2013.8.11 「謙遜な悔いた心」 ルカの福音書18:9-14
序)主イエス様は人間が神と仲間にたいして、どのような心であるべきか、その関係をたとえ話しでおしえておられます。その一つが今朝の箇所です。語りかけられた相手は「自分を義人だと自任し、他の人を見下している者たち」でした。この人々の特徴は、自分自身に大変な自信を持っていてうぬぼれていること、自分で神様の前に義人だと確信して自任していたこと、他の人を見下していることでした。傲慢な人だったのです。その自己義認の傲慢な人とは、譬えて言うと、どのような人かを、イエス様は祈りの例で解き明かされました。
Ⅰ 9-12節 主イエス様のたとえ話し
二人の人がいました。祈るために神殿に上ったのです。一人はパリサイ人でした。もう一人は取税人でした。エルサレムでは敬虔な人は定められた時間に、日に三度(朝9時、正午、午後3時)の祈りを守りました。特に神殿で祈る事は効果があると考えられ、その時間には多くの人が祈るために神殿の庭に集まりました.パリサイ人が祈りました。10-11節。
パリサイ人は宗教的な人でした。祈っている人です。規則正しく礼拝している人です。彼は正統派で正しく一週間に二度の断食もしているほどで、熱心だったのです。10分の一の捧げ物を欠かさずにしていました。これらの告白は、嘘ではなくて、その通りだったのです。以上は彼の長所でした。
しかし彼に間違ったところがありました。それは神に義とみとめていただけない点でした。神に対する彼の心が間違っていたからでした。彼の祈りから知られる事は、この祈りは本当に神様に向かってしたのではないとイエス様が見抜いた事でした。11節「立って心の中でこんなおいのりをした。」「心の中で」とは、原語では「自分自身に向かって」という言葉使いです。彼は自分自身に祈ったのです。神を前にして、彼は自己推薦の演説をしたにすぎません。この内容からいって、彼は自分がどんなに義人であるかを、神様に知らせにいったにすぎません。自分の良さに信頼をおいていたのです。彼は自分の生活態度を神への感謝という形で神様に売り込んだのです。そして祈りの中で、他の人を見下しているのです。「ことにこの取税人のようではないことを感謝します。」他の人のようではない。自分は特別で他の人のようではない。この取税人のようではない。判断が誤っているのです。取税人=揺する者、不正を行う者、姦淫のする者としたのです。祈りの中で他人を非難しながら祈る必要はないのです。パリサイ人は、他の人々を自分と比べてみたが、神の聖さと自分を比べはしないのです。もしそうしていたならば、自分が罪を犯して苦しみと悲しみに沈んでいる人間の一人である事を自覚して、ただただ神に憐れみにひざまずくほかなかったはずでした。
Ⅱ 13-14節 主のたとえ 取税人の心
取税人はパリサイ人とは全く違っていました。礼拝場から遠くはなれて立ち、目を天に向けようともしないで、胸をうち叩いて哀願しています。「神さま。こんな罪人のわたしを憐れんでください。」この祈りは自分のしたことへの悔い改めとへりくだりがあります。こんな罪人と自分を認めています。そして神のあわれみによりすがっています。彼が神殿にくるたびに、このように祈るほかはなかったのだとおもいます。
神に受け入れられ、義と認められたのは、この取税人だったのです。これが神の裁きでした。自分の義、良さを誇るものは、そのようにして、神にきてはいけないのです。自分を義人とする者は、神により罪ありとされました。他方、自分の罪の赦しを求めるものは、その信仰を義と認められた。パリサイ人は自分を申し分のない者といったときに、神は彼を全く正しくない者といわれました。取税人は自分は全く正しくない者です。あわれみをくださいと求めて、神は、わたしの目にあなたは正しい者とおっしゃいました。
クリスチャンの信仰生活は、神の前に心砕かれた罪人として謙遜な悔いた心をもっておくり、神のあわれみに自分をゆだねなければなりません。そこにとどまり続けます。自分のわざやすべての自慢や自己信頼は排除してへりくだって、あわれみの中にゆだねるのです。
このパリサイ人のいった事に嘘は無かったでしょう。しかしそのようにできる生活がこわれても、なお、彼の中に信仰が残っているでしょうか。日々に神様に出会い、へりくだり、憐れみの中に生かされている事を自覚して、神を見上げてゆくならば、順境も逆境も変わりなく、神様を頼って進むでしょう。
神への心の態度において、わたしたちは、どちらでしょうか?
