2015年12月23日 キャンドルサービス 説教「永遠の都」黙示録22:1-5
序文)クリスマスイブ礼拝に際して、救い主の最初の来臨のより、十字架の上で成就された罪からの救いを感謝いたします。さらに、栄光の主イエス・キリストが、二度目の来臨をなさるとき、完全に被造物世界と私たちクリスチャンたちに新世界をもたらすことを信じて,聖書が語っている神の国の完成を待ち望みます。使徒ヨハネは、神から自分に示された幻によって、神の国の完成形としての、「永遠の都」の情景とその祝福を概観しています。「都には神の栄光があった。」これが中心テーマです。
1 新しいエルサレムについての幻の全体は、比較対照法によって、七つの消極的説明がなされている。地上の都市とは異なり、新しいエルサレムにはいろいろなものがないといわれている。神殿がない。神ご自身が人ともに住まれるので、神殿を通して間接的に神に近づくことはないし、必要もない。
照明用の太陽や月も必要でない。古代世界において、人工照明はほとんど知られていなかった。その高層建築物は、狭い通路を昼なお暗い状態にしていた。まして夜は弱々しい月光りで街角や裏通りを明るくすることはできなかった。あらゆる種類の危険や悪が暗闇に待ちかまえていた。
神の都は神の栄光で輝いていたので、自然界にある発光体や、人間が使うランプや篝火を頼りにする必要はなかった。都の門は閉じられることがなかった。防備のために城壁都市は城門を閉じて、盗賊やよその軍隊の侵入を阻止した。各都市は戦争の時は自給自足をしながら生き続ける小要塞となっていた。神の都はあらゆる敵対勢力が打ち破られて存在しないので警戒は必要がなくなった。
都市にはいかなる不潔も存在しない。21:27節 道徳的、霊的不潔からの完全な解放。「もはや 呪われる者は何もない」(22:3)。創世記の罪の初めの世界は呪いに満たされていた。創世記3:17ー19。のろいとは労働のことでなく、人をくたくたにする不毛な骨折りのことである。奉仕は楽しい、神の民の額には神の名が付けられていて、カインのしるしはない。
この都には夜がない。悪がその隠れ家から出歩き、罪がはびこっている時間はない。神の都ではそのような悪が身を隠し密かに勢力を伸ばすような機会はない。人工的光りも当然必要でない。この繰り返しは、神が聖徒のために計画された新生命の輝きと栄光をいっそう強調するものとなっている。
以上七つの消極的説明は、あらゆる地上の文明、特にバビロンとの比較において、神の都を浮き彫りにしている。2015年を閉じようとするにあたり、現代文明の光と影を、たくさん見せられてきた者たちとして、実感をともないます。
2 積極的説明
新しい都は神の贖罪の記念碑。その門にはイスラエルの12部族の名前が書き込まれ,その土台には小羊の12使徒の名が刻まれていた。旧約時代、新約時代の神の聖徒は、ともにこの共同体に神により贖われ、そこに住む権利を与えられた者として代表されていた。都市の創設者たちが都市に美観を添える石碑、また建築物にその名を記されたように、聖徒たちの霊的祖父たちも、この都では栄誉を受けるのである。
礼拝もここでは完成を見る。神は「手でこしらえた宮などにはお住みになりません」(使徒17:24)。事実人を神に近づけうる神殿などは、そこに存在していない。新しい都では、神自ら、いつも現在してくださっているので、人は直接近づくことができるのである。
照明は完全である。光りは現実を顕示する。神から出る光りはいかなるものにも影を残さない。すべてのものに輝きを与え美しくする。
この都では社会も完全である。戦争も悪もない。国々や諸民族が楽しく交わりを続け、それぞれの関心事を交換することによって喜びや富をますます増大する。人々は神が樹立しようとされる文化に、自分なりの貢献を思い通りにすることができるようになる。
この都の環境は、その住民の発達に最も適している。いのちの水の川、いのちの木その他、実を結ぶ木は、エデンに存在していた。神はそれらを回復して人間にお与えになる。
人間のする仕事も完全になる。「しもべたちは神に仕える」実りのない労苦はもうしなくて良くなる。そして労働は建設的で有用なものとなる。永遠の状態で無限の怠惰を持て余すことはない。そこでは疲れや失敗を恐れずに常に活動が続けられる。
そこでは生きることの満足も完全に味わえる。「神のみ顔を仰ぎ見る。」贖いにより完成に導かれた聖徒たちは、ついにかげりのない神の御姿を見ることが赦される。
そこでは安全が保障される。「彼らは永遠に王である。」いかなる敵も彼らを王座から引き下ろすことはできない。敵がいないのだから。またいかなる悪も彼らを脅かすことはない。悪は永遠の滅びにある。勝利は永遠となる。
神の都で最も輝いて見えるのは「小羊」の持つ人格の栄光である。都の住民の礼拝を受けるのは、ほかならぬ小羊である。小羊こそは都の明かりである。その市民の住民登録簿は「小羊のいのちの書」と呼ばれている。小羊の御座は都の活気ある生活の中心であり、彼の臨在は神に民の代わることのない喜びであった。贖い主なるキリストは永遠なるキリストであり、彼を愛する者にとっては、主イエス・キリストはすべてのすべてとなるのである。