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2014年4月20日 イースター礼拝 説教 日本語 英語 韓国語

イースター礼拝  音声

 

2014.4.20 イースター礼拝 「救い主を死人の中に捜すな」 ルカ 24: 1-12

序文)週の初めの日、明け方早くガリラヤから出てきた婦人たちは、イエスが葬られた墓へ急いでいました。その手には準備して集めておいた高価な香料、香油が携えられていました。彼女たちを、墓にいそがせた動機は、イエス様への愛と服従でした。葬りの時、安息日が始まり、十分な備えもなく大急ぎでご遺体を葬ったために、もう一度ゆっくりと丁寧に香料などを塗りたかったのでした。一刻も早くと気がせいていました。純粋で正しい気持ちをもっていました。そのときに人間ができた最高の行為でした。墓に納められたご遺体に他になにができたでしょうか。

Ⅰ 主イエスのからだがなかった。

ところが、彼女たちの愛の行為は、果たせませんでした。墓の中にイエス様の身体が無かったのでした。せっかく携えた香料は、塗られるはずの主を失って無用となりました。女たちは途方に暮れました。からだは一体どうなったのだろう。

ルカの答えは、「イエスはよみがえられた。」です。空の墓は「死体を盗んだ人がいる」ためではなく、「どこか他に移し替えられた」ためでもなく、「死人の中から、身体ごとよみがえられた」からである。

まばゆいばかりの衣を着た神の使いの二人は、彼女たちのそのことを気付かせるために「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか」と問いかけました。彼女たちの墓に向かった動機がどれほど純粋であっても、また、そのために最高の高価な香料を準備していたとしても、それで良いわけではなかった。むしろ「何を求めている」かがとわれました。見当外れのものを求めていないかが、問われたのです。

「遺体に香油を注ぐ」事を彼女たちは求めていました。神様は警告されました。「生きている方を死人の中に捜してはならない。」

このような場合、私たちの判断はどうでしょうか。彼女たちを同じ立場にいれば、きっと同じようにしたことでしょう。主イエス様に対して、どれほど深い愛を持っていても、それが自分の評価に基づいているかぎりは、いわゆる常識の域を脱することはできません。世間的に最善、最高の愛を込めた行為を示すでしょうが、それで良いわけではありません。

なぜなら主イエス様はよみがえられているお方だからです。死んでおしまいという常識を越えたかた、死に打ち勝たれた方だからです。「生きているかたは、生きている者の中に」求めなければならないのです。

主日の礼拝の中で、また日常生活の中で、わたしたちが自分の側での、完全な準備をもって、愛の捧げ物を用意して、神の前に出たとしても、もし、そこに「死んだイエス」を求めているのなら、もはや、イエス・キリストは見いだされる事は無いのです。

たとえば、「イエスを最も偉大な人物で、最も高く、最もきよく、美しい人生を送られたかたで、しかしすべての偉人たちと同じように死んだ方」として、あこがれる心だけであるとか、「イエスの教えや、地上生涯に生き方を、研究し、分析して、調べるだけの姿勢」で学問の対象とみるとか、「聖書の上だけの方で、実在の方ではない」と理解する。これらは「死人の中に生きている方を求める」ありようです。

 

Ⅱ 今も生きておられる主

1 そうではなく、今も生きておられる主、私たちの真中におられる方「2-3人私の名によって集まるところにわたしもいる。」と言われたお方に会うために集まる。毎日は生きておられる主とともに歩む日々であると気づき、それを経験する。このことなしにはまことの礼拝は存在しない。主イエス・キリストを神様との関係において見上げる。自分のレベルに引きさげてではない。この心が死人の中にイエス・キリストを捜すという見当はずれから私たちを解放する。

2 さて人間は生きておられる主イエス様に出会うまでは決して、まことの復活の主を信じることはできない。使徒たちは、このニュースを聞いただけで、たわごとだと思った。

女たちを信用しなかった。

ではどのように生きておられる主を求めればよいのでしょうか。私たちは聖書を離れて神秘的な世界に入ってゆくべきでしょうか。そうではありません。多くの人々が、聖書のことばを離れて、生きておられる主を求めました。ついにまことの信仰から離れて、自らが教祖となって異端を生み出したのを忘れてはなりません。

