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2014年1月5日礼拝

 

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2014年1月5日 「キリストは主 」   ルカ20:41-44 招詞 ローマ1:3-4

★   序文)ルカの福音書をとおして、今年も続けます。終わりまでまなびたいです。主イエス様のことばを聴きつづけましょう。主イエス様の十字架目前の受難週.火曜日の事が今日の箇所です。敵対する者たちから、さまざまな論争をしかけられ、罠にはめられようとしていました。しかしイエス様は彼らに答える事で、ことごとく彼らを退け、相手は、もうこれ以上何も質問する勇気も失ったほどでした。

★    そこで、攻守交代となりました。イエス様から彼らに進んで質問をされました。人間の思いつくあらゆるキリストへの誤解、偏見、悪意、曲解のすべては、沈黙させられました。神ご自身のみ子が、今や問いかけておられるのです。彼らも、私たちも、イエス様の質問に答えなければなりません。

★   Ⅰ どうして、人々はキリストをダビデの子というのか。

当時の学者、パリサイ人たち、そして一般ユダヤ人たちは、メシヤすなわち、キリスト(救い主)の出現を国民的な希望として待っていました.その救い主はダビデの子として生まれると、旧約聖書の預言に従って信じていたのです。例えば、イザヤ書9:6-7 このことはキリストがダビデの子として生まれる事を告げています。★それでは、同じ旧約聖書詩篇110篇1節で、イエス様が引用しておられる言葉をどのように説明するのか。ここでダビデ自身がキリストのことを「主」と呼んでいるではないか、と問われました。

この質問によって、イエス様は、キリストは単にダビデの子以上のお方である事を人々に教えようとされました。たしかに来るべきメシヤについて数ある称号の中で、「ダビデの子」は最もポピュラーなものでした。普通でありました。★ 神の遣わされる解放者は、ダビデの家系であるのです。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあるとおりです。イエス様ご自身は、あのエリコの道ばたに座って物乞いをしていた盲人の叫び「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」に答えられました。ローマ人への手紙1:3-4「御子は肉によればダビデの子孫として生まれ」と語られています。

★ところが本来のダビデの子と言われたメシヤ、すなわちキリスト観が当時征服者メシヤの思想と結びつき政治的、民族的な夢、野心を含めたこととして流行していたのです。メシヤとともにイスラエルの国は黄金時代を築き、世界の覇者になる。キリストは無敵の指導者、王となる。

★   Ⅱ ダビデはキリストを「主」といった。

主イエス様について、このような一般的に流行していた意味で「ダビデの子」というのは不適当です。たしかにメシヤはダビデの子です。しかしメシヤはそれ以上のお方であります。彼は「主」です。あなたがたの考えているキリスト像は、本当のお姿からあまりにもかけ離れている。しかも考えが狭い。救い主は自分かってなイメージに作り替え、そのための完全な権能を見損なっている。

★   ダビデ王様が、キリストを「主」と呼んだ。その意味は何か。ダビデにとってメシヤ・キリストは礼拝し仕えるべき主である。それはヤーウェーであって神の子である。神はダビデの主、キリストについて言われた。「わたしが、あなたの敵を、あなたの足台とする時までは、わたしの右の座に着いていなさい。」このことばは「神がキリストの敵を打ち倒し、その足台として勝利されるときまで、神の右の座に着いていなさい」というのです。★キリストは神の子として地上に遣わされ、キリスト救い主として働きをなさる。それに対して神に敵対するものたちが、キリストの働きを破壊するためにあらゆる妨害と敵対行為をし、歴史的には十字架につけてしまった。その後につづくキリストの教会の働きも攻撃しつづけ破壊しようと続けている。しかしそのような敵対行為は神の裁きの日までであって、その日がくるまでは、キリストは神の右の座に着いているのです。

★   「わたしの右の座に着く」という意味は律法学者たちも「神の子」をさすと認めていました。「彼らはみなで言った。“ではあなたは神の子ですか。”すると、イエス・キリストは彼らに“あなた方の言うとおり、わたしはそれです。”といわれた」(ルカ22:70)。ここではイエス・キリスト様が、ご自分をはっきり「神の子」としてあらわしました。神の大能の右の座に着くことを宣言されました。彼らもまた、「ではあなたは神の子」ですかと理解した。そして、このことばがさらに教えることは、十字架に殺されたキリストが神のみ座の右に着いているという事実です。★詩篇110篇1節はイエス・キリストの復活と昇天を教え、彼が主であり、神の子であることを証明することばなのです。また、神のみ座の右で、キリストは何をなさるのかというと、「主は誓い、そしてみこころを変えない。あなたはメルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(詩篇110:4)とあるように、とこしえの祭司です。これはヘブル人への手紙5:5-10に詳しく説明が受け継がれています。★「キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に“あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。”と言われた方が、それをお与えになったのです。別の箇所で、こうも言われます。“あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。”キリストは、人としてこの世におわれたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。★キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司となられたのです。」さらにヘブル人への手紙7:24-8:2に続けて説明があります。

★    キリストは今永遠におられ、キリストを信じるようにと、執り成し、その人の罪を赦し、その人をきよめ、その人格を神の家族にふさわしく整え、愛しつづけてくださっているのです。

★   Ⅲ 使徒たちはイエス・キリストのことを「主」と呼び続けました。

1 使徒たちは、イエス・キリスト様のことを「主イエス・キリスト」と呼び、書くときも「主イエス・キリスト」と書いている。それは、異邦人への使徒、伝道者であったパウロにとって、「キリスト」(メシヤ)という称号は、異邦人にはあまり意味をもたなかった。「主」は礼拝の神聖な対象という意味で使うことができた。また、「父なる唯一の神のみ」を信じていたパウロが、復活の主イエス・キリストに出会って信仰の大転換を経験して以来、「主」は、天の父なる神と区別できる呼び名であった。★さらにパウロはこの「主」という呼び方で、キリストのことを「栄光の主」であるということで、神の臨在そのものをあらわし、最も尊い使い方をしている。「この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(コリント第一2:8 )。ヤコブも「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません」(ヤコブ2:1)といっています。★パウロはピリピの教会に手紙を書いたときに、この「キリストが神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくして死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエス・キリストの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、膝をかがめ、すべての口が“イエス・キリストは主である”と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)と宣言しています。

★ヨハネは黙示録(1:8)で「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」と言って、主イエス・キリストは神であると伝えている。

★   2 あなたにとってキリストはこのような「主」でしょうか。もし、あなたがイエス・キリストを主と呼びながら、実際の生活において、このお方を心を込めて、何はさておいても礼拝すべき主、十字架に自分のために死んでくださり、復活し、天に昇り、いま、神の右の座に着いて取り成し続けてくださり、やがて一切を裁くために、再び地上に降られる主として受け入れているでしょうか。

★   学者、パリサイ人たちが、キリストを単なるダビデの子と受け取り、その本来の意味であるダビデの主であった。主の主、王の王であったことを見失ったように、わたしたちも見失ってはいけないのです。日常生活のおりおりに、主は主としてお働きくださっているのです。この苦難と栄光の主は、わたしたちの教会の頭、主です。神である主です。

★ 心よりへりくだり、敬虔をもってお仕えし礼拝すべき主であり、祈りにおいて、豊かなお交わりに与からせていただくべき主でありましょう。

★結び) ヘブル人への手紙10:19-25

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