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2014年6月29日 講壇交換日 礼拝

 

140629_001  礼拝 音声

2014年6月29日 中会間講壇降交換    調布南教会 吉村直紀牧師

福音(ふくいん)中心(ちゅうしん)の生(い)き方(かた) ~福音(ふくいん)によって解放(かいほう)された生(い)き方(かた)~

ルカ15:11-32

Ⅰ.あいさつとイントロ

おはようございます。今日(きょう)はお招(まね)き下(くだ)さりありがとうございます。

本日(ほんじつ)皆(みな)さんにお話(はな)ししたいテーマは「福音(ふくいん)」です。イエス・キリストの「福音(ふくいん)」は私(わたし)たちを罪(つみ)から救(すく)い永遠(えいえん)のいのちをもたらすだけではなく、それに伴(ともな)い、私(わたし)たちの生(い)き方(かた)、態度(たいど)、道徳(どうとく)、人間(にんげん)関係(かんけい)、文化(ぶんか)の全(すべ)てに大(おお)きな変化(へんか)をもたらすものです。しかし、残念(ざんねん)な事(こと)に多(おお)くの人(ひと)において「自分(じぶん)は福音(ふくいん)を信(しん)じたクリスチャンです」と言(い)いながら、実際(じっさい)にはそれまでの人生(じんせい)のメソッド(方法(ほうほう)論)に頼(たよ)って、信(しん)じる以前(いぜん)と同(おな)じ方法(ほうほう)で生(い)きており、単(たん)に所属(しょぞく)するコミュニティが教会(きょうかい)という組織(そしき)に置(お)き換(か)わっただけ、という事(こと)が実際(じっさい)には良(よ)く起(お)きていると聞(き)きます。例(たと)えば、日本人(にほんじん)で言(い)えば、日本人(にほんじん)は『努力(どりょく)』をとても大(たい)切(せつ)にします。そして人(ひと)の目(め)を非常(ひじょう)に気(き)にしますから、「もっと良(よ)い人間(にんげん)になって人(ひと)からも認(みと)められたい」。こんな意識(いしき)が働(はたら)くのです。時(とき)には本当(ほんとう)の自分(じぶん)に無理(むり)をして鞭打(むちう)って努力(どりょく)を続(つづ)けてしまう事(こと)もあります。しかし、「福音(ふくいん)」とは、価値(かち)の無(な)い所(ところ)に価値(かち)を生(い)み出(で)す神(かみ)の力(ちから)です。福音(ふくいん)とは、私(わたし)たちの生(い)き方(かた)そのものを逆転(ぎゃくてん)させる力(ちから)のあるものなのです。人間(にんげん)関係(かんけい)の上下(じょうげ)においても、「福音(ふくいん)」は低(ひく)く下(くだ)られたイエス様(さま)を指(さ)し示(しめ)しますから、『リーダーほどしもべ(=人(ひと)に仕(つか)える者(もの))になる』という原則(げんそく)が示(しめ)されます。 また、私(わたし)たちは何(なに)か変化(へんか)しようとする時(とき)に「まずは形(かたち)から」という事(こと)が多(おお)いですが、「福音(ふくいん)」は内側(うちがわ)の動機(どうき)そのものに働(はたら)きかけます。神(かみ)の愛(あい)を知(し)り、その神(かみ)のために生(い)きようとする時(とき)に初(はじ)めて人間(にんげん)は、聖霊(せいれい)の導(みちび)きで内側(うちがわ)から変(か)わっていく事(こと)ができるのです。 さらに私(わたし)たちは過去(かこ)というものに縛(しば)られ易(やす)いですが、「福音(ふくいん)」とは私(わたし)たちに将来(しょうらい)の希望(きぼう)を指(さ)し示(しめ)すものです。神(かみ)の愛(あい)と赦(ゆる)しの中(なか)で、将来(しょうらい)の希望(きぼう)に向(む)けて生(い)きていく事(こと)ができるのがクリスチャンの特権(とっけん)なのです。

 

それでは、その「福音(ふくいん)」の本質(ほんしつ)とは一体(いったい)何(なに)でしょうか? それを理解(りかい)するために考(かんが)えて欲しい事(こと)があります。