3 6-7節「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」わたしたちは主イエス・キリストが前もって言われた福音において、イエス・キリストをもとめなければなりません。前もって、主が言われたとおりの順番で、言われたとおりの出来事の中に進んでおられることを考えて、求めておれば、彼女たちは死人を墓の中に求めるようなことをしなくてもすんだのです。「三日目によみがえらなければならない」と言われていたのですから。「空の墓」に急ぐ必要はなかった。

神様が主イエス・キリストによっておしえられ、しめしておられるように、イエス・キリストは今よみがえられて生きておられると確信する。ルカの福音書24章1-53節は、主イエス・キリストが言われたとおりによみがえられた時に書き留められた歴史です。その内容はよみがえられた主イエス・キリストが、今も生きておられるという事を保証しています。あかししています。書き留められている福音において、イエス・キリストさまが今も生きておられることを認めるときに、わたしたちは確かに生きておられる主と生活の中で出会います。よみがえられた主はトマスに出会われて「あなたは見たので信じたのか、見ないで信じる者は幸いです。」と言われました。私たちは復活の主を見たわけではありません。見ないで信じているのです。見ないで生きておられる主に出会うことができるでしょうか。

4 一つの例を考えてみましょう。うまれつき目の不自由なかたが、どのようにして見えない親や、兄弟や、友人たち、社会と関わり合うことができているのでしょうか。それは、相手が生きているからです。生きている方々であれば、見えなくてもまじわることができるのです。それは互いに人格的存在だからです。私たちは生きておられる主に人格的に出会います。こころから祈ります。語りかけます。礼拝の場では、讃美をささげます。またみことばが解き明かされるときに、主が語りかけてくださっていると聞いています。心が燃えます。ささげものを捧げるのを主は受け入れてくださっています。聖晩餐式では、「これはわたしのからだです」と制定されたパンをたべることで、聖霊の助けをうけて、主とまじわります。「これはあなたがたのために流す、わたしの血です。」と制定された杯を飲むときに、聖霊の助けをうけて主のいのちにあづかります。日常生活においてもそうです。それは復活の主は、驚くべき事に私たちの内に住んでおられるからなのです。

 

Ⅲ キリストの内住 エペソ人への手紙3章17節

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなた方の心のうちに住んでいてくださいますように。」

使徒パウロは、エペソ1:20で栄光の天の御座に着かれたことをしるしました。私たちの信仰の目を天上にむけさせたのです。その上でここでは、栄光の主が、私たちの心のうちに王座をもうけておられるというのです。このすばらし現実に心を向けよというのです。彼方のキリストと同時に,私たちの最も深いところに住まいを定められるキリストが、祈られている。なんという驚きでしょうか。主のよみがえりのからだは、遍在なのです。神の子は遍在です。あまねくどこにでもおられるのです。エルサレムの扉を閉じた弟子たちの中に突然あらわれました。エマオの途上の弟子たちにあらわれ、また突然見なくなりました。ガリラヤの湖の浜辺の漁をしていた弟子たちにもあらわれました。自由自在にみえますが、遍在なのです。必要な時に必要な所に自由にあらわれました。もちろん今は、神の右の座におられます。そして聖霊によって私たちの中に住んでおられるのです。

かつて、天よりくだりマリヤの体内に宿り,人として生まれたもうたキリストは、今や、飼い葉桶にひとしい私たちの心のうちに住んでくださるのです。最初の誕生のインマヌエルは,今や一切の苦しみの後、復活の栄光をえて、世のおわりまでインマヌエルであるとの約束をはたすために、私たちの内に住まわれるのです。

主イエスさまのお約束は「だれでも私を愛する人は、私のことばを守ります。そうすれば、わたしの父は、あおの人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(ヨハネ14:23)。「それはあなたがたが私を愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」(ヨハネ17:26)。むすびのことばは「彼らの中にいる」です。「見よ。わたしは,世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。

イエス様が弟子達といっしょに生活をしておられたときに与えられた約束のことばです。

これらの約束は、わたしたちの「いのち」になってくださるという約束なのです。キリストが信じる者のすべてのすべてになってくださるという意味です。いのちの結びは霊のむすびです。「わたしたちは」と言われた主は、み父も含めておられるのです。さらにいうならば聖霊さまもです。三位一体の神様が私たちのうちに住む。それはまさしく「いのち」そのものになってくださるというほどの深さをもっています。同時に遍在であるからです。

