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2015年8月30日 礼拝 奨励 音声あり

 

2015年8月30日 「あなたも行って同じようにしなさい」 ルカ10:29−37 那須宗泰長老

29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」30 イエスは答えて言われた。 「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい」

今日はこのような慣れない場を与えられて、戸惑っていたというのが正直なところです。私は、神学を勉強した者ではありませんので、他の牧師先生方のように聖書の箇所について立派な神学的な説教をすることはできません。以前、一度この場で簡単に証ししたことが有りました。もう時間も経ちましたし、自分のことをあまりお話ししたことはないので、自己紹介を兼ねて、神様がどのように私を導いてくださったかの証を中心にお話ししたいと思っています。

この場面の登場人物

1.自分の正しさを示そうとしてイエス様に質問した人
2.イエス様

3.エルサレムからエリコへ向かっているある人
4.そのある人を襲った強盗たち
5.反対側を通り過ぎて行った祭司    律法実行の模範
6.反対側を通り過ぎて行ったレビ人   律法実行の模範
7.手厚く介抱して宿屋に連れて行った、サマリヤ人 (当時、ユダヤ人からさげすまれていた人)

「あなたも行って同じようにしなさい」

自分の救い
私は,静岡県沼津市で,ノンクリスチャンの家庭に生まれ育ちました.自分の知る限りでは、身内の中には誰一人としてクリスチャンはいませんでした。

子供の頃は,愛情深い父親の存在があり,日常生活では,特に大きな不平不満や,理不尽を感じることなく,子供時代を過ごすことができました。野球が大好きで、王貞治に憧れて、小学校からずっと野球をしていて、地元では良く知られた野球少年でした。

小学校高学年の頃から,何が真理なのか 絶対的なものは何か 知りたくて求めていました。なぜそうなったのかは、よく覚えていませんが、小学校3年の頃に近所のおばあさんが亡くなったことがきっかけだったのかもしれません。田舎だったので、地域ぐるみで、亡くなった日から一週間ほど、毎晩、大人たちはその家に集まってお経を唱えて、食事して帰る。そんなことをやるのですが、死に対する漠然とした恐ろしさを感じ、生と死を考え始める機会になり、あの世、幽霊、死後の世界、そんなことから、自分のわからない世界をもっと知りたい、そんな気持ちが芽生えたのかなと思います。

小学校高学年の頃から,いろいろな思想書(ヨガ,ガイア(宇宙・地球生命体),ニューエイジというものに分類されるようなもの)を読み,中学、高校の頃には、集会に参加し、知識欲を満たしては満足していました。

中学に入る頃に,自分で聖書を購入して持っていました.その頃の私にとって,聖書もそれらの内の一つでした.多くの人が思っているように,真理は一つで,その真理にどのようにして到達するかは,いろいろな道筋,登り方,捉え方,考え方,がある.
聖書の教えも,仏教も,イスラム教も,その他の宗教も,哲学も,素晴らしい教えも,真理への違う登り方を言っているだけで,真理を違った側面で捉えたに過ぎない・・・そんな,考え方をしていました.
だから,いろいろな視点のものを理解するほど,知るほど,真理を捉えることが出来る・・・ 理屈で理解できる,,,そんなふうに思っていました.

しかし,万物を創造した創造主がいるということ,唯一絶対の神、イエスキリストの存在について,全く頭の片隅にもありませんでした.
ただ,ある完全な秩序・法則のもとで成り立っている宇宙がある,その中に生命体も含まれていて自分もいる.
だから,秩序・法則を客観的に,何かを学習するように「理解」したかった。その法則が理解できれば、全てがわかるはず・・・  そんなことが真理を求める動機でした.

努力して,自分の力で獲得する,到達する,解脱する,そんな,考え方,価値観が私の根底にあったと思います.

その結果、大学に入る頃には、真理はこれだという自分なりの体系が出来上がっていました。
今,振り返ると,自己満足な思想ゲーム、論理ゲームのような感覚だったような感じがします.道徳感?というか倫理観というか,自分で正しい,良いと思える新しい考え方を吸収して、どこまで自分の考え方、捉え方を拡張できるか? そんな感覚だったと思います.

でも,真剣に考えて求めていました.それは、心の底から真理が欲しかったからです.絶対的なものが欲しかったからです.

