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2015年9月6日 礼拝 説教(日本語文) 音声あり


 

2015年9月6日 「聖霊とキリスト」ルカ3:21-22

序文)これまでの礼拝で学んだように、聖霊は、聖徒の人としての性質の中に働いて「御霊の実」を結んでいって下さいます。それは人性に対しての働きでした。 
 では聖霊とイエス・キリストの関係はどのようになっているのでしょうか。キリストは神の第二位格でした。第一位格である父なる神と、第二位格である子なる神と第三位格である聖霊の神は、三位一体で、互いに本質において同等です。ですから、聖霊はキリストの神性にたいして、なんら影響力を持っていません。しかしイエス・キリストの人としての性質(人性)については、キリストは私たちと同じように絶えず聖霊の臨在を必要としていました。イエスは完全に神であると同時に、完全に人でありました。彼の人性が、神としての性質と分割、分離できないということは、彼の人性が変化して、神性に融合してしまうということではないということです。この二つの性質の結合は、彼の神としての性質が、全能や全知というような神としての資質を、彼の人としての性質に与えたために、イエスはもはやまことの人間でなくなり、神になったと言うようなことではありません。神としての諸資質が、キリストの人としての性質、つまり人性に移行して、一つの神性と一つの人性がではなく、二つの神性になるというようなことはありません。彼の神としての性質が、その人としての性質を神性化することはありませんでした。かえって聖書が告げているように、イエスは神のままでありながら、完全に人間であり、それで幼子から少年へ、さらに成人へと成長したのであり、私たちと同じようにあらゆる点で試練にあわれ(ヘブル4:15)、十字架上で神に見捨てられ、死なれたのです。イエスは自分の再臨の日や時間を知りません。父なる神がご存知です。イエスの二つの性質は存在し続けました。彼は全く神であると同時に全くの人でした。永遠であると同時に有限でありました。
 イエスは、全くの人であるので、一生涯を通じて聖霊の働きを受ける必要がありました。聖書はこのことを実例によって示しています。

Ⅰ イエスの聖霊による誕生・聖霊のイエスへの内住・成長
 1 イエスが人として生活を地上で始める最初の時、聖霊が必要でした。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。マリヤが「聖霊により身重になった」(マタイ1:18)。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子とよばれます」(ルカ1:35)。マリヤの胎に不思議な方法でいのちの種を根付かせたのは聖霊であって、父なる神でも、御子でも、ましてヨセフでもありませんでした。救い主としての誕生のために無罪のままに生まれる必要があり、聖霊によって受胎することで原罪から守られた。「またこのようにきよく、悪も、けがれもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です」(ヘブル7:36)。人は受胎し罪の内に生まれるが、キリストは受胎し聖さのうちに生まれました。キリストは原罪といわれる罪責と腐敗した性質の両面の影響を受けずにすんだ。マリヤの場合はそうではないが、イエスは汚れなく宿った。「罪を犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われた」(ヘブル2:15)。彼は「傷も汚れもない小羊のようなキリスト」(第一ペテロ1:19)である。
 2 聖霊は、あらゆる形の罪の汚れからイエスを守っただけでなく、イエスの人性のきよさの作者でもあった。彼の魂に罪がない、その代わりきよさが宿っている。聖霊はイエスに対する知的・美的・倫理的能力の賦与者であって、人間一般の場合と同様に、キリストの人性についても言える。ヨハネは、イエスについて特にしるして「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである」(ヨハネ3:34)といっている。私たちは信じたときに聖霊が与えられているが、それは無限にではない。部分的である。キリストの内に住む聖霊は無限であり、充分である。
 3 人としてのイエスには、聖霊が限りなく内住することは事実であるが、キリストの霊的歩みに、成長のあったことも事実である。これは聖書に記されている記事のなかでも、最も魅力的なものの一つである。「幼子は、成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった」(ルカ2:40)。「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された」(ルカ2:52)。イエスの知的歩みと霊的歩みには、成長があったということである。その結果、神と人に愛されたのです。

