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2015年1月1日 元旦礼拝 

明けましておめでとうございます!

 

司会・説教 廣橋嘉信牧師 奏楽 石川智久兄弟 Vn.石川絢楓姉妹

前  奏

招きの言葉     ヨハネの福音書14章16-17節

開会の祈り

主 の 祈り

教会福音賛美歌   505番 父なる神に この年の

聖 書 朗 読     ヨハネの福音書14章25-26節

聖 書 の 話      「真理の御霊は助け主」    廣橋嘉信牧師

教会福音賛美歌  173番 御霊は天より

契約の子ども祝福の祈り

献   金      那須宗泰長老

報   告

頌 栄(教会福音賛美歌) 272番 みつにまして一つの神

祝   祷              廣橋 嘉信牧師

後   奏      567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

2015年 元旦  ヨハネ14:16-17、25-26 「助け主・聖霊」

序文)主イエス・キリスト様が十字架の死を目前にして弟子たちに告別説教をされました。弟子たちは状況を理解できなかったのですが、主はこれから起こることを知っておられた。それで自分に残されたわずかな時間の中で重要な教えを分かち励まし慰めを用意された。それは十字架の死後、復活し天に帰られるために弟子たちが失うことがらの全部をどのようにして補おうと考えておられるかについてでした。主が身体をもって弟子たちとともに歩み、教え、戦われたが、これからはそれが出来なくなる。その代わりに、主はもっと素晴らしく豊かで大きな恵みを用意して、その欠け目を補おうとされました。

すなわち、もう一人の助け主・聖霊が天の父から遣わされてきて、永遠に弟子たちの内にとどまり、彼らの内に住むということなのです。それはイスラエルの少数の者たちと共に歩まれる主から、全世界の主イエスを信じ愛するすべての者たちの心に宿る主へと広がる素晴らしい約束だったのです。

この約束はペンテコステの時に成就しました。

 

Ⅰ ヨハネ14:16-17

主はいわれました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

この約束はヨハネ福音書では始めてここに出てくるのです。しかも三位一体の三位格が全部でてきます。お願いする子なる神、お与えになる父なる神、助け主である聖霊なる神です。

助け主(パラクレートス)は「慰め主」とも訳されています。この原語は新約聖書で五回しか用いられておらず、一回は「弁護してくださる方」と訳しています。この場合は主イエス・キリストを指しています。ほか四回は聖霊を指しています。聖霊が私たちの申し立てを弁護し、聖徒たちのためにとりなし、祈りと宣教において聖徒たちを助けてくださる職務を意味します。

どのようにして助け主として働かれるのでしょうか。それは「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(Ⅰコリント6:19)とある通り、主イエスを信じたものの心の内に住み、神のいのちを賜り、霊の新しい誕生を与え、人間存在のもっとも深い意味で、私のいのちの原則となり、人格の根拠となり、私たちが神の子であるとの自覚を与える真実ないのちとなってくださったのです。御霊は神からの霊として私たちのいのちとなって住んでくださったのです。クリスチャンは主イエスを救い主として信じたときから御霊が心の内に住んでくださっているのです。まごころから信じた者に例外なしに住んでおられるのです。

弟子たちが主イエス様抜きで、主イエスの弟子でありえなかったように、ペンテコステ以後クリスチャンは聖霊様抜きでクリスチャン生活をすることはありえないのです。『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます』(ローマ8:14-15)。天の父なる神様と祈るときに、御霊が祈らせてくださっているのです。

Ⅱ 真理の御霊 ヨハネ14:26,15:26、16:13

御霊は真理の御霊です。主イエスは弟子たちにたいして「私は道であり、真理でありいのちなのです。私を通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)といわれました。主イエスは真理です。すべての真理はその中心にイエス・キリストを持っています。御霊が真理の御霊といわれているのは、御霊の最も重要な働きが真理であるイエスをあかしすることだからです。御霊は「すべてのことを教え」、「主イエスが弟子たちに話したすべてのことを思い起こさせ」「主イエスについてあかしし」「すべての真理に導かれるのです。」 御霊は御子イエスを私たちに教え示し導き結びつけるために働かれるのです。だから私たちは今まで、御霊のことより主イエス様のことのほうがよくわかったのです。そして私たちは、イエス・キリストによって、自分自身について、神について、世界についての真理を知り、認識します。真理を知るとき、真理が自由を与えてくれるのです。