Ⅱ.福音(ふくいん)だけが中(ちゅう)心(しん)である  ~福音(ふくいん) 対(たい) 宗教(しゅうきょう)~

私(わたし)たちの信(しん)仰(こう)の基礎(きそ)となるのは「信(しん)者(じゃ)の行(おこな)い」ではなく「イエス様(さま)がなされたこと」です。私(わたし)たちは信(しん)仰(こう)により恵(めぐ)みによって救(すく)われた(神(かみ)の前(まえ)に義(ぎ)と認(みと)められた)のです(エペソ2:4-5)。この事(こと)は他(ほか)の宗教(しゅうきょう)活動(かつどう)とキリスト教(きょう)を区別(くべつ)します。私(わたし)たちが神(かみ)様(さま)に従(したが)うのは、私(わたし)たちがまず神(かみ)様(さま)に受(う)け入(い)れられたからであり、私(わたし)たちが良(よ)いことをしたいと願(ねが)う動機(どうき)はただ「神(かみ)への感謝(かんしゃ)」なのです。自分(じぶん)を義(ぎ)と認(みと)めてもらうために善行(ぜんこう)をする訳(わけ)ではありません。「福音(ふくいん)」は、神(かみ)様(さま)に従(したが)う正(ただ)しい動機(どうき)とは他(ほか)の宗教(しゅうきょう)が教(おし)えているように神(かみ)様(さま)から何(なに)かを得(え)るための努力(どりょく)としてではなく、神(かみ)様(さま)を喜(よろこ)び神(かみ)様(さま)に似(に)るためであると教(おし)えています。救(すく)いは、激(はげ)しい修行(しゅぎょう)や戒律(かいりつ)を守(まも)る事(こと)などによって結果(けっか)として得(え)る報酬(ほうしゅう)ではないのです。そして、どの宗教(しゅうきょう)にも属(ぞく)していない人(ひと)もまた、「善良(ぜんりょう)な人間(にんげん)」になることによって自分(じぶん)のセルフイメージを良好(りょうこう)に保(たも)とうとします。彼(かれ)らは、基本的(きほんてき)に「どれほど一(いっ)生(しょう)懸命(けんめい)頑(がん)張(ば)って生(い)きているか」という事(こと)で自分(じぶん)の価値(かち)を保(たも)とうとします。神(かみ)様(さま)の保証(ほしょう)の後(うし)ろ盾(だて)の無(な)い場合(ばあい)、人間(にんげん)は才能(さいのう)や地位(ちい)・能力(のうりょく)・また品格(ひんかく)といった自分(じぶん)を優(すぐ)れていると認(みと)めるための判断(はんだん)材料(ざいりょう)(偶像(ぐうぞう))が必要(ひつよう)なのです。 しかし、福音(ふくいん)中(ちゅう)心(しん)の考(かんが)え方(かた)をするクリスチャンは自分(じぶん)に降(ふ)りかかるべき罰(ばつ)はイエス様(さま)が代(か)わりに受(う)けてくださったと理解(りかい)しています。ですから彼(かれ)らは人(ひと)の誹謗(ひぼう)中(ちゅう)傷(しょう)・誤解(ごかい)があろうとも挫(くじ)けることはありません。彼(かれ)らの価値(かち)は自分(じぶん)自身(じしん)の行(おこな)いや他人(たにん)の評価(ひょうか)ではなく、ただ神(かみ)様(さま)の愛(あい)に基(もと)づいているからです。彼(かれ)らは罪(つみ)深(ぶか)く失(うしな)われた者(もの)ですが同(どう)時(じ)にキリストにあって神(かみ)に受(う)け入れられている者(もの)なのです。そして、この事(こと)が分(わ)かっているクリスチャンは他人(たにん)を見下(みくだ)すことが出来(でき)ません。ただ恵(めぐ)みのゆえにのみ、今(いま)の自分(じぶん)がある事(こと)が分(わ)かっているからです。

