と同じであった。兄は長男であった。

 私たちの信仰の長男は主イエスです。「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こういわれました。神の御使いたちは皆、彼を拝め」(ヘブル1:6)。「御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。

 本当の神の長子は、自分で、私たちを救うために、この世にさがしにこられた。犠牲として、十字架の上で自分の命を注ぎだしてまでしたのです。裁きの杯を最後まで飲み干してくださった。血潮はすべて流された。救おうとしてくださった。救ってくださった。すべてを成し遂げてくださった。本当の兄がしてくださった犠牲を思うと。ただただ感謝のほかはない。私たちは神様にたいして「あなたは私のために子山羊一匹くださったことがありません」などといえるでしょうか。断じていえません。むしろ注がれた憐れみへの感謝の他何もありません。この恵みに深く感動して、主に喜びを持ってお仕えすること、こそ、すべての信仰生活の動機でありましょう。受けた恵みに感動して喜びながら仕える人生こそ、第三の生き方です。この一方的な恵みをくださっている主イエス様こそ、まことの救い主です。この方を受け入れて、第三の生き方を歩み始めましょう。

 結び)恵みにより救われた私たちが、賜物を生かしてお仕えすることは、義務でも嫌々でもなく、ましてや人生の優先順位で第三、第四、最後にくるような、あなたのおあまりを主イエスに捧げるような軽く浅い救いではないのです。深い感動を持って天父の愛に揺り動かされるほどの感謝喜びを持って仕えざるをえないほどの救いなのです。いろいろの奉仕の中で、愛に動かされて教会の頭である主のために、何ができるでしょうか。それは一人一人が賜物を地中ふかく隠してしまうことなく、天父の注ぎ続けておられる愛に応えて、仕えることではないでしょうか。神様は、私のために何もしてくださらないと心の中でつぶやいてはいないでしょうか。福音の恵みに立ち返りましょう。感謝を新たにしましょう。私たちを通して、神様、この町に福音の恵みと愛を流れださせてくださいといのりましょう。天父は、弟も兄も愛してくださっているのですから。神の備えられた天の宴会に招いておられるのですから。

 

 

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