大学入学直後に、自分の考え方に当てはまらないクリスチャン女性である妻に出会いました.
妻と出会ってから,よく、神(絶対的存在)について話をしました
でも、私は,妻が語る聖書の話は非常に狭い視野での話だ,と短絡的に決め付けて聞いては,持論を展開していました。真理へのいろいろな道筋のたった一つしかわかっていない,・・・,そんな視点で、本当に傲慢な私だったと思います。

その後,彼女に連れられて,初めて大学生時代に教会の礼拝に出席しました.
とても暖かい感じの人たちだな,それにしても大の大人が恥ずかしげもなく、大声で歌を歌えるな??・・・ 悪い印象はありませんでしたが,そんな感じでした.

会社に入ってからは,仕事一色の生活でした.
だんだん自分に任される責任が大きくなって行きました.
仕事で信用されることに喜びを感じながら,ますます遣り甲斐を感じつつ、仕事に対する自信を高めていきました.会社が神様のような生活になっていきました.

その頃,特に会社の中で,自分は・・・をしなければならない,・・・をすべきである,
関係する周囲の人に(身内,近所の人 先生)・・どのように振舞うことを期待されているか   どのように自分は処していくべきか・・・
そんなことが,自分の行動の大きな判断基準だったと思います.
自分が,心の底から,何かを本当にしたくて,やっていたことがあまりなかったように思います.まさに,会社組織や,会社の仕事が神様でした。
今になって振り返ると、自分自身の欲、もっと認められたい欲望、もっと自分を誇示・主張したい欲望、(そんな自分の罪)が神様になっていた、その奴隷になっていた、とも言えるとも思います。

社会人5年目、会社から2年間の留学する機会が与えられました.これが後に、私の価値観を根底から覆すものとなりました.

社内での留学者の選抜は、本当に狭き門だったのですが、私なんぞがそこで選ばれることは到底あり得ないはずなのですが、不思議にも1回目の応募で選抜されました。私を救いに導くための神様のご計画であったと今では確信を持って言えますが、その当時は,自分が会社で認められたと自信を高めた時期でした。

社内で留学候補者として選抜されると,どこの大学,研究所等に留学するかは,特に制約はなく,2年間の留学期間と,留学に必要な一切の費用を保証されました.
後は,自分で留学先を選んで,交渉して,必要であれば入学試験等をして,受け入れ許可の通知を会社に報告するだけでした。

私は,大学時代からとても興味があって,留学したいと考えていたカリフォルニアの大学を中心に留学先を検討し始めました.
しかし,妻がどうしてもロンドンに留学してほしい,と強烈に主張し始めました.
ドイツのマックス・プランク研究所からも研究生としての2年間受入れのオファーもあり,気持ちが動き始めていたのですが,ドイツはだめ! とにかく,ロンドン でした.
「私が留学するのに,なんでお前が私の留学先を決めるのか?」・・・
こんなことを言っては失礼ではありますが、当時の私の仕事での専門分野においては,産業革命で鉄鋼業の草分け的な存在であったイギリスではありますが、今日では日本の鉄鋼業界がイギリスから学習できることは何もないというのが当たり前の考え方でした。それに、サッチャー政権で大学への予算が大幅に圧縮されて,大学で研究を効率的に進めることはかなり困難、  そんな状況でした。
なんという無理なことを強烈に主張し始めてくれたのか??? と思っていました.
でも,妻は,「結婚してから私の会社中心の生活に従ってきたから,今回くらいは,私の希望を聞いて欲しい」とかなり強く主張してきました.
でも、私も,そのことについては,彼女を相当振り回してきていたことは自覚していて、かなりの後ろめたさもあったので,なんとか自分の会社の業務に関係のありそうな大学の先生を探して,その先生(大学)に決定した理由を捻出して,ロンドン大学インペリアルカレッジ(の大学院)に留学することになりました.
私は,もともと英語がよく出来なかったのですが、その大学で入学に必要とされる英語の試験も,必要最低ラインでクリアすることが出来ました.
本当に神様は凄いです。  どんなことも,神様の意の外にはありません。・・・

イギリスに渡ってしばらくして、通っていた大学の隣にあった教会の礼拝に妻と一緒に出席しました.
Holy Trinity Brompton という英国国教会の教会でした,ここの教会を知った経緯については後ほど触れたいと思います。アルファコースという言葉を聞いたことがある方がいらっしゃるかもしれませんが,「イエスキリストの救いについての10週間の未信者向け導入コース」を始めた教会です.
その教会の人達が,私にはないもので,何となく強く惹きつけられてしまう素晴らしい何かを持っていることが気になり始めました.妻も持っているその何かを私も欲しいと強く思うようになり,ロンドンであらためて聖書を買って読み始めました。
その後,ロンドンでの教会の人達との交わりを通じて,クリスチャンの暖かさに触れ、聖書に対する関心は高まっていきました.

