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2016年9月4日 礼拝 説教(日本語文)エペソ3章11節


 

2016年9月4日 エペソ3:11 「永遠の聖定」

序文)使徒パウロは3:10節までのところで、福音に関わる神の豊かな知恵が、教会を通して示されるので、福音を宣教することの重大さを教えました。そのことは、神の永遠のご計画に沿っているのです。「神の永遠の聖定(ご計画)」については、「ウェストミンスター信仰告白3章神の永遠の聖定について」で詳細に明白に告白しています。すこし説明しましょう。

1  ウェストミンスター信仰告白{3:1}

1「神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが(1)、それによって、神が罪の作者とならず(2)、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである(3)。」(すべての項目で、参照聖句箇所は告白本文の引用をごらんください。)

聖定は、神の決定を意味しており、神の永遠の計画あるいは目的と同じことである。それは神の内側でおこったことで、外側に現れてくると創造や摂理となります。神の内側のことなのですが、それは三位一体のように神存在の問題ではなくて、神の行為の問題です。永遠から、神がご自身の内側で計画、決定されたことを外側に向かって行なわれた。時間が創始される以前になされた行為である。聖定は、世界に関する計画であるので、時間と関わってくるのです。でも聖定の段階では永遠のご計画なのです。

神と世界の関係の説明において、神の自由な永遠の決定により、決定したことが時間の中に必然的に起こってくるということだと分かります。このことは神と世界との関係を単純に自由に線で結んで、すべては偶然という者や、また、必然の関係で結び、決定論を主張する者たちに、聖書の有神論のすばらしさを証明しています。

「それによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、・・・」と告白できるのは、聖定論のすばらしいところである。なぜなら、決定論は、神を罪の作者(責任者)としてしまうし、被造物に自由意志がないとして、第二原因の自由性を否定せざるを得なくなるからです。

2 ウェストミンスター信仰告白{3:2}

「2 神は、想像されるすべての条件に基づいて起こってくるかも知れず、また起こってくることのできることは何事でも、知っておられるが(1)、しかし何事であっても、それを未来のこと、あるいはそのような条件に基づけば起こってくるであろう事柄として予知したから、聖定されたのではない(2)。」

ここは聖定と予知の関係を告白している。予知は、聖定に基づくのであって、聖定が予知に基づくのではない。神の意志決定が根元にあって、その故に何かの事物が生起する。神の聖定こそが、事物を存在させる根本原因である。すべてのことの発生する原因に神の聖定がある。

第3節以降で、予定の教理が告白されているが、その場合も、神が、ある人が将来信じるであろうと予知しておられたから、その予知に基づいて予定されたのではなく、予定されたから、その人は信じるようになったのであり、予定されたから、神はその人が将来信ずる者になることを予知されたのである。(予定とは人間に関する聖定をいう)「予知されたので、聖定された」との説に対する反論が、この告白です。

3 ウェストミンスター信仰告白{3:3}

「3 神の聖定によって、神の栄光が現われるために、ある人間たちとみ使たち(1)が永遠の命に予定され、他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている(2)。」

ここからは予定についての告白です。聖定は何事によらず世界と歴史と人生の中に起こりくる一切のことが含まれます。予定はその中で特殊で道徳的被造物に関する「神の永遠の救いの計画」をいいます。神の栄光が表れるためにという大目的のもとに予定があります。その対象は人間とみ使いたちです。道徳的理性的被造物は、善きもの悪しきもの集団だけでなく個人にも及んでいます。

予定は、永遠のいのちに予定され(Predestination)と、永遠の死にあらかじめ定められ(Foreodained)の二つがあります。双方は二重予定といいます。ウェストミンスター信仰告白は、いのちに定められたことをPredestinationと表現し、死に定められたことをForeodainedと表現して、使い分けています。これはそのように定められている根拠が全く違い、一方は神の憐れみが原因であり、他方は本人の罪が原因となっているので注意深く扱っているのです。

永遠のいのちに予定することを「選び」といっています。聖書の中で「選び」はいろいろな意義で語られています。たとえば、特殊な奉仕と特権のために一民族イスラエルが選ばれたこと(申命記4:27。7:6-8、ホセア13:5)や、ある職務、特殊な奉仕への個人の選び(申命記18:5、Ⅰサムエル10:24、詩篇78:70、エレミヤ1:5、ヨハネ6:70、使徒9:15)です。そして、ここの場合は神の子となるための、また、永遠の栄光の後継者となるための個々人の選びを指しています(マタイ22:14、ローマ11:4-5、Ⅰコリント1:27-28、エペソ1:4、ヨハネ13:18)。

永遠の死にあらかじめ定められていることを「遺棄(いき)」と言っています。選びはえらばれなかった人々の存在をも示します。神がある人々を救うように意図されたとすれば、他の人々を救いたまわないことを意図された。この点は、聖書の教えと完全に合致します(マタイ11:25-26、ロマ9:13、17-18、21、23、ロマ11:7、Ⅰペテロ2:4、ユダ4)。

「遺棄とは、それによって神がその特別恩寵の働きにより、ある人々を見過ごし、そして神の義の現れんために、人々の罪を罰するように決定したもうた神の予定であります。」(ルイス・ベルコフ)

