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2014年3月23日礼拝

 

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2014年3月23日    「主の凝視」       ルカ22:54-62

序文)弟子ペテロについて主イエス様は22:31-34で預言しておられました。彼に試みが臨み、サタンの誘惑の罠にかかることを警告されたのでした。今朝の箇所は、悲しいことにその預言が成就したことが記されております。使徒ペテロが、主の前にいるべき場所を失った。その経過(プロセス)を考え、私たちへの警告と回復への主の憐れみを学びましょう。

 

Ⅰ イエス・キリスト様が捕らえられ、大祭司の家につれて行かれたとき、ペテロは、遠く離れてついていきました。マタイの福音書によると、それは「事の成り行きをみる」(マタイ26:58)

ためであったのです。ペテロが主を知らないと言った第一段階は、成り行きを見るためについて行ったことにありました。ヨハネの福音書18:8-9によると、イエスが捕らえられたときに、

主は弟子たちのことを心配して{「この人たちはこのままで去らせなさい。それは「あなたがわたしにくださった者のうち、ただの一人も失いませんでした。」とイエス・キリストが言われた言葉が実現するためであった。」この言葉を聞いた弟子たちは、捕らえられたイエスのうしろについて行くのではなくて、愛の配慮を無にしない事が大事だったのです。それなのに、ペテロはこの言葉を無にしてしまいました。大祭司の家にまで、ついていったからです。中庭に入り込んで座ったのでした。「成り行きを見る」というペテロの理由は自分勝手な論理であって、主のおこころではなかったのでした。自分が主のことをこんなにも心配しているのだから、正しい。自己正当化の罪でした。罠にはまる第一歩だったのです。見事にサタンの罠にはまりました。みことばが、そうしてはいけないといっているときに、私たちは自分なりの良い理由を見つけてそうしてしまうのです。結果は惨めな自分を発見することになります。信仰が打ち倒される第一歩はみことばに従わないで、自分で良い理由をつけて反対のことをしてしまうことにあります。

 

Ⅱ さて、ペテロは大祭司の中庭で、みなに混じって火をかこんで座っていました。火をたかずにはおれないほど寒い夜だったのでした。そこにひとりの女中が現れて、「まじまじと見て言いました。この人も、イエスといっしょにいました。」ヨハネの福音書では、門番のはしためが、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」といったのでした。いわばこの女中は、はっきりとした確信がないままで、ペテロに当てずっぽうにいったにすぎないのです。ペテロは大変恐れを感じたのです。ペテロはそれを言下に打ち消して「いいえ、私はあの人をしりません。」

といいました。ペテロは最初から遠く離れてついて行ったほどですから、恐怖心があったのでした。そこへ女中の言葉で、どっきりとしたのでした。彼は恐れなくて良いことを恐れたのでした。人をおそれると罠に陥るのです。状況はイエスの弟子である事を否定しなければならないほど危険だった訳ではないのです。大祭司の中庭には、イエスを捕らえにきた人もいっしょにいたのですから。もし弟子ペテロを捕らえてどうにかしようとするならとっくに捕らえていたはずです。当局者たちは最初からイエスを狙い撃ちにしていたのでした。この時点では弟子たちは相手にしていなかったのでした。ペテロは人々を意識しすぎていました。イエスをしらないと言うことがどのようなことかを十分意識していませんでした。「あの人をしりません。」その結果、次の否定につながりました。他の男が彼を見て「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかしペテロは、「いや、違います。」と言った。ペテロは最初、イエスを知らないといいましたが、次には、自分はそのようなものではないと、自己否定しました。自分はクリスチャンではない。教会と関係がない。キリストの仲間ではないと言ったのです。

私たちの信仰生活でイエスを否定するとき、その論理的結果として、また心情的結果として自分自身を失ってゆくことになります。今、神の子としての身分を与えられてキリストにつながる者となり、身体の一員としていのちの結びつきを得ています。イエスを知らないといったとたんから、自分をうしなうのです。

その結果、第三の否定がつづきます。59節「それから一時間ほどたつと、また別の男が「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。しかしペテロは「あなたのいうことはわたしには分かりません」といった。ガリラヤ弁をもちだされました。もはや言い逃れることができません。しかしペテロは何をいっているのかわからないと、コミュニケーションを拒否しました。不成立を宣言して逃げたのです。ペテロは、別の男が言っていることは実はよく分かっていました。まともに応答する心を失っていたのです。交わりができなくなり、一方通行となったのでした。私たちも良くこのような一方通行を経験します。夫が言っていることがわからない、妻が言っていることが分からない。これは危険な兆候です。分かっているのですが、都合が悪いので何を言っているのかわからないと逃げるのです。