しかし、すべてのクリスチャンはある程度(ていど)のレベルにおいて福音(ふくいん)を信(しん)じてはいますが、より深(ふか)いレベルでは、まるで自分(じぶん)の良(よ)い行(おこな)いによって救(すく)われているかの様(よう)に行動(こうどう)してしまっています。イエス様(さま)以外(いがい)の事(こと)柄(がら)や自分(じぶん)の良(よ)い行(おこな)いをどこかで絶対化(ぜったいか)して、それによって神(かみ)様(さま)の前(まえ)に出(で)られるかのように錯覚(さっかく)しやすいのです。ですから自分(じぶん)の心(こころ)を意識(いしき)的(てき)に「福音(ふくいん)による考(かんが)え方(かた)」に戻(もど)さないと、また「宗教(しゅうきょう)的(てき)なルールやしきたりを守(まも)ることによって自分(じぶん)を義(ぎ)とする生(い)き方(かた)」に戻(もど)ってしまいやすいのです。そんな私(わたし)たちの霊的(れいてき)新(しん)生(せい)(刷新(さっしん))の鍵(かぎ)は、継続(つづ)的(てき)に福音(ふくいん)の真(しん)理(り)を発見(はっけん)していくことです。

 

Ⅲ.福音(ふくいん)を奪(うば)い取(と)る二(ふた)つの強盗(ごうとう)

福音(ふくいん)は宗教(しゅうきょう)的(てき)なことと、非(ひ)宗教(しゅうきょう)的(てき)なことの両方(りょうほう)に対立(たいりつ)します。この強盗(ごうとう)とは一方(いっぽう)は、道徳(どうとく)主(しゅ)義(ぎ)・律法(りっぽう)主(しゅ)義(ぎ)であり、他(た)方(ほう)は快楽(たの)主(しゅ)義(ぎ)・相対(そうたい)主(しゅ)義(ぎ)です。

◆道徳(どうとく)主(しゅ)義(ぎ);自分(じぶん)の達成(たっせい)した事(こと)のゆえに受(う)け入(い)れられるという考(かんが)え方(かた)。道徳(どうとく)主(しゅ)義(ぎ)の宗教(しゅうきょう)は保守(ほしゅ)的(てき)で規律(きりつ)によって支配(しはい)されています。神(かみ)様(さま)を聖(きよ)く正(ただ)しい方(かた)として捉(とら)える事(こと)ばかりを強調(きょうちょう)するために、自分(じぶん)自身(じしん)や他人(たにん)を「劣(おと)っている(神(かみ)様(さま)の基準(きじゅん)通(どお)りに生(い)きられない)」か「優(すぐ)れている(神(かみ)様(さま)の基準(きじゅん)通(どお)りに生(い)きられる)」だけの基準(きじゅん)で見(み)てしまう傾(けい)向(こう)があります。

◆相対(そうたい)主(しゅ)義(ぎ);通常(つうじょう)は非(ひ)宗教(しゅうきょう)的(てき)であるか自由(じゆう)主(しゅ)義(ぎ)(リベラル)な立場(たちば)を好(この)みます。彼(かれ)らは何(なに)かしらの理想(りそう)や能力(のうりょく)を生(い)きる価値(かち)観(かん)としており、皆(みな)自分(じぶん)自身(じしん)の理性(りせい)で十分物(じゅうぶんもの)事(ごと)を正(ただ)しく判断(はんだん)できると考(かんが)えています。彼(かれ)らは神(かみ)様(さま)を正(ただ)しい方(かた)、神(かみ)の言葉(ことば)を自分(じぶん)を照(て)らす正(ただ)しい基準(きじゅん)として見(み)るのではなく、区別(くべつ)無(な)く愛(あい)を与(あた)える非(ひ)人格(じんかく)的(てき)な力(ちから)として捉(とら)える傾(けい)向(こう)があり、彼(かれ)らには罪(つみ)人(びと)の自覚(じかく)はありません。

 