信仰生活を進めるためにみことばの真理を悟らせ、約束の本当であることを経験させるのです。主イエスの教えは弟子たちにとって明確に理解できたかといえば、必ずしもそうとはいえません。むしろ理解できないことの方が多かったのです。誤解したままでしたし、聞き逃したことも多かったのです。真理の御霊がこられて、それらを思い起こさせ、理解を正し、説明し、実行に移させたのです。私たちの日々において、同様に御霊は働いておられるのです。聖書を読んでいるとき、説教を聞いているとき、祈りの中で、真理を明らかにして主イエス・キリストをより鮮やかにお示しになっているのです。

御霊はクリスチャンに対してだけ働かれるのでなく、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(16:8)。それは福音の宣教と深く関わって、福音を聞く者の心に働きかけて罪と義とさばきについて目を開き、自覚を与えられるのです。この働きの故に、私たちのあかしが実を結ぶことを期待することが出来るのです。福音を伝えるときに未信者が目を開かれて信仰にはいることを確認するのです。

 

Ⅲ 聖霊は人格です

御霊がこのように主イエスの配慮のもとに、私たちに対して、私たちの内で重要な働きをなさるのですが、この御霊は人格を持っておられることを最後に確認しておきましょう。このことは先に学びましたように御霊が「助け主」と言われていることからわかります。働きの一つ一つは御霊が人格でないと出来ない事柄です。

例えば、御霊は「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか」(使徒5:3)とあるとおり欺かれることがあります。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」(エペソ4:30)とあるとおり、悲しまれることがあります。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい」(ヘブル10:29)とあるとおり、侮られることがあるのです。さらに「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(エゼキエル37:9)とあって呼び求められることがあります。(注:息は、霊・風とも翻訳できる言葉で、ここでは聖霊をさす)。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。そのとき、主は仰せられた。」(マタイ12:31)冒涜されることがあるのです。

御霊が人格であり神ご自身であることは、クリスチャンたちに重要な真理を語っています。私たちはこの方と交わることが出来、この方の所有となることができ、私たちは御霊を愛することが出来るのです。また御霊に聞き、導かれ、従ってゆく立場に置かれているのです。さらに私たちの心には単なる神の祝福が与えられているのではなくて全能の神様の臨在が与えられているのですから、私たちの内にあらゆる神の愛と慈しみが溢れており、あらゆる可能性の根元が宿っているのです。果たしてこのことをどれほど真実なこととして毎日の生活で知り気がついているでしょうか。この教会が、ことし一年も、存在し、みことばの解き明かしと祈りと礼典を執行できるのは、聖霊が一人一人に住んでおられるからであります。礼拝があり、セルグループがあり、聖徒の交わりと、重荷の分かち合いがあるのは、聖霊が働いておられるからです。そのことを軽くみてはいけません。自分の思い通りに、経験どおりに聖霊が働かれていないといって、教会の頭である主イエス・キリストの霊である、聖霊が、教会とその枝である信徒の中に働いておられないわけではありません。課題は信仰をもって人格的な交わりをいつもしているかということなのです。

結び)私たちはこのような重大な真理を今まで、学ばなかったために知らないでいたか、学んだが御霊が内に住んでおられることを感情でとらえようとしたために、楽しく、平和で、力があるように感じるときだけ御霊がおられて、悲しく、ふさぎ込んだり、むなしいときはおられないと感じていたのです。しかし御霊は感情で理解するお方でなく、人格なのですから信仰で理解するのです。常に見える事柄で理解するのではありません。不思議な出来事としるしで理解しようとする誘惑がありますが、そうでなく主イエス様の約束なので、ペンテコステの日に天からお降りになって信仰者の内に住まわれたと理解するのです。また大多数の信仰者は、神様にたいして告白していない罪があるために御霊との交わりが妨げられ、御霊が悲しまれており、その存在を示すことが出来ないでおられるために理解できないのです。

それで、今日の説教の終わりは「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)との勧めに従って、黙想の内に御霊様があなたの内に住まわれるのにそれを知らず理解しなかった罪をお詫びしましょう。あるいは、告白していない罪のために妨げられていると思うなら、その罪を静かにいいあらわして神様に許していただきましょう。

溢れる御霊のいのちと恵みに支えられて、主イエス・キリスト様をさらに知る者と変え続けていただきましょう。

(補足:今年は詩篇の連続講解説教と聖霊についての教えを交互に礼拝で学ぶ計画です。聖書の教える聖霊を正しく理解し信じ従い、助けを受け続けましょう。)

 

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