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2014年2月2日 礼拝

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2014年2月2日 「治める人は仕える人 」   ルカ22:24-30  招詞

★    序文)イエス・キリスト様の弟子たちの間で、幾たびも「だれが一番偉いか」という論議が起こりました。ルカは、9:46と今朝の所に二度も記録を残しています。人間集団のあるところ常にこの争いがあると言ってもまちがいありません。人は常に自分の威信を大切にしようとするのです。罪深いので、常に自分の仲間での位置を少しでも高いところ、名誉あるところに置こうとするのです。さらに名声を博し、人々に認められたい、賞賛されたいと期待しています。だれも振り向かないと罪深い自己アピールをするのです。

★     だれが政府の首相になり、大臣になるかは集団でグループ闘争となっており、勝利を勝ち取った派閥では、今度は地位の配分を巡って争います。スポーツでも「監督とコーチ、選手という組織野中に争いがあり、いずれは自分もコーチから監督へとか、選手からコーチへ、監督へとの思惑がうごめいているのです。

★    会社には社長がおり、その「上に会長がおり、取締役専務がおり、重役がいます。そこに序列があります。権威の序列はそれにしたがって働きの内容にも規定と権限がはっきりしています。それがいやならば独立して、起業するか、失業しなければなりません。組織はそのように働いているからです。

 

☆ Ⅰ イエス・キリストの弟子たちの次席あらそい。

イエス・キリストの弟子といえども例外ではありませんでした。少なくとも神の国を地上に実現されるものと彼らが考えている限りは、この論議はなくならないのです。新約聖書の時代に弟子たちの争いを受け継ぐ者たちがいました。ヨハネはガイオに宛てた手紙の中で、頭になりたがっているデオテペレスに注意するようにと警告を促したのは古いことではないのです。☆自分の支配下に兄弟姉妹を置こうとして、頭として振る舞おうとするのです。そして今の時代も教会の晴れの場などで席次に関してつまらない議論がおこるのです。私たちが地上の事だけ見て歩むとき、この種類の問題がさまざまな集まりで信仰を持たない人々を同じようなレベルに引き下げてしまうのです。人の自分にたいする評価を寄りどころとして、争われてしまい教会でなくなってしまうのです。

★     主イエス・キリスト様が最後の晩餐を共にし、パンと杯をもって、ご自分の死をあからさまに教え覚えよと、忘れるなと戒めておられる席上で、まさにこの重大な席上で、その話を聞きながら、席次争いが起こったのです。12弟子の一人は裏切り、11人は愚劣な議論によって、この記念すべき聖晩餐式を過ごしていたのです。

 

Ⅱ 25-27節 イエス様の諭し

信仰のない異邦人の王様は、人々を支配する権力を持っている。また「恩恵の付与者」という称号を持って呼ばれ、人からあがめられています。彼らの尊厳は権力を振るうことによって保たれているのです。エジプトのプトレマイオス7世は「恩人プトレマイオス」と自称していましたが、人々は陰に回って「悪人プトレマイオス」と言っていたのです。この世での人々の賞賛の背後には、ねたみと批判が隠されているのが常です。わたしたちが競争に勝ち、人の上に立ったとして、賞賛を得ても、それで人々は本当に私たちを愛し、大切に思っているわけではありません。

☆しかし神の国では、その規準が全然違うのです。主イエス・キリストを信じる者たちは地上生活を送るとき、神の国の規準にあった歩み方をするようにしましょう。例えば、あなた方の中で一番偉い人は、どのように歩まなければならないか。その生活態度の特徴は何か?それは一番若い人のようであり、仕える人のようでありなさい。すなわち、人から崇められ、仕えられる事を求めないで、かえて謙遜と奉仕をもって歩みなさい。☆市場で敬礼や会堂の上座をよろこび、宴会の上座をよろこぶような当時の律法学者のような生き方は、異邦人の王や支配者の地位に立つ人々とおなじである。

教会の中で「治める人」つまり、牧師、長老、執事、リーダーたちは、この神の国の規準によって歩まなければなりません。若い者、仕える者のようにです。権力を振るうというような力づくの方法では、尊ばれることもないし本当に意味で治めることはできないのです。☆霊的権能が頭であるイエス・キリストから、みからだである教会に与えられていることはたしかです。しかしその権威、力をかさにきて信徒を従わせることはできないのです。第一ペテロ5:3「ゆだねられている者たちの上に権力を振るうことをしないで、むしろ群れの模範となりなさい。」人々の愛と尊敬が自然にあつまってくるという生き方が大切なのです。謙遜と他のクリスチャンの役に立たたなければなりません。