◆放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ

12-24節(せつ)に登場(とうじょう)する弟(おとうと)息子(むすこ)は典型(てんけい)的(てき)な相対(そうたい)主(しゅ)義(ぎ)タイプです。彼(かれ)はわざわざ親(おや)の目(め)の届(とど)かない、裕福(ゆうふく)な父(ちち)の支配(しはい)の及(およ)ばない「遠(とお)い国(くに)」にまで行(い)ったのです。もちろん彼(かれ)にだって自分(じぶん)の理想(りそう)とする生(い)き方(かた)はあったでしょうし、自分(じぶん)の可能性(かのうせい)を試(ため)してみたかったのでしょう。現(げん)代(だい)人(じん)にも多(おお)く見(み)られる自己(じこ)実現(じつげん)重視(じゅうし)のライフスタイルと言えるでしょう。しかし、何(なん)の基準(きじゅん)にも従(したが)わない彼(かれ)の放縦(ほうじゅう)な生(い)き方(かた)はすぐに滅(ほろ)びを招(まね)きました(16節(せつ))。「彼(かれ)は豚(ぶた)の食(た)べるいなご豆(まめ)で腹(はら)を満(み)たしたいほどであったが、だれひとり彼(かれ)に与(あた)えようとはしなかった。」 豚(ぶた)とは当時(とき)のユダヤ人(じん)にとって最(もっと)も忌(い)み嫌(きら)われる動物(どうぶつ)であり、そのエサにすがりたいほどの状態(じょうたい)、大(おお)飢饉(ききん)によってユダヤ人(じん)のアイデンティティを失(うしな)ってしまうような状態(じょうたい)であったというのです。結局(けっきょく)彼(かれ)は自分(じぶん)で思(おも)い直(なお)したというよりは、「我(われ)に返(かえ)って」初(はじ)めて我(われ)が身(み)の愚(おろ)かさに気(き)付(づ)かされました。「我(われ)に返(かえ)る」とは「自分(じぶん)自身(じしん)に帰(かえ)る」という意味(いみ)の言葉(ことば)であり、『自分(じぶん)自身(じしん)の本当(ほんとう)の姿(すがた)に気(き)付(づ)く』という事(こと)でしょう。そして、彼(かれ)はただ「父(ちち)の下(もと)に帰(かえ)る」事(こと)を選択(せんたく)します。そして、20,22節(せつ)にあるように「先行(せんこう)する神(かみ)の愛(あい)」によって救(すく)われるのです。救(すく)いにおいて彼(かれ)自身(じしん)に何(なん)の功績(こうせき)があった訳でもないのです。そして、彼(かれ)は自分(じぶん)で選(えら)んで恵(めぐ)みを受(う)け取(と)る余裕(よゆう)もなく、ただ父(ちち)親(おや)の大(おお)きな愛(あい)に赦(ゆる)されて受(う)け入(い)れられたのでした。人間(にんげん)本当(ほんとう)にぼろぼろになった時(とき)には主(しゅ)体的(てき)な行動(こうどう)が何一(なにひと)つ出来(でき)ない時(とき)があります。

それに対(たい)して兄(あに)息子(むすこ)のほうはこれまた典型(てんけい)的(てき)な道徳(どうとく)主(しゅ)義(ぎ)タイプでした。彼(かれ)は29節(せつ)で「戒(いまし)めを破(やぶ)ったことは一度(いちど)もありません」と自分(じぶん)の義(ぎ)を自認(じにん)していたし、「友(とも)だちと楽(たの)しめと言(い)って、子(こ)山羊(やぎ)一匹(いっぴき)下(くだ)さったことがありません」という言葉(ことば)からも、彼(かれ)の善行(ぜんこう)が彼(かれ)の父(ちち)への感謝(かんしゃ)や愛(あい)情(じょう)からと言(い)うよりは、まず自分(じぶん)自身(じしん)の価値(かち)を高(たか)めるためのものであった事(こと)が分(わ)かります。イエス様(さま)がこのたとえ話(はな)を『パリサイ人・律法(りっぽう)学者(がくしゃ)にされた』という状況(じょうきょう)も非常(ひじょう)に重要(じゅうよう)です。つまり、このたとえ話(はな)は兄(あに)息子(むすこ)タイプの人々(ひとびと)に向(む)けられたものでもあったのです。

それでは失(うしな)われていた息子(むすこ)はどちらでしょう? それはこの息子(むすこ)たち両(りょう)方(ほう)なのです。ですから、この父(ちち)親(おや)は息子(むすこ)たち両(りょう)方(ほう)に声(こえ)を掛(か)けられたのです。

 