これは最高の神秘なのです。交わりの神秘です。

使徒パウロの体験 彼が迫害者であったときに、復活の主は現れて彼におっしゃいました。「なぜわたしを迫害するのか」彼はクリスチャンたちを迫害する事が、主イエスを迫害することと同じであるとのイエス様の主張に驚いたのでした。これはクリスチャンの内に住んでおられる故に当然のことばなのです。

「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはや、私が生きているのではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、わたしのためにご自身をお捨てになった、神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)。ここにパウロの自己体験があります。

「住んでいてくださいますように。」それは一時的滞在ではなくて、恒久的定着、つまり永住を意味しています。ギリシャ語の用法からいえば、キリストがわたしたちの心の中に住んで下さるのは、一回限りの出来事であって、住むとそれ以降はずーっと恒久的に住み続けておられるのです。それはあなた方の信仰によってなのです。私たちのうちにお入りくださいと祈る事により、すべてのすべてをなってくださるのです。当然、内なる人は強められます。

 

結び)生きておられる主イエス・キリストは、いまや、私たちのうちに恒久的に住んでおられます。復活の主は、そのようにして、疲れはてている者たちを日々に再生します。病に陥っている者たちを永遠のいのちによって回復させ、たとえ死んでも生きる者と変え続けてくださっています。自分の扱いにくい心を、内に住むキリストは清めて変えてくださいます。悲しむ心を、取り除き歓びのめぐみをくださいます。直ぐに怒ってしまうこころを取り除き、平和な心をくださいます。優柔不断なこころを、内に住むキリストはとりのぞき、よいわざのために決断できる心と変えることができます。主からの使命をはたしてゆけるために、私たちを通して働かれるのは、内に住むキリスト様です。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」(ピリピ2:13)のは主だからです。復活の主が私たちの内にはたらいて、どのようにしっかりとした意志を立てれば良いかを教えてくださるのです。

生きておられる主を見ること無しに、豊かに交わり事は、主が自分の内に住んでおられるという信仰を働かせることによって十分可能なのです。

 

くれぐれも死人の中に生きている主イエス・キリスト様をさがさないでください。あなたのうちに信仰によって永住してくださっているよみがえりの主イエス様と、ともに日々を歩みましょう。

 

 

 

Introduction:

 

On the first day of the week, very early in the morning, the women from Galilee hurried to the tomb where Jesus was buried.  They carried in their hands expensive spices and oils that they had prepared.  The reason for the hurry is their obedience and love for Jesus. When they buried Jesus the Sabbath started, so they had to bury Jesus in a hurry without time to prepare for the burial, so they wanted to re-apply the oils and spices on the body properly.  They couldn’t spare a second.  They had a pure and right heart.  It was the best things a human can do at the time.  What else can you do to the body which lay in the tomb?

 

I  There was no body of Jesus

 

However they could not accomplish the act of love.  They did not find the body of Jesus in the tomb.  The spices they carried became useless because there was no body to apply them to. The women did not know what to do; what had happened to the body?

 

Luke’s answer is “Jesus has risen”.  The tomb was empty not because “someone has stolen the body” or “it was moved to another place”, but because “he was risen from the dead”. Two men sent from God who wore clothes that gleamed like lightening asked the women “why do you look for the living among the dead”, to remind the women of the fact.  No matter how pure their motive was and how expensive the spices were, it was not good enough. “What they were looking for” is the question they were asked.  They were asked if they were looking for the wrong thing.  The women were seeking to “pour the oils on the dead body”.  God warned them, “do not look for the living among the dead”.

 

How do we judge in these cases? If we were in their situation, we would have done the same thing.  Even if we had deep love for Jesus, if your judgement is based on your assessment, we cannot break the barrier of common sense.  Even if you show the best act of love in the worldly point of view, it is not good enough.  It is because the Lord has risen.  Because he has overcome death, the common sense of ‘the end of death’.  We need to seek “the living among the living”.

 

In the Sunday services and in our daily lives, even if we stand before God with complete preparation and sacrifice of love, if we looked for “the dead Jesus” then we cannot find him. For instance, the heart that admire “Jesus as the greatest person, who spent the best and purest and beautiful life”, or seeing him as an academic object: “researching, analysing, and examining Jesus teachings and his earthly life”, or understanding “he is the person in the bible and not a real person”.  These are the ways we “seek the one who lives among the dead”.