留学してから1年半が経過した1995年のクリスマスの時期に,妻が加わっていた自宅近くの教会のハウスグループで,クリスマスパーティがあり,それに私も妻と一緒に出席することになりました.
ハウスグループは,2週間に1度.夜8時から11時頃まで,教会のメンバーの家で,10人くらいで行われていました.貸衣装のタキシードを着て、正装してクリスマスパーティに行きました.
とても暖かみのある,笑いの絶えない素晴らしいパーティでした.

その中で,同世代の中国系マレーシア人夫婦が、未信者の私に話しかけてきてくれました。2年前位の美浜文化ホールでの天路歴程のイベントの時に、私達家族と一緒にコーラスした夫婦です。聖書に関して興味を持ち始めていたこと、自分が真理を求めていることなどを、私が下手な英語で話していることをにこにこしながらただ聞いてくれました。そこで,彼が信仰のことをとても暖かく笑顔で話してくれたことを通して,私の心の扉が大きく開き始めました.

その後,2月頃から自宅近くの教会で,毎週水曜の夜8時から10時くらいの,10週連続のアルファコースに出席し始めました.
アルファコースは、毎回、賛美して、教会のメンバーによるその日のテーマに沿った簡単な劇,ショートメッセージ,小グループのセッション.で2時間くらいの内容でした.
私は,グループセッションで,「人は皆,罪人である」ということがよく理解できない、生まれたばかりの赤ちゃんも罪人なのか・・ そんなことを質問しました。何か悪いことをやったから、何かをやらないから、罪である、特に前者だと思いますが、一般的によくある考え方だと思いますが、そう思っていたからです。
それに対して,ある方が「罪」とは「矢が的を外れる」ということだと答えてくれました。このときはこの言葉が,何の疑問もなく、心にスッと入ってきて,だんだん,聖書に対して心が開いた状態で受け入れられるようになっていきました.

でも, イエス様が唯一絶対の神であると確信をもって認めるまでには至りませんでした。
それは,それまでの自分の考え方であった,自分の力で「理解」できなかったからでした。
なぜ、イエス・キリストだけが特別で、他の我々とは違う別格な「人」なのか? 他の宗教的な偉人たちとどこが違うのか?
完全な法則で支配されている宇宙という時空間に収容されている存在があって、その存在の中の一つに人間がいて、その同じ人間でしょ。その完全な法則を良く理解した(理解しきった)「人」なんでしょ? そんな考え方でした。
その完全さの時空間、法則をも含めた、すべてを創造した存在があることに全く関心が向いていなかったからです。自分が生まれながらにして束縛されてしまっている、時間・空間に完全に、考え方や思いまでも支配されまくっていたからです。たとえ、聖書の最初の部分に目を通していたことがあったとしても。

しかし、アルファコースに出席していたころのある冬の日に、主の臨在に触れて、はっと、気付かされました。眼からうろこがポロッと、ドサッと落ちました。

アルファコースに出席していた頃の,ある冬の日の夜明け前,私の就寝中のことでした.
イエス様は私の腕を自らの御手で包んでくださり、主の愛がどれほど暖かく、深いものであるかを、鈍感な私に直接示してくださいました。経験したことのない表現できないほどの深い愛(人格)に触れられ、ただ一方的に与えられ,あまりの感動と驚き(畏敬の念)で目が覚めました。

理屈(頭)だけで「理解」しようとしてきた私に、致命的に欠けていた「愛(情)」を直接イエス様が教えてくださったのだと, その瞬間に直感的に理解し、即座に受け入れました。
神は愛である 感情(愛)を持つ存在であることを,それを通して確信しました.
それまで,絶対的な存在(何か)は,秩序や法則,だと思っていた私の価値観は,完全に変えられてしまいました.それが、主の愛、であったことを知りました。
イエスキリストの愛は,とても人には表現できない魅力的なもの・・・ 他のものと比較して論じることなんてする余地がない,素晴らしいものであることを知りました.
自分が努力して理解する・獲得するものではなくて,ただ,受け入れるだけで十分であること.