これらの相対(そうたい)主(しゅ)義(ぎ)的(てき)なもの道徳(どうとく)主(しゅ)義(ぎ)的(てき)なものは、どちらもイエス様(さま)を救(すく)い主(しゅ)として認(みと)めることを避(さ)け、自分(じぶん)自身(じしん)の人生(じんせい)における支配(しはい)権を自分(じぶん)自身(じしん)で保(たも)とうとする手段(しゅだん)となるのです。 彼(かれ)らに足りないのは、弟(おとうと)息子(むすこ)タイプの人(ひと)にとっては「神(かみ)様(さま)の聖さ・正(ただ)しさ」を認(みと)めることであり、兄(あに)息子(むすこ)タイプの人(ひと)にとっては自分(じぶん)の弱(よわ)さを認(みと)める事(こと)への恐(おそ)れとプライドを捨(す)て「神(かみ)様(さま)の愛(あい)や恵(めぐ)み」を受(う)け取(と)ることなのです。このどちらも、そのままでは最終(さいしゅう)的(てき)に完全(かんぜん)に福音(ふくいん)を失(うしな)ってしまいます。それは人間(にんげん)にとって、福音(ふくいん)だけが神(かみ)様(さま)と出(で)会(あ)う事(こと)の出(で)来る唯一(ゆいいつ)の手段(しゅだん)だからです。私(わたし)たちはとても罪(つみ)深(ぶか)いのでただ恵(めぐ)みによってのみ神(かみ)様(さま)の前(まえ)に進(すす)み出(で)ることができるのです。兄(あに)息子(むすこ)タイプも弟(おとうと)息子(むすこ)タイプもどちらも「自分(じぶん)自身(じしん)で救(すく)いを達成(たっせい)できる」という基礎的(きそてき)な罪(つみ)を犯(おか)しているため、喜(よろこ)びや恵(めぐ)みの力(ちから)を失(うしな)ってしまうのです。私(わたし)たちクリスチャンにとって、自分(じぶん)の「罪(つみ)」も「最高(さいこう)の行(おこな)い」もどちらも、イエス様(さま)を救(すく)い主(ぬし)として認(みと)めることを避(さ)ける手段(しゅだん)となりえるのです。 本当(ほんとう)に「福音(ふくいん)を理解(りかい)する」とは、そういった自己(じこ)義(ぎ)認(にん)から方(ほう)向(こう)転換(てんかん)し神(かみ)様(さま)との関係(かんけい)のためにイエス様(さま)なされたわざ・力(ちから)にのみ頼(たよ)るという事(こと)なのです。弟(おとうと)息子(むすこ)タイプの人は人生(じんせい)の窮地(きゅうち)に陥(おちい)るまで悔(く)い改(あらた)めませんし、兄(あに)息子(むすこ)タイプの人は自分(じぶん)・他人(たにん)の行(おこな)いを反省(はんせい)し罰(ばち)するだけです。クリスチャンは悔(く)い改(あらた)めるとき、なぜ悔(く)い改(あらた)めるかを吟味(ぎんみ)するのです。そして、自分(じぶん)で自分(じぶん)を支配(しはい)しようとしているものを認(みと)めて、それをイエス様(さま)に明(あ)け渡(わた)すのです。それが真(しん)の悔(く)い改(あらた)めです。悔(く)い改(あらた)めとは、「反省(はんせい)し自分(じぶん)を罰(ばち)すること」ではなく「人生(じんせい)の方(かた)向(こう)転換(てんかん)」なのです。

 

そして、ただ「神(かみ)への感謝(かんしゃ)」の思(おも)いから出(で)る善行(ぜんこう)をジョナサン・エドワーズは「真(しん)の美徳(びとく)」と呼(よ)んでいます。自分(じぶん)の内側(うちがわ)を支配(しはい)するものから解放(かいほう)されてイエス様(さま)に人生(じんせい)の舵(かじ)取(と)りをしていく時(とき)に、私(わたし)たちは人生(じんせい)の重荷(おもに)から初(はじ)めて解放(かいほう)されるのです。愛(あい)してくださる神(かみ)様(さま)への恵(めぐ)みの応答(おうとう)としての善行(ぜんこう)とは、実(じつ)にすがすがしく温(あたた)かい気(き)持(も)ちにさせられ、喜(よろこ)びを伴(ともな)うものです。「このような、罪(つみ)人(びと)・はしためを主(しゅ)は用(もち)いてくださる」という感謝(かんしゃ)の気(き)持(も)ちがいつも大(たい)切(せつ)です。

 

                                            6  29  吉村直紀목사의 설교

                        복음중심의 복음으로 해방된   

누가복음15:11-32 2

Ⅰ.인삿말과 도입

 안녕하십니까? 오늘 저를 초대해 주셔서 감사합니다.

