2016年10月30日 エペソ4:1~6 「召にふさわしく歩み」
ここからエペソ書は実践部分にはいります。クリスチャンの生き方を教えています。
1 「主の囚人である私」パウロ。3:1で名乗った事を繰り返しているように見えます。しかしここは「主の」とあり、3:1は「キリスト・イエスの」でした。
自分は主にある者である。そして主のために囚人となっている。主のくるしみの足りないところを補っている。伝道という点である。自分はキリストの故の苦しみを恥とはしない。むしろ、心から尊んで受けている。偉そうぶっているのではない。同情を引こうとしているのでもない。
私は主の何者なのか?一人一人自分自身に問いかけてみる。主の弟子、主のしもべ、主にあがなわれた者、何であれ、わたしたちは主にあって新しく生きている者である。主に召されたものである。召された方の囚人である。そのお方をかしらと仰ぐ一人一人である。
2 そのわたしたち、即ち神の民・教会は、召しにふさわしく歩みなさいと勧められている。あとに続く節の総括、序論であり本論であるような言葉が続く。全般的な宣告である。エペソの教会的背景の中で、パウロが実践の中心として教えようとしていることがらである。「召しにふさわしく歩け」ただこれだけである。
3 「神に対して自分を服従させること」召されたことのすばらしさは、1〜3章で教えておいた。今は其の素晴らしい召しに相応しく歩むことである。
神の召しは、a 1:4「み前で聖く、傷のない者にしようとされた。b 1:5、6神の子、栄光を誉めたたえる者とされた。教会の仕事、神の栄光をほめたたえる者、それはキリストのご人格の栄光を、この世にしめすことである。1:22、23。 c 教会はキリストが住んでおられるところ 2:19~22. d 3:9、10 神の豊な知恵を示すところ。
教会・わたしたちの召し
「神の民の間に住んでおられるイエス・キリストのご人格を、ことばによって宣べ伝え、態度と行為によって表現する」ことである。だから、私たちは生きておられるキリストとの出会いによって生活に革命が起こるという現実を伝え、その革命を無私で愛に満たされた生活によって例証する。これなしには何をしても効果がない。
教会は召された者たちである。聖化、高挙、栄化を通して主キリストにあずかる。あらわす。教会は何をするかよりも大切なことがある。それはどのような神の家族であるか。あり方が問われている。「謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
エペソ4:2
「謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
これらはイエスのご人格のまことのしるしです。クリスチャンの内に住まれるイエス、教会の内に住まれるイエスを、このようにして現すのです。
謙遜—尊大、無礼、うぬぼれ、見せかけの敬虔をもってあかしすべきではない。へりくだった思いをだき、自分の力を誇ったり、自分の名声を広めようとしてはなりません。教会や私たちがこの世を救うのではない。かしらであるイエス・キリストが救われるのです。
柔和—謙遜は柔和と優しさを生じる。柔弱、優柔不断とは違います。へりくだりからそれらは来る。
寛容—ギリシャ語でマクロスミアといいます。マクロは「長い」シュモス「こころ」苦難、困難に遭遇した時の忍耐として使われますが、特に神様が私たちかたくなな人間にたいして示された忍耐としての寛容を示すのに用いられます。
忍び合いーアネコー 寛容とほぼ同じです。特にいっしょに生活しにくいような人に対する態度で、冷淡、陰惨ではなく「愛」をもって、その愛そのものも「忍耐強い」ことを覚えましょう。
愛—ほかの人をあるがままの姿で受け入れる愛は、こころやさしく、また人をゆるし誤解や意見の相違によってクリスチャン同士を分け隔てるようなことはしない。
一致を保つことは、これらのありようによってすることができる。キリストが教会のかしらであり、私たちのうちに住んでおられ、満ちておられることを一同が認める時に、すべてが可能となる。
一致を保つ理由は4~6節に書いてある。一致の性質と基盤が7つの観点から示されている。
1 一つのからだ εν σwμα
これはキリストの体としての教会で、キリストに属するすべての者からなる神秘体 one mystical body of Christ すべての聖徒がキリストにある者