この教えは、神に不正を負わせるとして議論が起こりました。もしも、神が全人類への罪の許しと永遠のいのちを負いたもうたのであれば、神がある制限された人数のみを救いたもうことは不正といえます。しかし立場が違います。あらゆる者が神の祝福を喪失したのです。神がある人々を見過ごしたもう理由の説明を、神に要求する権利を持つ者は一人もいないのです。もしも、神がだれをも救い給はなかったとしても、神は完全に正当です(マタイ20:14-15、ロマ9:14-15)。

4 ウェストミンスター信仰告白{3:4}

「4 このように予定されたり、あらかじめ定められているこれらのみ使や人間は、個別的また不変的に指定されており、またその数もきわめて確実で限定されているので、増し加えられることも、減らされることもできない(1)。」

予定の対象が個別的であることの立場で、この教えをやわらかくしようとして、集団予定論という考えが出され、選びも遺棄も個別的でなく、グループ的であるという説に対してもうけられた項目です。不変的に指定され、とは、神の選びのみ旨が朝と夕で変わったり、また遺棄に定められていた者が選びの民にされたりという変化はない(ヨハネ10:27-29、Ⅱテモテ2:19)。

5 ウェストミンスター信仰告白{3:5}

「5 人類の中で命に予定されている者たちは、神が、世の基の置かれる前から永遠不変の目的とみ旨のひそかな計画と満足に従って、キリストにおいて永遠の栄光に選ばれたのであって(1)、それは、自由な恵みと愛とだけから、被造物の中にある信仰・よきわざ・そのどちらかの堅忍・またはその他の何事をでも、その条件やそれに促す原因として予見することなく(2)、すべてその栄光ある恵みの賛美に至らせるために、選ばれたのである(3)。」

救いに選ばれた者の選びは、その目的、原因、経過のすべてについて、神によるものであることを示している。自由な恵みと愛だけから選ばれた。それは「キリストにおいて」の選びであった(エペソ1:4、Ⅱテモテ1:9)。さらにこの選びは、決して選ばれた人間自身の何ものにもよらないことを示しています。信仰、よきわざによるのでない。ここで信仰も加えられています。信仰が、信者の自力と考えることが誤りであることも分かります。いわば人間的な功績の一切を排除しているのです。ただ神の栄光ある恵みを賛美するだけです。

6 ウェストミンスター信仰告白{3:6}

「6 神は、選民を栄光へと定められたので、神は、み旨の永遠で最も自由な目的により、そこに至るためのすべての手段をも、あらかじめ定められた(1)。だから、アダムにおいて堕落しながら選ばれている者たちは、キリストによってあがなわれ(2)、時至って働くそのみたまによってキリストヘの信仰に有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ(3)、み力により信仰を通して救いに至るまで保たれる(4)。他のだれも、キリストによってあがなわれ、有効に召命され、義とされ、子とされ、聖とされ、救われることはなく、ただ選民だけである(5)。」

神は選ばれた以上かならず目的と手段それに至る経路も、同時的に定められていることを告白している。選ばれた者はどんなことをしても救われるという誤解、反対論に対してそうではなく、神はルートをも定められ、その手段を私達が勤勉に用いるとき、手段は救いのために有効に働いて救いの完成に役立つ。このようにして救いは、未完成に終わることなく必ず完成する。

7 ウェストミンスター信仰告白{3:7}

「7 人類の残りの者は、神が、み心のままにあわれみを広げも控えもなさるご自身のみ旨のはかり知れない計画に従い、その被造物に対する主権的み力の栄光のために、見過ごし、神の栄光ある正義を賛美させるために、彼らを恥辱とその罪に対する怒りとに定めることをよしとされた(1)。」

ここは遺棄、見過ごしにされた者についての教理です。もし、私達が神の一方的哀れみと恵みの救いにあずからなかったならば、当然に陥るべきであった定めが書かれています。「罪のために永遠に棄てられる者は、どこまでも神の主権的判断によってそうされるのであるから、人間が”なぜだ”と神に抗弁する権利はない」「5項の終わりの”恵みの賛美に至らせるため”と、7項の終わりの”正義を賛美させるために”とを対照すること。前者は憐れみの器で、後者は怒りの器で、ともに器であり、神の栄光を表す器であること」(岡田稔)に注意する。

アダムにおいて堕落し、日毎の歩みで罪と悲惨の中にある私たちが、憐れみにより、選ばれていることへの賛美、驚きこそあふれるべきであって、当然に滅びる者の存在に驚くのをやめよう。

8 ウェストミンスター信仰告白{3:8}

「8 予定というこの高度に神秘な教理は、み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き、それに服従をささげる人々が、彼らの有効召命の確かさから自分の永遠の選びを確信するよう(1)、特別な配慮と注意をもって扱われなければならない(2)。そうすればこの教理は、神への讃美と崇敬と称賛の(3)、また謙そんと熱心と豊かな慰めの材料を、すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう(4)。」

予定論は信仰をもって学ぶ者を慰める。しかし好奇心をもって神を軽蔑するに至る者の心を混乱させる。使徒26:14。利益は大である。忠実に配慮をこめて謙遜に学んでゆくときに、神への賛美と崇敬と賞賛をあげざるを得ない。

 

結び)「神の永遠の計画」は主イエス・キリストにおいて実現されました。私たちは、この福音に生きる者とされたのです。感謝します。

 

 

 

 

 

 

 

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