오늘 여러분께 하고싶은 내용의 주제는 「복음」입니다. 예수 그리스도의 「복음」은 우리들을 죄로부터 구원해 영원한 생명을 얻게한 것 만이 아니라, 그것으로 인해 우리들의 삶, 태도, 도덕, 인간관계, 문화 전반에 커다란 변화를 가져오게 한 것입니다. 그러나, 불행히도, 수많은 사람들이 「자신은 복음을 믿고있는 크리스챤입니다」라고 말하면서, 실제로는 이제까지 살아온 방식(방법론)에 의지하여 믿게되기 전과 같은 방법으로 살아가고 있으며 , 단순히 소속된 단체가 교회라는 조직으로 바뀌어진 것 뿐의 일이 실제로 자주 일어나고 있슴을 듣고 있습니다. 예를 들면, 일본인은 『노력』을 대단히 중요하게 생각합니다. 그리고 사람의 눈에 신경을 많이 쓰므로, 「더욱 좋은 사람이 되어서 사람들에게 인정받고 싶다」 이런 의식이 작용하는 것입니다. 때로는 본래의 자신을 무리시켜가며 노력하는 일도 있습니다. 그러나 「복음」이란 가치가 없는 곳에 가치를 만들어내는 하나님의 능력입니다. 복음이란 우리들의 삶, 그 자체를 역전시키는 힘이 있는 것입니다. 인간관계에 있어서도, 「복음」은 낮추어진 예수님을 가리키고 있으므로, 『리더일수록 종(사람을 섬기는 자)이 된다』라는 원칙이 나타나고 있습니다. 또한 우리들이 어딘가 변하려 할 때 「모양부터」라는 말이 많이 있지만, 「복음」은 내면의 동기가 변하도록 일합니다. 하나님의 사랑을 알게되어, 그 하나님을 위해 살려는 때에 인간은 처음으로 성령의 인도하심으로 그 내면부터 변해져 가는 것입니다. 더욱이 우리는 과거의 습관에 묶여버리기 쉽지만, 「복음」은 우리들의 장래에 소망을 나타내주는 것입니다. 하나님의 사랑과 용서안에서 장래의 소망을 향해 살아갈 수 있는 것이 크리스챤의 특권인 것 입니다.   

그러면, 이 「복음」의 본질이란 대체 무엇일까요? 그것을 이해하기 위해 생각해 봐야 할 것이 있습니다.

Ⅱ.복음만이 중심이다.  복음    종교 

 우리들 신앙의 기초가 되는 것은 「신자의 행함」이 아니라 「예수님이 하신 일」입니다. 우리들은신앙을가짐으로은혜를입어구원받은(하나님앞에의로인정받았다) 것입니다.(에베소서2:4-5) 이 일은 다른 종교활동과 구분됩니다. 우리들이 하나님께 순종하는 것은 우리들이 먼저 하나님께 받아들여졌기 때문이며, 우리들이 선한 행동을 하고자 바라는 동기는 그저 「하나님을 향한 감사」인 것입니다. 자신이 의롭게  인정받기 위해 선행을 하는 것은 아닙니다. 「복음」은, 하나님께 순종하려는 바른 동기와는 다른 종교가 가르치고 있는 것처럼, 하나님으로부터 무언가 얻으려 노력하는 것이 아니라, 하나님을 기뻐하고, 하나님을 닮아가기 위한 것이라고 가르치고 있습니다. 구원은 격한 수행이나 계율을 지키는 것으로 얻게되는 결과의 보상이 아닙니다. 그리고, 어떤 종교도 소속되지 않은 사람도 「선한 인간」이 되는 것으로 자신의 이미지를 좋게 보전하려 합니다. 그들은 기본적으로 「얼마나 열심히 살아가고 있는가」라는 것에 자신의 가치를 두려 합니다. 하나님의 보증을 뒤로하지 않은 경우, 인간은 재능이나, 지위, 능력, 또한 품격등으로 자신을 우수한 존재로 인정하기위한 판단 재료(우상)가 필요한 것입니다. 그러나 복음중심의 생각을 하는 크리스챤은 자신에게 내려질 벌은 예수님께서 대신 받아주셨음을 알고 있습니다. 그러므로 그들은 사람의 비방중상, 오해가 있더라도 쓰러지는 일은 없습니다. 그들의 가치는 자기자신의 행함이나, 타인의 평가에 의한것이 아니라, 그저 하나님의 사랑에 근거한 것이기 때문입니다. 그들은 깊은 죄로 잃어버린 자들이었지만, 동시에 그리스도를 만나 하나님께 받아들여진 자들입니다. 그리고, 것을깨닫고있는크리스챤은타인을얕보거나없습니다. 그저은혜로인해지금의자신이있음을알고있기때문입니다.

