140112_001 音声
2014年1月12日 「主がご覧になると 」 ルカ20:45-21:4 招詞
★ 序文)私たちは毎日の生活の中で、さまざまな人々と交わり、共に働き、共に学び、共に食して、お互いを現しています。ある面からは常に他人を意識しながら生きているといえます。そのような中で、自分のことを見透かしてしまっている人の前に出ると、ありのままの自分以外の者であるような振る舞いや、ことばを使うと全く恥ずかしく、惨めに感じることがあるでしょう。★時には、変に虚勢を張ったり、軽々しいのに、重々しく見せようとしたりします。とにかく、他人を意識しすぎて自分自身を失っているとき、人を見る目のある人の前に立つことは恐ろしいことでもあります。お互いにどのような人かがよくわかって来ると、気心もしれて、あまり無理をしなくなるものです。そうでないとどうしても意識過剰になるのです。
★ 主イエス・キリスト様の前に立つとき、すべての人は、そのありようを見抜かれているといえます。詩人が「主よ、あなたは私を探り、私を知っておられ、私の座るのも、立つのも知り、また遠くよりわたしの思いをわきまえられます。」と歌っているとおりです。
今朝の箇所に登場する律法学者たちと、貧しいやもめもまた、その人物の有り様は主によって見抜かれてしまっています。★人と人の交わりでは、相手の人格まで本質的に善に変えてしまうことは難しいことです。主イエス・キリスト様との交わりでは、私たちが自分のありのままを素直に認めて、主よおっしゃるとおりの私です、とへりくだるときに、聖霊様がお働きくださって、私たちは変えられてゆき、神の子としての完成をいただくのです。
★ Ⅰ 律法学者たちの特徴は何か。
彼らの生活上の大原則は、一言で言うと「人に見せるため」に有りました。他人に見せること、他人を意識しすぎること、神では無くて、人を意識しすぎることにありました。
1 「長い衣をまとって歩き回り」とは、衣に房をつけ長くしたのです。これは、神の選民である身分と使命を覚える印です。これにより、人々から尊敬されようとして演出をおこなったのです。★2 「広場で挨拶されたりすること」ラビと呼んでもらうのが最大の喜びなのです。ラビと呼んでもらえないことは一生、メンツがつぶされたことだとこだわっていたのです。例えば相手の人が「あなたの上に平安がありますように」と挨拶しても。その人が「わが師よ。ラビよ。」と尊称をつけなかったりしたら、そのことでがっくりきたのです。★3 「会堂の上席や宴会の上座が好き」ユダヤ教の会堂の前面には、聖なる巻物がしまわれている櫃があって、その前に会衆に対面して長いすが置いてありました。そこには最も博識な律法学者が座ルことになっていました。宴会の場合には最長老の学者が上座に座ったのです。いずれも尊敬の表れの場でした。★4「やもめの家を食いつぶして」律法学者たちは自分たちを支持する者は、天国で高い地位が与えられルと教えて、やもめをカモにしていました。非良心的で好色家のラビによって美くしいやもめが、おめかけさん同様にされることも起ったのでした。★5 「見栄を飾るために長いおいのりをした。」学者、パリサイ人たちの祈りは長いので有名で、くどくどと祈るのでした。それで欲、彼らの祈りは、人々に向かってされたほどには、神に向かって捧げられていなかった、といわれました。
主イエス・キリスト様は、これらの不健全な所業を、神の前にした歩みではなく、人間のみを前にした歩みであると断罪されました。こういう人は人一倍厳しい罰を受けると断言されました。人々に見せるためだけの生活、人々に認められることだけを求めた生活は、断罪されています。
★ Ⅱ 貧しいやもめはどうでしたでしょうか。
主イエス・キリスト様は、あのどろどろとした敵対者たちとの対決の果てに、胸くそが悪くなるような心を、まったくきよく、すすいでくれるような、何かほっとするような、つつましい、それでいて真実な信仰者に出会いました。読む私たちも救われるような気持ちがします。★多弁、多才、わずかの知恵を多くのことばと派手な動作でひけらかして、主イエス・キリストに挑みかかってきた者たち、自分かってに神の真理をあれこれと説明して、しかも自分では信じようとしない、従おうとしない者たちの中で、自分の一切をそっと捧げて、つつましやかに礼拝をしている人が、ここにいるのです。
★主イエス・キリスト様に見られていることさえも意識しないで、イエス・キリスト様から声をかけてもらうこともなく、報いを受けているでもなく、何も知らないままに自分のなすべき礼拝を、神にだけささげ、自分にできる奉仕をそっとささげて、群衆の雑踏の中に姿を消した。この貧しいやもめを見よう。名声も求めない。人に評価されることも求めない。それでいて全生活を神様の前に投げ出して生きている。★神が、この女性の本質と生活態度を見抜いてくださっていること、それでよい。そのように毎日を過ごしている。