ローマ12:5「大勢いる私たちもキリストにあって一つからだです。一人一人互いに器官なのです。」第一コリント10:17「パンはひとつですから、私たちは多数であっても、一つ体です。それは皆のものがともに一つパンを食べるからです。」エペソ1:23「教会はキリストのからだです。」
2 一つの霊 εν πνεuμα これは一つの心ではない。これは感覚の同意とか、満場一致で決める式の一つ意志という意味ではない。Πνεuμαプニューマは聖霊のことで、一つのからだのあるところに一つの霊がある。そのからだのいのちである聖霊がすべてのメンバーの内に住んでおられる。第一コリント12:13「私たちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も、ひとつからだとなるように、一つ御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が、一つの御霊を飲むものとされたからです。」聖霊の内住がキリストの体の一致の究極的基盤である。一致に対するすべての罪は聖霊への罪である。ゆえに平和の絆でむすばれて兄弟達を愛するようにと命じられている。
エペソ4:4〜6
3 望みが一つ εν μια ελπιδι エン ミアー エルピディ 一つからだ、ひとつ霊故に一つ望みを信徒は持つ。信徒達が同じ高い運命を持ち、同じ期待でみたされているという事実は、彼らが一つである証拠です。その望みに置ける一致は、聖徒たちの交わりの根拠であり、要素でもある。コロサイ1:5「天にたくわえてある望み」テトス2:13「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
4 一つ主 εις κθριος エイス キュリオス 信仰の対称である主は一つ
「キリストがわたしたちの正統な所有者であられ、絶対的な主権者であられる。また、この私たちに対して主であられるとは、キリストが神・人でありたもうゆえであり、ただキリストの神性によるばかりか、同時に其の贖罪によるのである。」(ホッジ)第一コリント12:5「主は同じ主である。」
5 信仰は一つ μια πιστις ミア ピスティス
多くの注解者が、この一つ信仰は、一つの信条の意味ではないとしている。ガラテヤ1:23「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」ユダ3「聖徒たちにひとたび伝えられた信仰の為に闘うよう」
主体的に信じるということの一致。地上にある限り信仰の一致、全面的完全な一致は達成されないが、「信条とか教理」の細部にわたって迄の意味で基本的な点では一致している。まことのクリスチャン達はそうである。聖書は神のことばと信じている。説教すべき内容、神の子イエスキリストを礼拝し、その血による贖いを受け、信頼し、聖霊の聖めに信頼している。
6 一つ洗礼 バブテスマ εν βαπτισμα エン バプティスマ
一つ信仰の表れとしてのバプテスマ。バプテスマは聖なる一致への参加の礼典である。聖餐式は、一致を維持し、確認し、進展させる意味がある。バプテスマは同じ告白、おなじ契約を受け入れ、同じ主・贖い主への献身である。それですべての信徒は一つからだである。
ガラテヤ3:27、28
7 父なる神は一つ εις θεοσエイス セオス
すべての 上に
すべてを つらぬき おられる すべてのものの 父なる神は 一つ
すべての うちに
神様の偉大さ
上に いと高き天にあって、地上を踏まえ 教会を支配、統治される主権者、神。
つらぬき 万物ことに教会にキリストにより住み、生気を与え、制御される、神の摂理の臨在うちに 信じる者たちの中に聖霊によって宿りたもう内住の神。
結び)クリスチャンは「神が創造され、支配され、神が満たしている世界に生きている」(バークレイ)。「そのことを確信し、そして何よりも神がクリスチャンの中に住み、クリスチャンを通してご自身の目的を達成していることを信じている。このような信仰やその信仰に基づく体験を分かち合っている交わり以外にどこに、このような深さと広さの一致があるだろうか。無益な分裂は愚かなことであり、必然的にそれらはこのように輝かしい信仰を示す教会のこの世におけるあかしを弱らせてしまうことになる。」(フランシス・フォールケス 134P)