 그러나 모든 크리스챤은 어느 정도로는 복음을 믿고 있지만, 더욱 깊은 수준으로는,  마치 자신의 선한 행동으로 구원받은 것처럼 행동해 버리고 있습니다. 예수님 이외의 일들이나 자신의 선한 행동을 마음 속 어딘가에 절대화하고, 그것으로 하나님앞에 나아갈 수 있는 것처럼 착각할 수 있는 것입니다. 그러므로 자신의 마음을 의식적으로 「복음에 근거한 사고」에 돌아가지 않으면, 또한 「종교적인 규정이나 관례를 지키는 것으로써 자신을 의롭다고 여기는 삶」에 돌아가버리기 쉬운 것입니다. 그런 우리들의 영적신생(쇄신)의 열쇠는 계속적으로 복음의 진리를 발견해 나가는 것입니다.

Ⅲ.복음을 빼앗는 두가지 강도

 복음은 종교적인 일과 비종교적인 일 두가지에 대립합니다. 이 강도의 한쪽은 도덕주의, 율법주의이며, 다른 한쪽은 쾌락주의, 상대주의 입니다.

도덕주의 : 자신이 달성한 일로 수용된다는 생각. 도덕주의의 종교는 보수적이며, 규칙에 지배되어 있습니다. 하나님을 정결하고, 바른분 쪽으로만 받아들여 강조하기 때문에 자기자신이나 타인을떨어져  있다(하나님의 기준대로 살아갈수 없다)라든지우수하다(하나님의 기준대로 살아갈 있다)라는 두가지의 기준으로 보게되는 경향이 있습니다.

상대주의 : 보편적으로는 비종교지만, 자유주의(리베라르)적인 입장을 선호합니다. 그들은 어떤것의 이상이나 능력을 삶의 가치관으로 여기며, 누구든지 자기자신의 이성으로 모든 일을 충분히 바르게 판단할 있다고 생각합니다. 그들은 하나님을 바른 , 하나님의 말씀을 자신에게  비추는 바른 기준으로 생각하는 것이 아니라, 구분없이 사랑을 부여해 주시는 인격적인 능력으로 보는 경향이 있으며, 그들에게는 죄인의 자각이 없습니다.

탕자의 비유

12-14절에 등장하는 아들(동생)은 전형적인 상대주의 타입입니다. 그는 일부러 부모의 눈에 뜨이지 않는, 유복한 아버지의 지배가 미치지 않는 「먼 나라」에 간 것입니다. 물론 그 나름대로 그리던 이상적인 삶이 있었을 것이며, 자신의 가능성을 시험해보고 싶었을 것입니다. 현대인에게도 많이 보이는 자기실현 중시의 라이프 스타일이라고 할 수 있습니다. 그러나 어떤 기준에도 따르고 싶지 않은 그의 방종한 삶은 곧 멸망을 초래하고 맙니다. (16절)「저가 돼지 먹는 쥐엄 열매로 배를 채우고자 하되 주는 자가 없는지라」 돼지란 당시의 유대인에게 있어서 가장 경멸받아 온 동물로써 그 먹이에 의지하려던 상태, 대기근으로 인한 유대인의 정체성을 잃어버린 듯한 상태에 있던 것입니다. 결국 그는 자신의 힘으로 고쳐 생각한 것보다는, 「제 정신이 들어」 처음으로 자신의 어리석음을 깨달았습니다. 「제 정신이 들다」라는 것은 「자기자신에게 돌아가다」라는 의미의 말로, 『자기자신의 참된 모습을 깨닫다』라는 것이라 할 수 있습니다. 그리고 그는 그저 「아버지께 가」는 것을 선택합니다. 그리고 20,22절에 나온 것처럼 「먼저 일하시는 하나님의 사랑」으로 인해 구원받은 것입니다. 구원에 있어서 자신에게 어떠한 공적도 없었습니다. 그리고 그는 자신이 선택한 은혜를 얻을만한 여유도 없이, 그저 아버지의 커다란 사랑에 용서받고, 받아들여진 것입니다. 인간이 정말로 형편없이 비참한 상태에 처하면 어떤 주체적인 행동도 전혀 할 수 없는 때가 있습니다.