☆ちょうどイエス・キリスト様が模範をしめされたようにです。他の福音書では、イエス・キリスト様がこの最後の晩餐のときに、弟子たちの足を一人ずつ洗われて、僕の仕事をなさったことを記しています。それは主イエス・キリスト様の地上生涯のすべてを象徴しています。「人の子は仕えられるために来たのでは無く、仕えるためにきました。」とのお言葉通りの歩みでした。

★    この謙遜と奉仕の歩みをおくるとき、地上の歩みが一見していかに報われないような道であっても、いや、いや、むしろ誠実(せいじつ)のためにくるしみ、また圧迫(あっぱく)に苦(くる)しむ生涯(しょうがい)となったとしても、神の国での評価、神の国での地位がキリストにより約束されている事を覚えて歩み通さければなりません。

それは地上のものとは違うからです。神の子としていただいた特権を思って歩むなら、地上の席次争いによって罪深く様々な実を摘み取るよりもはるかに幸いです。清められた確かな人生を送らせるからです。

★    Ⅲ 28-30節 弟子の報い

イエス・キリスト様の地上生涯は、試みと苦難の連続の中にも、謙遜と奉仕をもって生きられました。それゆえに、キリストは神の国において高くされ、その王権の前に一切の権威も口をつぐませられるのです。ピリピ2:5-9

☆この謙遜と愛の奉仕によって歩む者は、地上の歩みが一見して報いられないような道であっても、いや、それどころか、苦しみをもたらす様な生涯となっても、神の国での評価は十分あまりある事を、主イエス・キリストは、ここにおっしゃっているのです。

それは人間が人間からの評価によって、劣等感や、ねたみや、世間体への恐れに振り回されて生きるのではなく、主イエス・キリストのめぐみと憐れみ深い評価と報いの約束に慰めを発見していきるためです。☆ご自分として、弟子たちをどのように評価しておられるか、どのように報いようとしておられるか、ここにかたられています。

実に弟子たちが評価されたのは、「わたしの試練の間、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた。」という点にありました。忍とは「とどまる」の意味です。イエス・キリストの弟子として最後までそうあり続けた、というのです。☆イエス・キリストのもとにやってきた弟子たちは多くいたと思います。しかしここまでしたがってきた者は少なかったのです。奇跡を行うイエス・キリストにはついてきても、十字架を負わせるイエス・キリストにはついていきたくないのです。主よ、終わりまで仕えまつらん!と賛美とともに信仰の道のりを走りとおしましょう。

☆イエス・キリストは彼らが実に悲しい議論をしているのをご存知でした。まだまだ清められないといけないのです。罪の残りのある存在である事を知っておられました。しかし、主は彼らが最後まで従ってきたことを高く評価しておられるのです。

報いの約束は、弟子たちにも王権を与えられることです。30節 12の部族を裁かせられるのです。

☆この「与える」ということばは20節の「新しい契約」と翻訳してある「ディアセーケ」(ギリシャ語)の語源となる動詞で父成る神がイエス・キリストに王権を契約されたので、イエス・キリスト様は弟子たちに新しい契約を結ばれることができるのです。

29節の直訳「わたしの父が、わたしに王国を契約してくださったように、わたしもあなた方に、わたしの王国において、わたしの食卓で飲食し、座してイスラエル12部族をさばく事を契約する」

☆地上でキリストに従う者として歩み、人に仕え、謙遜に歩む者は、そのために試練にあい迫害を受けることがあっても、従い通すときに、この契約にあずかるものとなります。

報いの約束の第一は、天国で主の食卓にはべることです。それほど篤い交わりにあずかるのです。報いの約束の第二は「イスラエルの12の部族を、王座について裁く」(治める)ことです。弟子たちはやがて教会の指導者になり、その教えは教会の土台となりました。「あなたがたは、使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身その礎石です。」(エペソ2:20)彼らは教会の中で光栄ある役割を担いました。主の栄光に仕えるものとなりました。

☆  このことこそ大切な目標であって、そのために地上での相続争いなどは捨て去って、主イエス・キリストに最後までついてゆくことが肝心です。

地上での威信や地位や名声を気にするあまりに、イエス・キリストに従うこと、試練や苦しみを負いつつも伝えて行くことを止めないように。イエス・キリストの群れから離たり、この大きな約束を無にしてしまってはならないのです。

 

☆結び)神の栄光を現し、永遠の神を喜ぶことは、人間の主な目的です。その報いが主によって、仕えるものの生涯を全うするすべてのクリスチャンに約束されているのです。それぞれの地上で与えられている使命を、最後まで続けてゆくことによってです。地上の人間による一時的な評価に動かされること無く、主イエス・キリストの契約による報いの幸いにこそ目をとめて、どこまでも従って仕えてまいりましょう。第二テモテ4:5-8

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