 

II  The Lord who lives now

 

1 Unlike the examples above, we gather together to meet the Lord who lives now and is the midst of us, who said “where 2 or 3 gathers in my name, there am I with them”. We realise we walk with the living Lord each day, and experience it.  Without this, we cannot truly worship the Lord.  We look up to the Lord Jesus Christ in the relationship to God.  Not bringing him down to our level. This frees us from vainly looking for him amongst the dead.

 

2  Humans cannot believe in the resurrected Lord until we meet the living Lord Jesus.  Hearing the news, the apostles thought it was nonsense and they did not believe the women. Then how can we seek the living Lord?  Should we leave the word of God to enter the mysterious world? It is not so.  Many people have left the Bible and look for the living Lord.  We must not forget that they left the true faith to became the founder of a false teaching.

 

3  v6-7, “He is not here; he has risen! Remember how he told you, while he was still with you in Galilee; The Son of Man must be delivered into the hands of sinful men, be crucified and on the third day be raised again.”  We need to seek Jesus Christ in the gospel which the Lord Jesus  foretold in advance.  If the women had thought about the events which were progressing in the order the Lord had told them, they would not have had to look for him in the grave.

 

He said “on the third day he must be raised again.”  There was no need to hurry to the ‘empty tomb’.  As God shows us and teaches us in the Lord Jesus, we are assured that Jesus Christ is risen and living now.  Luke 24:1-53 is a history which was written down when the Lord Jesus Christ was risen as he said he would.  It guarantees the fact that Jesus Christ was risen and lives even now.  It testifies.  When we acknowledge that Jesus Christ lives now in the gospel that was written, we will surely meet the living Lord in our lives.  The risen Lord met Thomas and said, “Because you have seen me, you have believed; blessed are those who have not seen and yet have believed.”  We have not seen the resurrected Lord.  We believe without seeing him.  Can we meet the Lord who lives, without seeing him?

 

4  Let’s consider an example.  How is it possible for a blind person from birth to have relationship with his parents, siblings, friends and the community?  It is possible because the other party is alive. It is possible to have fellowship with the living people without being able to see.   It is because we exist as a person.  We meet the living Lord as a person.  We pray to him from our heart.  We talk to him.  We offer worship in the service.  When the word is explained to us, we listen as Jesus is talking to us.  Our hearts burn within us.  When we offer the offering, the Lord receives it.  In the Lord’s Supper when we eat the bread which was enacted as “his body”, we have fellowship with the Lord with the help of the Holy Spirit. When we drink the cup  which “is my blood which was shed for you”, with the help of the Holy Spirit, we receive the eternal life.  It is the same in our daily life.  For in our astonishment, the resurrected Lord lives in us.

 

III  Christ lives in us (Ephesians 3:17)  “so that Christ may dwell in your hearts through faith”

 

The apostle Paul wrote in Ephesian 1:20 that Jesus is seated at his right hand in the heavenly places.  He made our eyes of faith look up to heaven. Furthermore, the Lord of the glory has set up a throne in our hearts.  He is reminding us of this wonderful reality. Christ who is in the distance, who has set a place deep inside us, is praying for us.  What an amazing picture it is! The resurrected body of Christ is omnipresent.  The son of God is omnipresent. He is everywhere.  He suddenly appeared in front of his disciples in Jerusalem who were in the room with the door closed.  He appeared to the disciples who were on their way to Emmaus, and then disappeared suddenly.  He appeared to the disciples who were fishing along the lake of Galilee.  It looks like he is free, but he is omnipresent.  He can appear freely in the time and place of necessity. Of course he is at his right hand of God now.  And he lives in us by the Holy Spirit.

 

The Christ who came down from heaven and was conceived in Mary’s womb to be born as a human, lives now in our hearts which is like the manger.  The emmanuel who was born at Christmas, experienced all the suffering and glory of resurrection, lives in us to keep the promise of emmanuel until the end.
The promise of the Lord Jesus is “If anyone loves Me, he will keep My word. My Father will love him, and We will come to him and make Our home with him.” (John 14:23 HCSB) “so the love You have loved Me with may be in them and I may be in them.”(John 17:26 HCSB) The concluding word is “I am in them”. “And remember, I am with you always, to the end of the age.” (Matt 28:20 HCSB)

 

These are the promises Jesus gave when he was living with the disciples. These promises mean he will be our “life”. He will be everything for those who believes in Him. The union of life is the union of the Spirit. The word the Lord told us “we” includes God the Father and the Holy Spirit. Trinity God lives in us.  It means He will become our “life” itself.  Because he is omnipresent at the same time. This is the utmost mystery.  The mystery of the fellowship.