信仰に関しては、聖書の言っていることが分からない。教会の言っていることがわからない。牧師の言っていることがわからない。むつかしい!と言って一方通行に持ち込むのです。

意味はよくわかっているのですが、「分かりません」と答えることで、人格的交わりを拒否するのです。甚だしい場合は無言でこたえるのです。音信不通を持ってこたえるのです。

神よりも人を恐れるとこのようなプロセスによって、イエス・キリストを拒否してしまいます。せっかくイエス様によって回復していただいた人間性が、罪の奴隷に戻るような結末を招いてしまうのです。この夜はぺテロに取って最低の夜でした。

 

Ⅲ ペテロを立ち直らせた主の摂理と凝視

ペテロが三度、主を否んだとき、鶏が鳴きました。そして、「主が振り向いてペテロを見つめられた。」(61節)。主が振り向かれました。ペテロをじっと見つめられたのです。その時、「ペテロは、“きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。”といわれた主のことばを思い出した」(61節)。鶏の鳴き声、時は夜です。過ぎ越しの祝い、ゲッセマネ、逮捕、尋問、一連の出来事は夕方から夜中に行われたのです。鶏が夜に鳴くのを聞いて、人々はなんととんまな鶏とおもうでしょう。鶏はだいたい明け方に鳴くのですから。でももし夜に鳴くのを聞いたなら、誰かが主を知らないといったのだなあ!と想像してしまいます。それはともかくとして、ペテロにとっては、この鳴き声は彼を主に立ち戻らせるきっかけとなりました。

もし鶏が鳴かなかったら、主に見つめられることなく、ペテロは本心に立ち返ることなく一生を過ごしたかもしれないのです。

主の摂理の手は、今も、主を知らないと言ってしまった弟子たちのために働いています。その人にしか、わからないかもしれませんが、何かをもって引き戻そうとしておられるのではないでしょうか。私が中学生三年生のときに、教会学校に一時期ゆかなくなったことがありました。その時教会学校の先生がハガキをくれました。それが、これです。昭和30年(1955年)

2月17日消印「主イエス・キリストの御名を讃美申し上げます。長い間日曜学校にいらっしゃいませんが如何していらっしゃいますか、心配しています。あんなに熱心にいらしてた、あなたが毎週おやすみですので寂しく思っています。今三年生の方は受験を目前にひかえとてもお忙しいとは察しておりますが、こんな時に一層神様により頼み上よりの知恵と力を求めてください。もうすぐ日曜学校も卒業ですが、信仰には卒業はなく益々高められ深められ、より深い愛とめぐみを頂くために進んでくださいます様に節に望んでおります。もし疑問な点、また問題がございましたら何時でも御遠慮なくお聞きくださいませ。 伝道の書12:1,コロサイ書1:10  中川尚子」(この先生は一昨年御高齢で、天に召されました。)

このハガキにより、私はもう一度教会に通い始めて、ついに、今日まで信仰を支えられてきたのです。

同じように主は現在も摂理を持って働いてくださっていることを信じます。

さらに大切なのは、主が振り向いてペテロを見つめられたその目です。

その目は怒りの目ではありません。主がペテロをしかりつけたのならば、彼の反応はもっと違ったものになっていたことでしょう。そうではなく、その目は、彼の信仰がなくならないようにと祈られた目です。沈黙の目です。悲しみと憂いの中にも取り成して祈って来られた目です。私たちはこの主の祈りの目に見つめられているのです。私たちの目が、かちりと主の目と会ううときに、信仰の立ち返ることがおこるのです。信仰が試みられ、不信に陥り、罪を犯したときに、破れかぶれになったりしてはいけません。心に責めを感じ、みことばにより自ら責められるとき、主の祈っておられる目に気付いてください。

ペテロは外に出て激しく泣きました。この「激しく」とは、単なる涙を流した以上の、背後に悔い改める涙であることを表わしています。自分の罪へのまことの悲しみと、主の愛の祈りの目をみて、悔い改めの涙が流されたのです。

 

結び)神様の豊かなたましいへの配慮を覚えて、今朝ともに、主イエス・キリスト様のもとに立ち返り、いのちと平安の交わりを回復させていただきましょう。

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