6.1礼拝 音声
2014.6.1 「わが霊を御手にゆだね」 ルカ 23: 44-49
序文)主イエス様が地上最後の瞬間のことばをルカは書き留めました。十字架の上でイエス様はさまざまな苦しみの中で、その感情を表し、それが語られた七つのことばによって理解できます。何を考え、何を感じつつあられたかが分かるのです。それは私たちの赦しを祈るお心、犯罪人の改心をうけいれ共にパラダイスにいると宣言された厳粛な救いの約束、そして、わが神、わが神どうして、わたしをお見捨てになったのですか、という地獄の叫び、さらには、すべてが終わったという勝利のことばなどでした。
そして今や、いのちの死後の瞬間に、主イエスさまは、何を感じておられたのかが、ここに示されています。どのように死を迎えられたかがわかります。それは後につづく、私たちへの指針ともなるおことばでした。
Ⅰ 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
1 このことばは、私たちに取って重要です。私たちは自分の死の瞬間に、何を感じ、何を考えるでしょうか。一生涯が走馬燈のように思い出されると、よく言われています。私たちは死の瞬間に、自分の生涯の良きにつけ、悪しきにつけ、その総決算のようなものを感じるのではないでしょうか。神様抜きの人生を歩んできた者にとっては、それは真っ暗闇への突入でしょう。恐れながらもうまく切り抜けてきた事柄への、裁きを何となく感じつつ、不安に駆られる最後ではないでしょうか。私たちは、その時に何を感じ、何を考えるでしょうか。生前に信仰によって遺言しておくことは葬式の時に大切です。家族があれこれ葬りに際して迷わなくてすむからです。
2 主は「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」といわれました。これは詩篇31篇5節から引かれています。詩篇31篇では、ダビデが四方八方に恐怖を感じて、苦難に満ちた生活のただ中で、贖い出してくださいと願い、「私のたましいを御手にゆだねます。」と叫んだのです。イエス様の心に、死の瞬間にのこっていたのは、この詩篇のみことばでした。神のことばが主のこころを力づけました。その思いはみことばと共にありました。
主は、詩篇にない、ダビデが言わなかったことばを、ひと言付け加えられました。
「父よ」このことばに万感の思いがこもっています。もはや、見捨てられたと感じた地獄の苦しみはなく、自分の最も深く知っている父。弟子たちに教え諭し続けられた、すばらしい愛の父、生涯かけて人々にもたらそうとした父の名を口にしながら死の瞬間を迎えたのでした。
3 主イエス様の死は、どこにゆくのかわからないような旅路ではなくて、逆に長い地上の旅路を終わって、父のもとに帰る家路であったのです。信頼しきった心で眠りにつく、いわば、夕べの祈りでもあったのです。目覚めたときは父の家です。「わが霊を御手にゆだねます。」そこにはイエス様を迎え入れようとして、永遠の父の御手がさしのべられているのです。そこはイエス様が地上のおいでになる前に、おられたところです。父の家なのです。
この世では、イエス様にとってまことの意味で家と言えるところはなかった。仮の宿りでしかなかったのです。迫害され、無理解に苦しめられ、弟子たちは弱く、不忠実でした。しかし、今や、主は、永遠の自分の家に帰りくつろがれるのです。
主は、私たちのために死なれたのです。そして使命を終わって、ご自分の家にかえられるのです。
Ⅱ ヨハネ14:1-3
1 主は、父の家に私たちをも迎え入れてくださるのです。ですから、私たちにとっても、死の瞬間は、父の家に帰る家路であって、主のように祈ることが許されているのです。
クリスチャンは死の瞬間に、すばらしい慰めと助けを受けることができます。十字架の主、救い主をふりあけることができるからです。思い出されるすべての罪も、イエス・キリストによってすべて赦されていることがわかるからです。
わたしにも、あなたにも確実にこの瞬間は来ます。死の瞬間は、たったひとりになる瞬間です。だれも死を迎えている私を助けることができません。その時にイエス・キリスト様がもっておられたように、同じ心で「父よ。私の霊を御手にゆだねます。」と子どものように信頼をこめて、天で手をさしのべてくださっている天の父と、イエス・キリストさまに祈ることができるのです。何というなぐさめでしょうか。
2 さて、私たちも、主に習って天の家に帰ることをねがうとき、私たちは、主が生きられたように生き、主が歩まれたように歩むことが求められています。私たちがどのように死ぬかと言うことは、日常の歩み方で決定づけられます。神に、全き信頼を込めて日々に生きているかということが、死に瞬間にも信頼をこめてゆだねますといえるのでしょう。