自分が理解しようと思って努力して、理解できてしまったら、それはむしろ、神様を自分の支配下に置いてしまうこと、その努力をしていたことに気付いたのです。自分は自分の力で何とかしようとする上から目線での生き方だったと思います。
自分が全てを知ることは、到底できるはずもない崇高な存在、それが神様であることを認めて、赤ちゃんが、親のことを何も疑うことなく、素直に親として受け入れ、信頼して期待し、求め、従うように、イエス様を受け入れることができるようになったのです。背の高い親の方(上)を向いて、親が与えてくれる愛情を何も疑うことなく求め続けて、親を受け入れる気持ちに似ていると思います。

その後、留学してちょうど2年が経った1996年6月16日(日)、ロンドンの自宅近くのウインブルドンの教会で受洗しました.
全く異なった価値観を持って生まれ変って帰国しました。
恥ずかしげもなく,大きな声で賛美したい人となって、帰国しました。会社へ提出した最終の報告書の最後に、自分が洗礼を受けてクリスチャンになったことも何の躊躇もなく記載しました。本心は、ここまでの証くらいに報告(証)したかったのです。

自分がイエスキリストを信じる者となって変えられたこと、受洗、を通じて,「神様の時」を感じました。

その1
ロンドンに私が出発する1か月ほど前に、妻が事前に日本で英語の聖書を買っておきたい、ということで、当時住んでいた君津市から、東京駅の大手町の丸善に行きました。彼女が洋書のコーナーの聖書のところで、どの英語の聖書がいいかいろいろ見ていた時に、1人の外国人の女性が近づいてきて、
聖書を探しているのか?
これから主人が留学でロンドンへ行くので、自分はクリスチャンで事前に英語の聖書を買っておきたくて探していた
一緒に選んでくれて
どこに行くのか? 教えると、実は、すぐ近くにいたご主人がその大学で講師をしていた、、、 今は、日立で仕事をしている。
元気で活気のある教会があれば、教えてほしい
大学のすぐ隣にあるよ。
私達はそこのメンバーだ。
しばらく話をして、別れました。引越しで全ての荷物を社宅から積み出している時に、その方から小包と手紙が届いて、ロンドンに行ったら、この人と連絡を取ったらいいと言うことが書かれた手紙をいただき、その方にロンドンの教会ではお世話になり、家にまで招いていただいたりしました。
丸善でその方に出会ったタイミング、引っ越しの積み出しをして、もう明日はロンドンに出発するというそのタイミングでの手紙の受領、、、これ以上の絶妙なタイミングはないと思います。
私は、丸善のときも、引越しの時も、ものすごい偶然なこともあるんだね、・・・すごいすごい・・・、なんて妻と話していましたが、妻は、その時から、導かれていると確信していたようでした。

その2
それから、もう一つ、ロンドンに行く口実として、何とか関係するような大学の先生を指導教授として、理由をこじつけて決定して、会社に希望留学先を提出したことを話しました。
無理やり大学での研究生活も自分が留学前の会社でやっていた内容とは全く関係のない分野でスタートしていました。
ところが、なんと、ロンドンに行って、たったの2か月で、その先生が理由は明らかにはされませんでしたが、その先生が大学との間で何らかの問題があって、大学を辞めてしまいました。私はある日、突然、学部長から呼び出されて、どこの国にでも行きたいところがあれば面倒をみるから言ってほしいとまでも言われました。やっと生活がなんとか始まったのに、、、と途方に暮れていました。
それまで、不動産屋を巡って自分で賃貸契約をしたり、慣れないいろいろな新しい生活を始めるための手続きをしたり、ようやく生活できるような状況にまで漕ぎつけたのに、また、他の国でやり直し???!!! とても困惑していました。 しかし、なんと、そこで、ふっと大学側から提案された先生が、今までは、大学とは全く関係なかった、イギリスの国立の研究所から、私の分野では世界的な権威の先生が、私の通っていた大学に非常勤で、私の面倒を見るためだけで来て下さることになったのです。それをきっかけにして、その国立研究所にも頻繁に出入りできるようになり、研究の内容にしても素晴らしく恵まれ、人格的な面でも素晴らしいその先生との出会いを経験させてもらうことができました。自分の洗礼式には、その教授にも立ち会っていただきました。

結局自分は、特にその先生を選ぶために、ものすごく調査したわけでもなく、特別な努力をしたわけでもなく、ただ、その時、出会いが自分の意志とは違った方向から、全く予想もせずにただ与えられたのです。