이것에 비하여, 장남은 전형적인 도덕주의 타입이었습니다. 그는 29절에 「명을 어김이 없거늘」이라고 자신의 의를 자인했으며, 「내게는 염소 새끼라도 주어 나와 내 벗으로 즐기게 하신 일이 없더니」라는 말을 보더라도, 그의 선행이 아버지를 향한 감사나 애정에 의한 것보다, 자기자신의 가치를 높이려던 것이었슴을 알수 있습니다. 예수님께서 이 예화를 『바리새인, 율법학자에게 하셨다』라는 상황도 대단히 중요합니다. 즉, 이 예화는 장남타입의 사람들에게도 향한 것이었습니다.

그렇다면 탕자는 어느쪽일까요? 그것은 이 아들들 양쪽에 해당됩니다. 그러므로, 이 아버지는 아들들 양쪽에 말씀하신 것입니다.

 이들, 상대주의적인것과도덕주의적인것은어느쪽도예수님을구원의주로써인정하는것을피하고, 자신의인생에있어서지배권을자기자신이가지려는수단이되고있는것입니다. 그들에게 부족한 것은, 동생타입의 사람에게 있어서는 「하나님의 정결함, 정당함」을 인정하는 것으며, 형타입의 사람에게 있어서는 자신의 약함을 인정하는 것에 대한 두려움과 자존심을 버리고, 「하나님의 사랑과 은혜」를 받아들이는 것입니다. 이 어느쪽도 이대로는 최종적으로 완전히 복음을 잃어버리게 됩니다. 그것은 인간에게 있어서 복음만이 하나님과 만날 수 있는 유일한 수단이기 때문입니다. 우리들은 대단히 깊은 죄인이기 때문에 은혜로써만이 하나님앞에 나아갈수 있는 것입니다. 형타입, 동생타입 어느쪽도 「자기자신의 힘으로 구원에 달성한다」라는 기초적인 죄를 범하고 있기때문에, 기쁨이나 은혜의 능력을 잃어버리게 되는 것입니다. 우리들 크리스챤에게 있어서 자신의 「죄」, 「최고의 행함」 어느쪽도 예수님을 구원의 주로 인정하는 데 방해되는 수단이 될 수 있기 때문입니다. 진실로 「복음을 이해하다」라는 것은, 이러한 자기의인으로부터 방향을 바꾸어 하나님과의 관계를 위해 예수님께서 행하신 업적과 능력만에 의지하는 것 뿐입니다. 동생타입의 사람은 인생의 궁지에 빠질때까지 회개하지 않으며, 형타입의 사람은 자신∙타인의 행함을 반성하고 벌하는 것밖에 없습니다. 크리스챤은 회개할 때 왜 회개하는지를 음미하는 것입니다. 그리고 자신이 자신을 지배하려는 것을 인정하고, 그것을 예수님께 유단하는 것입니다. 이것이 참된 회개입니다. 회개란 「반성하고 자신을 벌하는 것」이 아니라 「인생의 방향을 전환」하는 것입니다.

그리고, 그저 「하나님께 감사」의 마음으로부터 나오는 선행을 죠나단 에드워드는 「참된 미덕」이라 부르고 있습니다. 자신의 마음을 지배하는 것으로부터 해방된 예수님께서 인생의 키를 조종하실 때에 우리들은 인생의 짐으로부터 처음으로 해방되는 것입니다. 우리를 사랑해주시는 하나님의 은혜의 응답으로써의 선행이란 실로 상쾌하고도 따뜻한 기분이 되며 기쁨을 동반하는 것입니다. 「이런 죄인∙종을 주께서 써 주신다」라는 감사의 마음이 언제나 중요합니다.

 

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