Ⅱ 洗礼、誘惑、
 キリストの生涯の中で、聖霊の働きは彼の洗礼の時に顕著に見られます。「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった」(ルカ3:21-22)。このことが起こる以前には、どの福音書にも、イエス・キリストの働きについてなにも記されていない。ただ、誕生と少年時代のことが書かれているだけである。この後で、彼の宣教と奇跡のわざが記されることになる。ルカはイエスの洗礼のことを記して、直ちに、「教えを始められたとき、イエス・キリストはおよそ30歳で人々からヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)としるした。イエスの公的な働きのために、神は公的な備えを与えられた。「神はナザレのイエスに聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました」(使徒10:38)。イエス様の宣教と奇跡のわざは、限りなく注がれている聖霊の力によって行われたのです。イエスが公的生涯に入ったのは、彼自身の力によってではなくて、聖霊の備えを与えられて入ったのでした。
 
2 イエスの生涯におけるもう一つの重大な働きは、イエスの誘惑との関係で明らかになります。イエスへの誘惑は聖霊の指導のもとに起こりました。「聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」(ルカ4:1-2)。「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」(ルカ4:13-14)。イエスは誘惑の始まりから終わりまで、その期間ずーっと聖霊の支配下にあり、イエスの人間としての性質は、その前に置かれた激しい誘惑に勝つために、御霊によって力をあたえられたということである。

Ⅲ 死、復活、栄化
 1 クリスチャンの救いは、イエスの死という彼の外的な行為に負っているだけでなく、彼が死ぬ時にしめした内的な態度にも負っている。神は心と外に現れる行為との間のふさわしい関係を、常に要求する。彼の意志にただ外面的に一致させることだけでは喜ばれず、その魂においても、行為に見合った態度がなければならない。「主よ、主よ」という口だけを、また外側がきれいにされた器だけをみるわけではない。ご自身にたいする完全な愛の態度が要求される。
 聖霊に感謝すべきことには、イエスは完全な犠牲をささげてくださった。自己の意志に反して強いられて死んだのではなく、自らすすんでそうされた。死の効果を知りながら、しかも喜んで、神への信仰を持って、愛と信頼と服従とによって、死んでくださった。その態度は完全であった。
 「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか、私たちの良心をきよめて死んだ行いからはなれさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(ヘブル9:14)。御霊がイエスに働いて、私たちの贖いを完成するに必要な態度をとるようにさせたのである。聖霊なしには、イエスはできなかった。聖霊によって完全な態度を持って、十字架につかれ、それによって私たちの贖いを獲得してくださった。
 2 聖霊はイエスの復活のうちにも見られた。キリストの働きは時には、父の働きとされ(使徒2:24)、また時には子の働きとされるが(ヨハネ10:17、18)御霊も特別なしかたで働かれたことが、聖書では間接的に暗示されている。ローマ8:11「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなた方の死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」父なる神は、御霊によって、私たちの死ぬべきからだをも生かしてくださる、と記されている。クリスチャンの復活の場合に、父なる神が御霊を通して働かれるのであれば、クリスチャンとキリストのそれぞれの復活の間に見られる、聖書で確立している類似から考えて御霊がキリストの復活にも、特別な働きをしたと言えるだろう。
 3 キリストの地上の生涯で、聖霊がなした最後の行為は、聖書の特定の箇所が示す事はできないにしても、多くの箇所から推論できる。
 聖徒は聖霊によって完全にきよくされる。またアダムのように罪のない状態の時の人間にとってさえ、汚れのないあらゆる宗教生活を可能にするのも聖霊であると考えられる。救われた者に内住するのも聖霊であって、それは聖徒が天国に行ってからも変わりない。そういうわけであるなら、聖霊はキリストの人性にたいして働き始め、彼の復活までそれが続き、すべての聖徒たちの場合と同様に、栄化されたキリストの人性のうちにも住んでおられることは確かである。
 
結び)イエス・キリストはまことの人であった。常に完全な神であるとともに、完全な人であった。それは、天において今でもそうである。完全な人であるキリスト、罪なくして受胎し、罪責と腐敗の点で原罪から全く護られた彼が、聖霊に頼っていたのであるから、私たちはなおのこと、あらゆることに聖霊に頼る必要がある。
聖霊は、私たちの贖いを完成するために働き、キリストが獲得してくださった贖いを私たちに適用するために働いておられる。私たちは、聖霊をほめたたえなければなりません。聖霊は、私たちの再生と聖化の点で、私たちに当てはめてくださるだけでなく、イエス・キリストにあって、贖いそのものを完成してくださったからです。

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