 

Paul’s experience: when he was the persecutor, the resurrected Jesus appeared to him and said,
“why do you persecute me?”  He was surprised to the claim of Jesus that persecuting the Christians is the same as persecuting the Lord Jesus. It is a reasonable thing to say because he lives in Christians. “I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.” (Gal 2:20)  This is Paul’s own experience.  “Please live in me.”  It does not mean a temporary stay, but permanent stay, in other words, permeant residence.  In Greek grammar, Jesus lives in our heart is just one event, and he continues to live permanently after that, forever.  It is by your faith.  By praying to ask him to live in us, he will be everything and anything we ask for.  Of course, the person inside will be strengthened.

 

Conclusion

 

The living Lord Jesus Christ lives in us permanently.  The resurrected Lord refreshes those who are exhausted each day.  He heals those who suffer illness by the eternal life, and continues to make him live, even after death.  The Lord Jesus who lives inside us purifies our difficult hearts.  He removes the heart of sadness and replace it with grace of rejoicing.  He removes the heart of anger and replace it with a peaceful heart.  The Christ who lives inside us can remove the indecisive heart and replace it with the heart that can decide for the good work.  To achieve God’s purpose, the Christ who lives in us work through us. “for it is God who works in you to will and to act according to his good purpose” (Philip 2:13).  It is the Lord who works in you.  The resurrected Lord works in us and teaches us how to make a good will.

 

By trusting that the Lord live in us, it is possible to have fellowship with the Lord without seeing the living Lord in front of our eyes. Do not look for the living Jesus Christ amongst the dead.  Let us live each day with the resurrected Lord who permanently lives in us by faith.

 

 

2014420 부활절 예배  어찌하여 자를 죽은자 가운데서 찾느냐누가복음24:1-12

 

서문) 안식 후 첫날, 새벽 일찍 갈릴리에서 나온 여인들은 예수님이 장사된 무덤에 향했습니다. 그 손에는 준비한 고가의 향품이 들려 있었습니다. 그녀들을 무덤에 서둘러 가게 했던 동기는 예수님을 향한 사랑과 복종이었습니다. 예수님께서 돌아가신 직후, 안식일이 시작되었으므로 예수님의 시체를 충분하게 장사하지 못한채 서둘러 장사했기 때문에, 한번 더 천천히 정성스럽게 향료를 예수님의 시체에 바르고 싶었던 것이었습니다. 이 여인들은 한시라도 빨리 가고 싶었습니다. 순결하고 바른 마음을 가지고 있었습니다. 그 순간 인간이 할 수 있는 최고의 행위였습니다. 장사되어 무덤에 갇힌 시체에 더이상 어떤일을 할 수 있을까요?

 

 Ⅰ  예수님의 시체가 뵈지 아니하더라

그러나, 그녀들의 사랑의 행위는 실천할 수 없었습니다. 무덤 안에는 예수님의 시체가 없었던 것입니다. 정성껏 준비한 향료를 바르려 했던 예수님을 잃어버려 쓸모없게 되었습니다. 여인들은 어찌할 바를 몰랐습니다. 도대체 시체는 어떻게 된 것일까?

누가의 대답은 「예수는 다시 살아나셨다」라는 것입니다. 텅 비어버린 무덤은「시체를 훔쳐간 사람이 있기 때문」이 아니고, 「다른 곳에 옮기워진 것」도 아니라, 「죽은자 가운데서 살아나셨기 때문」입니다.

찬란한 옷을 입은 두 천사는, 그녀들에게 이일을 깨닫게 하기위해 「어찌하여 산 자를 죽은자 가운데서 찾느냐」라고 물었습니다. 그녀들이 무덤을 향했던 동기가 아무리 순결하더라도, 또한 그것을 위해 최고로 비싼 향품을 준비했다 하더라도 그것으로 바른 것이 아니었습니다. 그와 반대로 「무엇을 원하는가」라고 질문받게 됩니다. 하나님의 목적과 전혀 다른것을 기대하지 않는가, 라는 것입니다.