金持ちの有り余る中から捧げた献金は、この貧しいやもめの捧げたレプタ二つの銅貨ほどには、受け入れられなかった。一レプタは現在のお金で0.45円。主イエス・キリストはごらんになった。その額ではなくて、その価値。捧げ物の量ではなくて、捧げるために払ったこころの態度と、犠牲の大きさをごらんになった。そこまで神のためにしようとした信仰が神の前の価値を決めた。
★それは突然にできるような生活態度ではない。神は、私たちの全生活態度を見抜いておられるのです。私たちを、愛する独子の十字架の犠牲によって救い出してくださった。神は最大級の犠牲を払って、最大級の価値ある愛の救いを届けてくださった。私たちがこの愛に応えて、どのような態度で日常生活を御前に過ごしているかを見つめておられる。人々への見栄ばかりで、派手に生活しつづける者か、神にだけ知られれば良いと、そっと、しかしすべてをささげつつ、生きてゆく者かを見つめておられるのです。★その一つの例として「献金」を、イエス・キリスト様は、ここに取り上げられているのです。
イエス・キリスト様は彼女のことを、持っている生活費の全部を捧げたと見抜いておられました。彼女に取っては大変な犠牲をともなった。神への捧げ物が、何の犠牲もともなわないで、捧げたのなら、それは神にお返しするものを、お返ししたにすぎない。当然のことを行っただけで、褒めるようなことではない。まして、神にお返しするものさえも、お返ししないとするなら、それは論外である。
★本当の犠牲をともなう捧げ物は、時にこのやもめのように乏しいにもかかわらず、すべてを捧げるような無鉄砲さを持っている。やもめは二レプタをもっているのですから、半分の一レプタだけを捧げても良かった。それでも50%をささげたことになる。しかし彼女は全部をささげた。神に捧げることに意味を、彼女はしっていた。
★教会のかしらであるキリストのために、ささげるとき、まず自分のものを取り残しておいて、残ったものを捧げる。生活のある部分はささげても全面的に自分の人生は主イエス・キリストの所有権が有る人生と思っていない。だkら、残りの少しをささげる。自分の心のすべてを主イエス・キリストに明け渡さないで、ある部分は、いつでも取りのけておく。隠しておく、告白しない。
★神との交わり、これが礼拝の中心です。しかし自分の応答を示すべきときに、心を閉ざす。口を閉じる。かたくなにじっとしている。そのような歩みはキリストの弟子となろうとするにはあまりにも遠い。自分の生まれる前から、すべてを知り、母の体内に形作ったときから、私たちを知っておられる主イエス様。良きにつけ悪しきにつけ、罪に支配された生活を送ってきてしまったわたしたちを、尊い救いに招き入れてくださった。★毎日恵みに浸し神に子としてお取り扱い続けてくださっている。このお方の前で、なおも自分を隠したり、残したり、取っておこうとする。実際に、全く主にあってのみ生かされ続けていること、一日一日主の前に生きている、その交わりの中で、生かされていることに気付くことは、論じるだけでできることではありません。このやもめのように、体験的に主イエス・キリスト様がすべてだとわかる生活があるのです。★そのようにわかってする生活は、なんと、豊かですばらしいことでしょうか。他人様がなんといおうが関係ありません。どのように他の人が評価しようとも関係がありません。他の人に認めてもらおうとあがく必要もありません。すべてを見通しておられる主イエス・キリストの御手の中で、今日を歩みます。明日も生かされます。気が楽です。一日一日主の前に従い仕事をし、勉強もする、会社にも行く。ひとつひとつを神の前で行う。
★主イエス・キリスト様にすべてを知られていることは恐ろしいことではなくて、とっても気が楽なのです。自分が自分であってよいのです。罪を犯したとわかれば、直ぐにごめんなさいと主に謝ります。主に働きをする機会が与えられれば、助け主聖霊さま、導きと知恵をください。手順を教えてください。成し遂げる力をください。そのように祈り求めて一歩一歩進みます。一挙手、一投足、主ともに生きます。
★私たちは使徒パウロが申しますように、この世の評価からすると「取るに足らない者」です。どのように他の名声を博しても、たかが知れています。しかしこの取るに足りない者、レプタ二つの自分自身でも、神の手に全部をゆだねるならば、その生涯は、神が受け入れてくださる生涯です。この世の人がとうていなしえない事柄を、御国のためにその人は成し遂げます。さらに他の人々の霊的必要を満たす者となります。★この貧しいやもめの歩みが2000年以上も、この箇所を読む者たちに、どれほど計り知れない霊的励ましと、祝福と警告を与えてきたことでしょうか。幾千、幾万、いやそれ以上の人生のレプタを捧げる者が続いているのです。
そして、たとえ主イエス・キリスト様が、彼女のことを弟子たちに取り上げて教えられなかったとしても、神の前では彼女の幸い、すばらしさはが、なくなるわけでは全くないのです。
★結び) 最後に「第二コリント8:1-5」を読みましょう・