140302_001 音声
2014年3月2日 「ゲッセマネの祈り 」ルカ22:39-46 招詞 マタイ6:9-10
☆ 序文)ゲッセマネの園「そこはいつもの場所」と福音書記者ルカが告げる所です。イエス様は、たびたび、そこで、弟子たちとともに祈りをなさいました。いつもの場所でいつものように祈りましたが、当夜の祈り中身は、いつもとは全く違っていました。この夜の祈りは、聖書の中で最も深く、苦悩に溢れた、神秘的な部分であります。人間の知恵を持って十分に説明することはできません。祈りの背後に、最も賢い神の知恵が含まれているのです。
☆ Ⅰ 39-40節
ルカはこの記事を書き留めるに際して、初めと終わりを「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」という主イエス様のことばを額縁にして納めました。主に従った弟子たちは、つい先ほど、「サタンが、あなた方を麦のようにふるいにかける。」と警告を受けた所だったのです。さらには、イエスが十字架にかけられるという出来事により、世間の弟子たちにむける目が変わるといわれました。☆自分たちを取り巻く情勢は悪くなるのです。それらに十分対応しようとすれば信仰に立ち続けることが肝要であり、そのためには祈りつづけることが第一となります。
イエス様ご自身にとっては、今の祈りは十字架の身代わりの死を目前にしたいのりです。主の霊は、異常な悲しみと苦しみの中で祈られたのでした。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」これは主にむけられた誘惑との戦いだったのです。
☆ 弟子たちは、他の福音書の記述によると、とくに、ペテロ、ヨハネ、ヤコブが、主イエス様のおそば近く招かれて、ともに祈っているように、目を覚ましているようにと要請を受けていました。それは彼ら自身が誘惑に陥らないために祈るばかりではなく、主のためにも祈ってほしいとのまねきだったのです。信仰の友、祈りの友を私たちは必要としています。ことに苦難に直面し、苦しんでいる時は、そうです。悲しみ悩んで祈る主とともに悲しみ苦しみ泣く者となるように!
☆ 教会の祈祷会や二人以上の者が共に祈る場は、この意味で主イエス様の働きにいっしょにあずかり、兄弟姉妹の苦しみも、悲しみも喜びもともに分かち合い祈りつつ前進する場であります。多くの人々は苦しみにあうとき信仰から離れてゆき、集いを避けるようになりますが、それは逆であります。むしろ祈り場に積極的に集まり、いっしょに祈ってもらい、共に重荷を分かち合うのが、そこから立ち直る近道のです。キリストの福音のための働きは、たった一人で成し遂げられるようなことではないのです。また、自分一人の力で苦難から立ち直れると考えることは失敗のもとです。共に祈ることで誘惑に勝つのです。苦難を乗り越えることができるのです。
☆ 弟子たちは初め、イエス様と共に祈っていました。しかし、主イエス様の祈る姿を見ているうちに「悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。」(45節)のです。緊張の中で、悲しみの祈りは、非常な疲れをもたらしました。ついに眠ってしまいました。
祈りの場を離れ、あるいは祈祷することを止めてしまった者たちは、共にいのるためイエス様の「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑におちいらないように祈っていなさい。」とのことばに励まされて、立ち直っていただきたい。
☆ Ⅱ 41-44節
主イエス様は弟子たちのていたらくの中で、ご自分は重大な課題のために苦しみもだえて祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
この時の祈りは、主の受難物語の中で最も激情荒れ狂う場として描かれています。それは十字架上でのお姿よりもっと激しいものでした。恐れ、おののき、悩みはじめ、死ぬほどで、地に「汗が血のしたたりのように落ちた」のです。☆主の苦悩は、もはや弟子たちが分かち合えるような生易しい段階ではなかったのでした。その原因は「この杯」にありました。並の杯ではなかった。この場合「杯」は本人の運命を表し、特に旧約聖書では、神の怒りと審判の意味を示していました。イザヤ51:17「あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」