그녀들은 「시체에 향유 붓는 것」을 원했습니다. 그러나 하나님은 경고하셨습니다. 「산 자를 죽은 자 가운데서 찾아서는 안된다」

이런 경우, 우리들은 어떻게 판단하고 있습니까? 그녀들과 같은 입장에 있었다면 아마도 같은 행동을 했을지 모릅니다. 예수님에 대하여 얼마나 깊은 사랑을 가지고, 그것이  자신의 평가에 근거하고 있는 한, 일반적인 상식의 영역을 벗어날 수 없습니다. 세속적인 선, 최고의 사랑을 포함한 행위를 나타낼 것이지만, 그것으로 바른것은 아닙니다.

왜냐하면, 주 예수님은 다시 살아나실 수 있으신 분이기 때문입니다. 죽으면 모든 것이 끝이라는 상식을 뛰어넘으신 분으로, 죽음을 이기신 분이기 때문입니다. 「산자는 살아있는 자들 안에」를 구하지 않으면 안되는 것입니다.

주일 예배중에, 일상생활중에, 우리들이 자기나름대로 완전한 준비를 하고, 사랑의 물건을 준비해서 하나님앞에 나온다 하더라도, 만일 「죽은 예수」를 구하고 있다면, 예수 그리스도를 발견할 수 없을 것입니다.

만일, 「예수를 가장 위대한 인물로, 가장 고결하고, 가장 선하고, 훌륭한 인생을 보낸 분으로, 그렇지만 다른 위인들과 마찬가지로 죽은 자」로써 선망하는 마음뿐이라든지, 「예수의 가르침이나 지상 생애에서의 살아간 방법을 연구하고, 분석하고, 조사하는 것만으로의 자세」로써 학문의 대상으로 본다든지, 「성경에 쓰여있는 분으로, 실존하지는 않는 분」으로 이해하는 이러한 것들은 「죽은자 중에 살아있는 분을 구하는」것과 같은 것입니다.

 

Ⅱ 지금도 살아계신

 그렇지 않고, 지금도 살아계신 주, 우리들의 한가운데 계시는 분 「두세 사람이 내 이름으로 모인 곳에는 나도 그들 중에 있느니라」라고 말씀하신 분을 만나기 위해 모입니다. 매일매일은 살아계신 주와 함께 걸어가는 날들임을 깨닫고, 그것을 경험합니다. 이러한 믿음이 없이 참된 예배는 존재하지 못합니다, 주 예수 그리스도를 하나님과의 관계에 두고 바라봅니다. 자신의 수준을 끌어내리는 것이 아닙니다.

 인간은 살아계신 주 예수님을 만나지 않고서는 부활의 주를 믿을 수 없습니다. 이 소식을 들은 사도들조차도 허튼소리로 생각했으며, 여인들의 말을 믿지 않았습니다.

그렇다면 어떻게 살아계신 주를 구하면 될까요? 우리들은 성경을 떠나 신비적인 세계에 들어가야 할까요? 그렇지 않습니다. 많은 사람들이 성경의 말씀을 떠나 살아계신 주를 구합니다. 결국엔 참된 믿음으로부터 떠나, 자신이 교주가 되어 이단을 만들게 되는 것을 잊어서는 안됩니다.

 6-7절 「여기 계시지 않고 살아나셨느니라 갈릴리에 계실 때에 너희에게 어떻게 말씀하신 것을 기억하라 이르시기를 인자가 죄인의 손에 넘기워 십자가에 못박히고 제삼일에 다시 살아나야 하리라 하셨느니라 한대」 우리들은 예수 그리스도께서 이전에 말씀하신 복음에 근거하여 예수 그리스도를 구하지 않으면 안됩니다. 이전에 주께서 말씀하신 순서대로, 말씀하신대로의 일들이 진행되어져가는 것을 생각하고 구한다면. 이 여인들도 죽은자를 무덤에서 찾는 일을 하지않아도 되었을 것입니다. 「제삼일에 다시 살아나야 하리라」 라고 말씀하셨기 때문입니다. 「텅 빈 무덤」에 급하게 갈 필요가 없었습니다.