戦いの日も、試練の日も、喜びの日も、悲しみの日も、忙しいときも、休んでいる時も、静かな夜も、常に主イエス様とともに歩んでいるか。
パウロがいっているように、生きているときも、死さえも、主のためにですと言えるような人生であるとき、私の霊を御天にゆだねますと祈れるのです。
真実であられる創造者、救い主に自分のたましいをゆだねる。その時に死は、わたしにとって滅びへの死でのみちではなく、永遠のいのちへの家路なのです。
Ⅲ 45.47節
1 イエス様の死の瞬間は、自然世界に神様が奇跡を起こされるほど重要な出来事でした。また、神殿の幕が真二つに裂けたことでしめされるように、完全な救いの完全な成就であったのです。神殿の聖所と至聖所の間には、両者を分ける隔ての幕がありました。至聖所、すなわち内側には、一年に一回だけ大贖罪日に、大祭司が国民の罪のきよめのために犠牲の血を携えてはいり、契約の箱に注ぎかけるのでした。神はイエス・キリストの血によって、この大祭司の罪の清めの儀式が、完全に終わったことをしめされました。
「ヘブル人への手紙9:3-15」
2 このような意味をもった主イエス様の十字架と最後は、それを取り巻いていた百人隊長や、群衆たちを動かしました。イエス・キリストの死は、かたくなな、人間の心を打ち破りました。百人隊長は「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と神を誉め称えました。彼は入信の先触れとなったのでした。あの十字架につけよと狂い叫んだ群衆も、胸を打ちたたいて悲しみながら帰って行きました。
主イエスさまが「私が地上からあげられるなら、私はすべての人を自分の所に引き寄せます」(ヨハネ12:32)。といわれたおことばが成就しはじめたのです。この日以来、おびただしい人々が、全世界からイエス・キリストの十字架に引き寄せられ、いまや私までも主を共に「父よ。」と祈れる身にまでも変えていただいたのです。
3 「父よ。わたしの霊をみ手にゆだねます。」このことばは、多くの死を目前に自覚している方々を救います。私の個人伝道の経験を分かちしましょう。
彼は30代の若い方です。ガンの闘病で、どんどん悪くなる一方でした。私が牧師をしていた教会に母親がおられました。信仰を持っていました。病院にお見舞いに行ってほしいと依頼されていました。あるとき入院先の病院をたずねました。幸いなことに、付き添いの奥様も、母親も、病室にいませんでした。この若い方は、子どもが生まれたときに教会に母親に伴われてきて、祈ってほしいといわれたので、赤んぼうの成長をいのりました。それで、枕元で、教会の牧師の廣橋ですと言って、病状をお伺いしました。お見舞いに来る方々が、しっかりして、治るように祈ります、と言って実際そのように彼の耳元で祈られたのです。しかし、母親の言うにはすっかり絶望していて、一切の希望がなくなっているとのことでした。私も一見して死は近いと感じました。それで、彼に、まもなく死が近いですね。主イエス様は私たちを救うために十字架にかかられましたが、その最後に「父よ。わたしの霊をみ手にゆだねます。」と死後の一切を天の父にまかせられました。安心して平安の内に天に召されたのです。このことばは私たもつかうことができるように向けられているのですよ。死後の事柄の一切を天の神様にまかせましょう。なによりも自分の魂を天の父と主イエス様にまかせましょう。救い主は私たちに永遠のいのちをくださるのですよ。そうしますか、と言いました。彼が任せますと言われたので、一緒に 祈りました。「天の父なる神様。私はまもなく地上の死を迎えようとしています。わたしの霊を死後と永遠にむかって、あなた様にお任せします。私の家族の将来もみ手にお任せします。主イエス様の名前によっていのります。アーメン」そして教会に帰ってきました。
次の日に、母親がおどろいてやってきて言いました。「先生、息子を見舞ってくださりありがとう。何が起こったのですか。すっかり彼が平安になって、落ち着いて、人がかわったようなのです。」と言いました。出来事を私は母親に説明し、主イエス様が彼に天の平安をくださったことを感謝しました。まもなく召されましたので、教会でキリスト教式のお葬式をしました。
結び)だれが、この事実を無視できるでしょうか。あなたも、日々を主のみ手に任せつつ步みをつづけ、たとえ、あなたの死の瞬間がきても平安を覚え、この祈りをささげましょう。父よ。私の霊をみ手にゆだねます。」