このような自分の体験を通じても、私の人生全てを通じてイエス様が導いていて下さっていた「私が神様を受け入れる時」があったことを実感しています。
「もし」、とか、「たら」、「れば」、というのは、あり得ないとは思うのですが、昔の私の価値観の延長で、自分の計画や思いだけを主張して進めていたら、どうだったのかな?? と思うと、今となっては、ちょっと寒くなるような感じを、覚えることがあります。

今から振り返ると、私の中には、心の中のボイド(空虚な隙間)、スペースが、自分の中に予め備えられていて、それは、神様でなければ完全に満たすことができなくて、、、まずは、私がその自分の中の空虚さの存在に気付くように導いてくださり、  そして、神様の備えて下さったタイミングで、私の努力とか積み重ねとか全く関係のない神様の一方的な方法によってそれをイエス様が満たしてくださいました。
それはゴールではなく、それによって、その後の歩みためのスタートにようやく立たせていただいたこと。 本当に感謝なことだと思っています。

そして、私が主に導かれ、心がイエスキリストに対して開かれるように、妻を始め多くの方々が祈って下さっていたことを後から知り、多くの人々の祈りに支えられていたことに感謝しました。

現在
クリスチャンになって
全てがハッピーになって、人生バラ色で、人生がどんどん楽になって、何のトラブルが発生することもなくなり、人からはどんどん認められ、病気もなく、経済的にもどんどん豊かになって、、、、 言い過ぎかもしれませんが、快楽の人生がスタートする、、、 というように変わることはないですね。
もちろん、主に仕えていくことによって大きな恵みを受けることもあります。

マタイ6章
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。
地上に宝をたくわえてはならない。 天に宝をたくわなさい。

自分の生活が、歩みがどのような状況の中にあっても、イエス様の愛を携えてそれに臨むことができるように、自分が変えられていく、そのプロセスを歩み始めたにすぎない。

また、生を受けて活動している全てが主を礼拝しているということを、いつも忘れずに、心に留めて生活したいと思っています。

今の仕事には、11年前に転職しました。転職して新しい職に就いた時には、最初の歓迎会で自分はクリスチャンであると自己紹介しました。その後、いろいろな場で、聖書について、クリスマスについて、クリスチャンについて、など関係することを話すことができるようになっています。私が話さなくても、話してほしい、教えてほしいと求められることがときどきあります。例えば、懇親会でお酒が少し入った時に、話すことも良くあります。興味があって聞きたいけれど、日常ではなかなか真面目な話を切り出しにくい多くの人にとっては、このような場が話せるきっかけになることもあります。また、クリスマスやイースターが近くなると我々が当たり前に思っていることも、全く新鮮に聞いてもらえることも経験しました。聖書の譬え話の意味を教えてほしいと言われたこともあります。祈ってほしいといわれたこともあります。そして、涙を流して喜んでそれを受けて下さったことも何度かありました。希かもしれませんが、私はそんな場が与えられることを喜んでいます。私がその職場に遣わされている目的だと思っています。

家庭、仕事、教会、友人、地域社会、その他の人との関係、など、人と関係を持つ場は、主が私達を遣わされた場であって、「あなたも行って同じようにしなさい」と指導されたことを実践する正にその場であると思っています。
いずれにしても、日常の生活全ての場で、自然に証し続けていくことが、それぞれの場に遣わされた私の役割だと思っています。
ノンクリスチャンの人達は、福音を聞いたことがない人も多いと思います。私達には当たり前で、新鮮ではないようなことでも、福音を聞いたことのない人達にとってみれば、天地がひっくり返るような主からの愛の喜びに満たされるかもしれない。私達には聞き慣れた御言葉も彼等にとっては人生を変えてしまう一言かもしれない。だから、自分中心で、自己満足で神を伝えることなく、伝える相手が具体的に目の前にいて、その人のことを思って、その人の必要や立場を認識して、伝える役割を果たしたいと思っています。

私達が置かれている環境は神様の意図があってのこと。そこにいる人達に伝えるために、神様はわざわざぽつんと私を派遣している。気負うことはないし、力むこともない。主に委ねて自然に行動すればいいと思っています。

良きサマリア人の譬え話に登場した人物は、イエス様以外に6人いました。私は、そして、あなたは、その内の誰に対応するのでしょうか。人生のいろいろな場面で、この6人の誰にもなり得ると思います。そのような弱い自分であることを自覚しつつ、底知れない深い愛のイエス様を知る者の一人として,全てにおいて主が働かれることを信じ,「あなたも行って同じようにしなさい」、この言葉を真正面から受けて、ただ主のみに信頼し、日々を歩んでいきたいと思っています。

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