하나님께서 주 예수그리스도를 통해 가르치시고, 보여주신 대로, 예수 그리스도는 지금 이순간 부활하셔서 살아계심을 확신합니다. 누가복음24장1-53절은 주 예수 그리스도가 말씀하신 대로 다시 살아나신 순간을 적어놓은 역사입니다. 그 내용은 다시 살아나신 주 예수 그리스도께서 지금도 살아계심을 보증하고 있습니다. 증거하고 있습니다. 기록된 복음을 읽고 예수 그리스도께서 지금도 살아계심을 인정할 때, 우리들은 진실로 살아계시는 주와 생활속에서 만나게 됩니다. 부활하신 주는 도마를 만나셔서 「너는 나를 본 고로 믿느냐 보지 못하고 믿는 자들은 복되도다」라고 말씀하셨습니다. 우리들은 부활의 주를 본것은 아닙니다. 보지않고 믿고 있습니다. 보지않고도 살아계신 주를 만나는 것이 정말로 가능한 것일까요?

4 한가지 예를 들어 생각해 봅시다. 태어날 때부터 눈이 보이지 않는 사람이 어떻게 보이지않는 부모나, 형제, 친구들, 사회와 관계를 맺을 수 있을까요? 그것은 상대가 살아있기 때문입니다. 살아있는 상대라면 보지 않고도 관계를 갖고 교제할 수 있는 것입니다. 이것은 서로가 인격적인 존재기 때문에 가능합니다. 우리들은 살아계신 주와 인격적으로 만나게 됩니다. 마음으로부터 기도합니다. 대화합니다. 예배할 때 찬송을 드립니다. 또한 말씀을 들었을 때 주께서 말씀하고 계신것으로 듣고 있습니다. 마음이 뜨거워집니다. 헌금을 바치는 것을 주께서 받아주십니다. 성찬식에서는 「이것은 내 몸이라」라고 제정해 주신 빵을 먹음으로써 성령의 도움을 받아 주님과 교제하게 됩니다. 「이것은 많은 사람을 위하여 흘리는 바 나의 피 곧 언약의 피니라」라고 제정하신 잔을 마실때, 성령의 도움을 받아 주님의 생명에 들어가게 됩니다. 일상생활에 있어서도 마찬가지입니다. 그것은 부활의 주께서 놀랍게도 우리들 안에 살고계시기 때문입니다.

 

Ⅲ 그리스도의 내주  에베소서 317

「믿음으로 말미암아 그리스도께서 너희 마음에 계시게 하옵시고 너희가 사랑 가운데서 뿌리가 박히고 터가 굳어져서」

사도 바울은 에베소서1;20에 영광스런 하늘의 오른편에 앉아계시는 예수님을 증거했습니다. 우리들의 믿음의 눈을 하늘로 향하게 했습니다. 더욱이 영광의 주께서 우리들의 마음속에 왕좌를 준비하고 계신다고 말했습니다. 이 놀라운 사실에 마음을 돌리자고 했습니다. 우리들의 가장 깊은 곳에 사시며 그리스도께서 기도하고 계십니다. 얼마나 놀라운 일입니까? 부활하신 예수님의 몸은 편재(두루 퍼져 있슴)하고 계십니다. 하나님의 아들은 편재합니다. 어디에도 존재하십니다. 예루살렘의 문을 닫고있던 제자들에게 돌연 나타나셨습니다. 엠마오에 향하던 도중 제자들에게 나타나셨고 갑자기 사라지셨습니다. 갈릴리 호수에서 물고기를 잡고있던 제자들에게 나타나셨습니다. 자유자재로 보이겠지만, 편재인 것입니다. 필요한 때에 필요한 곳에 자유롭게 나타날 수 있습니다. 물론 지금도 하나님의 오른편에 앉아계십니다. 그리고 성령으로 인해 우리들안에도 살고계십니다.

이전에, 하늘로부터 내려오셔서 마리아의 몸에 수태하여 인간의 몸으로 태어나신 그리스도가 가축의 구유같은 우리들안에 살아계시는 것입니다. 최초의 탄생,  임마누엘이 지금은 모든 고통을 이겨낸 후 부활의 영광을 얻어, 세상끝날까지 임마누엘 되시는 약속을 지키기위해 우리들안에 사시는 것입니다.