☆主イエスは正真正銘の人間でした。死に反発し、死を本能的に嫌悪する人間でした。この祈りは、この点で主イエス様の人間性の極地を表しています。主は罪を犯したのではなく、生まれながら聖霊により罪の汚れから守られていた義人でした。ですから罪の罰として死ぬはずのない方でした。しかし天の父から遣わされた救い主として、その職責をはたすために、罪人の身代わりとして、私たちの罪を身に負ってくださったのでした。☆それで今や、十字架の死に臨んで、罪への神の怒りの杯の全部が、主の上に一挙に注がれようとしているのです。キリストは、私たちのために呪われた存在となってくださったのです。罪の知らなかったお方が罪となられたのです。神の聖いご性質が、その上に乗せられた罪の重さの全部を直接に感じられたのです。ここに尋常でないキリストの苦悩があります。
☆主イエス様のこの祈りは、彼の救い主としての働きが、人間離れのした、悠然たるものではなく、むしろ、全く地についたものであることを示しているのです。さらに、私たち弱い者の心を温め、私たちの手の届くところに主が立っておられることを悟らせられるのです。どれほど多くのキリスト者が、この祈りを自分の祈りとして泣き叫んだことでしょうか。☆自分の夫、妻、子どもが、この世から取り去られようとするとき、不治の病が自分の肉体を蝕むとき、その他さまざまな苦悩の杯が信仰篤い者たちに与えられるとき、主イエス様さえ、このようにゲッセマネで祈られたことは、どのほどの慰めになることでしょうか。☆この祈りのさなかに、天使が現れてイエス様を力づけたのでした(43節)。天からの助け、力づけは、杯を取り去るためにではなくて、飲み干すことができるためでした。私たちが、同じような祈りをするときに、イエス様の御霊は同じ力を与えて、その苦難に耐えさせ、みこころをなさせてくださいと祈る力を賜るのです。
☆ Ⅲ 主は、この願いの後に、さらにまさった願いを、天の父に祈られました。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
みこころ、とは、神様の「お考え、計画、予定、決定」といわれる事柄の総称です。
この世界は神様のみこころ、神様の永遠に定められた、みこころ(聖定)にしたがって進んでいるのです。箴言19:21「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」☆へブル6:17「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」真理そのものである神様が、あえて誓ってまで、そのおこころ、計画の不変であることを保証された。朝、考えていたことを夕方には変更してしまうような人間が、このような神様を愚かであると侮って勝てると思い上がって高慢になっています。実に愚かと言うべきです。
☆イエス様は、ここで、わたしのみこころではなくて、父よ、あなたのみこころがなりますようにと祈られたのです。それで、もしこの杯を取りさらないことが、みこころであるのなら、そのとおりにしてください。従順をもって父のみこころに従います。ご自分の思いを神の思いに一致させること、それが祈りの真の意味なのです。主は救い主として、地上に遣わされたゆえに、身代わりの死を遂げることを引き受けてくださいました。神の意志、神の目的、神の永遠のご計画に自分を従わせます。
☆ ここに主が十字架にかかるに当たり、自発的であることをはっきりと示されています。
強制的にいやいや杯を飲ませられたのではないのです。本当に、心から従順に飲めるように戦ったのが、この祈りだったのです。神が、あなたにかかわる永遠のご計画を、この地上の分として果たそうとされるときに、私たちは主と同じ祈りの戦いをし、心から積極的にしたがえるように、自分を整えなければなりません。☆「みこころのとおりにしてください。」と、茫然自失しながら、祈るときは、希望の死を意味します。また、はげしい攻撃に降伏する人がみこころをと祈るのは、完全な敗北を認めることなのです。完全に失敗して夢破れた人が、このようにいのるときは、すさんだ痛恨といらだちのことばになるのです。☆そのような祈り方ではなく、完全な信頼を込めて祈られるとき、本来の意味の通りなのです。神の愛と、神の善意と、神のご計画と、神の力と、導きを本当に信頼して、この受け入れがたい事柄を自発的に受け入れることが、この祈りの真意なのです。信頼を込めて祈るときにのみ、神のみこころは、確かにあなたの上に成就します。
☆結び)神様が天でお立てになった、私たちにかかわる永遠の計画を、私たちは神の民として地上に、実現する使命をおびています。まさにみこころは、あなたをとおして実現されるのであり、わたしをとおしてなのです。私たちが「あなたのみこころとおりにしてください。」と祈るときに、私たちの信仰にもたらされる実りは次に様だと信じます。☆私たちは、より一層へりくだらせられます。私たちは、より一層、神ご自身を信頼する方向へと進みます。私たちは、より一層、人生において実を結ぶ方向へとみちびかれます。私たちは、今あるよりも、さらに霊的に高い状態へと引き上げられます。
ですから、私たちも、聖霊様の助けを得て、この主イエスの祈りを持って信仰生活を続けさせていただきましょう。御国の栄冠にあずかりたいものです。