自分の義を押し立てて神の前に出ようとする、他の人々を非難して自分の欠け目よりも、他の人の欠け目がすぐに見つけることができ傾向を持っているならば、パリサイ人のようでないかと反省しないと行けません.それは悔い改めて、憐れみを求めないと危険です。
私たちが取税人の立場に立たされたことがあるでしょうか?ただ神様のあわれみによりすがり、失われた罪人であることを認めて、希望を神にのみつないで立っていた事があるでしょうか。それならば正しい第一歩を踏み出しています。もしそうでないならば、神のみ前での正しい心の態度をもっていないのです。
いま大切な事は、理論ではなくて、そのように悔いた心で神様に祈ったかどうかなのです。悔い改める事なしに、神の前に立とうとしても、いっこうに平安はこないのです。
「自分の罪をかなしみ、憎み、全くそれを捨てて、神に立ち返り、神の戒めの全ての道において、神とともに歩むように目指し努力すること」(ウェストミンスター信仰告白15章2節『命に至る悔い改め』) 悔い改める心無しにゆるしをきたいすることはできない。このことをわすれてはなりません。
Ⅲ ウェストミンスター信仰告白 第15章「命にいたる悔い改めについて」
一項「命に至る悔改めとは、福音的恵みであって、その教理はキリストヘの信仰の教理と同様に、すべての福音の教役者によって説教されるべきである。」
使徒11:18『人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。』
このいのちに至る悔い改めは、福音的恵みです。悔い改めは、救いをえるための人間的なわざ、律法的な行為ではなく、神の恵みの賜物です。ただ、神様だけが人の心に起してくださるのであって、人間の力によるのではない。
また悔い改めは、罪の許しのため、永遠の生命を得るために必要であるといっても、悔い改めが、罪のための償い、また罪の許しの原因、となるのではないという意味で、信仰と同じく福音的です。
悔い改めは、信仰とともに神の恵みの賜物であると同時に、人間が果たすべき義務でもあるのです。イエス・キリストは「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」と宣教を始められた。そして「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」とご命令と約束で最後を締め括られました。
福音的説教がなされるところでは、この悔い改めも正しく伝えられなければなりません。信仰と悔い改めがともなうとき改心がおこるのです。
二項「これによって罪人は、自分の罪を神のきよい性質と正しい律法に反するものとして、その危険さばかりでなく、そのけがらわしさをも見また感じ、そして後悔している者へのキリストにある神のあわれみを悟って、自分の罪を悲しみ憎んで全くそれを捨てて神に立ち帰り、神の戒めのすべての道において神と共に歩むように目ざし努力するのである。」
これは悔い改めとは何であるかをのべている。その本質である。悔い改めの出発点は自分の罪を自覚して、嫌悪することで、その立脚点はキリストの許しと助けへの信頼にあり、その目的は、神の律法に従って神とともに歩もうとするこころざしにある。この三つがともにあって悔い改めが成立する。
このような悔い改めは、知性と感情と意志の全面にわたる変化、全人格的行為である。ローマ書3:20、コリント第二7:9〜10、使徒2:38、ローマ2:4。
三項「罪のための償いまたは罪のゆるしの原因は、キリストにある神の自由な恵みの行為であるから、悔改めが、何かそのようなものであるかのように信頼されてはならないが、それはすべての罪人にとって必要なものであって、だれも悔い改めないならば、ゆるしを期待することはできない。」
四項「永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない。」
三項と四項は義認と悔い改めの関係を記している。
まず、三つの誤解が否定されている。①悔い改めを罪の償いの手段とみること、②悔い改めたから許してもらえる、③もう許されているから悔い改める必要はない。( 「悔い改めはどういう意味で絶対必要なのでしょうか。−自分が本当に病気で、治りたいと切に願う人でなければ、医者にかかり、薬を飲もうとしないでしょう。自分の罪を知り、この罪を悲しみ、憎み、この罪を許されたいと願わない者が、キリストを正しく信じることができるでしょうか。第四項は罪を軽視する者にとってはきびしい警告であり、自分の罪のおおきさに苦しみ悩む者にとっては慰めです。小さな罪だから許され、大きな罪だから許されないのではありません。どんな小さい罪でも、罪は罪であって、永久の刑罰に価するのです。と同時に真実に悔い改め信じる者にとって、許されないほど大きな罪はないということ、これはすべて真実に罪を悲しみ、憎み、それから離れようと切に願っているすべての悔い改める者に大きな、豊かな慰めです。」
五項「人は、一般的な悔改めで満足すべきでなく、自分の個々の罪を個別的に悔い改めるように努力することが、各人の義務である。」
六項「各人は、自分の罪のゆるしを祈りつつ、神に対しそれを私的に告白すべきであり、その上その罪を捨てることによってあわれみを得る。だから自分の兄弟やキリストの教会をつまずかせた者は、自分の罪を私的または公的に告白し、またそれを悲しむことにより、被害者に対して自分の悔い改めを進んで表明すべきである。これによって被害者は、彼と和解し、愛において彼を受けるべきである。」
悔い改めの実賎にあたっての注意。
自分の個々の罪を、具体的に悔い改め、それを許され、とり除かれ、それに勝利することを祈りもとめるべきである。一般的な罪、弱さ、けがれを告白するだけではいけない。罪は原罪と行為罪を含むものですから。悔い改めも両者を含むものでなければならない。自分の性質の腐敗と、腐敗した行為とをよく反省・点検することにより、深く悔い改めなければいけない。
罪の告白と許しの問題は、それが犯された相手にたいして、すなわち神だけでなく、人にたいすることであれば、その人の前に罪を言いあらわし、許しを求める勇気と謙遜さが必要である。個人の場合は私的に、教会にたいしては公的になすべきです。公的な罪は、教会の秩序のために正規の手続き−教会戒規−を心より遵守しなければならない。
被害者は、彼と和解し、愛において受け入れるべきである。教会はこのことにより罪に対して勝利するのです。
結び)詩篇51篇14-17節