주 예수님의 약속은 「사람이 나를 사랑하면 내 말을 지키리니 내 아버지께서 저를 사랑하실 것이요 우리가 저에게 와서 거처를 저와 함께하리라」(요한복음14:23) 「나를 사랑하신 사랑이 저희 안에 있고 나도 저희 안에 있게 하려 함이니이다」(요한복음17:26) 맺는 말씀은 「저희 안에 있게 하려 함이니이다」입니다. 「볼찌어다 내가 세상 끝날까지 너희와 항상 함께 있으리라」(마태복음28:20)

이것은 예수님께서 제자들과 함께 생활하셨을 때 해주신 약속의 말씀입니다.

이 약속들은, 우리들의 「생명」이 되어주신다는 약속입니다. 그리스도가 믿는자들의 모두가 되어주신다는 의미입니다. 생명의 맺음은 영의 맺음입니다. 「우리들은」라고 말씀에는 아버지를 포함하고 있습니다. 더욱이 성령님도 포함하고 있습니다. 삼위일체의 하나님께서 우리들 안에 사십니다. 이것이야말로 「생명」그 자체가 되어주신다고 말할정도로 깊은 의미를 가지고 있습니다. 동시에 편재하고 계시기때문입니다.

이것은 최고의 신비입니다. 교제의 신비입니다.

사도바울의 체험  그가 박해자였을 때 부활의 주가 그에게 나타나셔서 말씀하셨습니다. 「어찌하여 네가 나를 핍박하느냐」 바울이 그리스챤을 박해하는 것은 주 예수 님을 박해하는 것과 같은 것임을 주장하는 예수님의 말씀에 대단히 놀랐습니다. 이것은 예수가 크리스챤 안에 살고계시기 때문에 당연한 말씀이었습니다.

「내가 그리스도와 함께 십자가에 못박혔나니 그런즉 이제는 내가 산 것이 아니요 오직 내 안에 그리스도께서 사신 것이라 이제 내가 육체 가운데 사는 것은 나를 사랑하사 나를 위하여 자기 몸을 버리신 하나님의 아들을 믿는 믿음 안에서 사는 것이라」(갈라디아서2:20) 이곳에 바울의 체험이 쓰여있습니다.

「살아주시기를」 이것은 일시적 주재가 아닌, 영구적 정착, 즉 영주를 의미합니다. 그리스어 용법에 의하면, 그리스도가 우리들 마음속에 살아주시는 것은 단한번 일어나는 것으로, 한번 살게되면 그 후 언제까지나 영구적으로 살아주시는 것입니다. 그것은 여러분들의 믿음에 의한 것입니다. 우리들 안에 들어와 주시도록 기도함으로써 우리들의 모든것이 되어주십니다. 당연한 일이지만, 우리들 안에 살아주심으로 우리는 더욱더 강해집니다.

맺음) 살아계신 주 예수 그리스도는 지금, 우리들 안에 영구적으로 살고 계십니다. 부활의 주님은 지친자들을 매일매일 재생시켜 주십니다. 병에 걸린 자들을 영원한 생명으로 회복시켜 주시며, 만일 죽더라도 사는자로 바꾸어 주십니다. 어떻게 할 수 없는 자기자신의 마음도 우리들 안에 살고계시는 그리스도가 정결케 변화시켜 주십니다. 슬픔에 잠긴 마음을 제거하고, 기쁨이 넘치도록 은혜를 주십니다. 금방 화를 내는 마음을 없애고 평화의 마음을 주십니다. 우유부단한 마음을 예수님께서는 선한 일을 위해 결단하는 마음으로 변화시켜 주십니다. 예수님께 받은 사명을 달성하도록 우리들을 통해 일하시는 것은 우리들 안에 살아계시는 그리스도이십니다. 「너희 안에서 행하시는 이는 하나님이시니 자기의 기쁘신 뜻을 위하여 너희로 소원을 두고 행하게 하시나니」(빌립보서2:13) 부활의 주님께서 우리들 안에서 일하시고, 어떻게해서 의지를 세워야 좋은지를 가르쳐 주십니다.

살아계시는 주를 만나지 못해도, 풍요롭게 교제할 수 있는 것은 주님께서 우리들 안에 살고 계신다는 믿음을 갖음으로 충분한 것입니다.

 

죽은자 들 안에서 살아계신 주 예수 그리스도를 찾지않도록 주의합시다. 믿음으로 우리들안에 영주해 주시는 부활의 주 예수님과 함께 매일매일을 살아갑시다.

 

 

 

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