2016年2月28日 「どのように聖書を読むといいのか?」その二
ヨハネの福音書19章23-24節
序文)先回から、聖書の読み方を学びはじめました。おさらいすると、聖書を読んでいる人の内に、聖霊が啓明を与えて下さることをしんじるので、読み始める前に祈ることがだいじであります。読む私たちは受け身であるだけでなく、積極的に理解しようとする努力がいります。
教会が教える教えは、初代教会いらい、また宗教改革で再発掘された信仰の遺産を伝えるので、ので、軽んじてはいけません。毎日聖書を調べる事は信仰の成長につながります。聖書は神のことばであると信じて、読む始めるときに、最も重要な課題は、聖書の解釈の原則、法則、方法に関して理解することです。ウェストミンスター信仰基準では、聖書解釈の無謬の規準は、聖書自身であると告白しています。A 聖書の文脈、平行章句、段落、いいまわし、語の意味等に注意をはらいます。今朝は続きでB 背景理解からです。
B 背景理解
1 語り手を理解する 誰が言っていることばかによって、信仰と生活の基準にして良い場合と悪い場合がある。創世記3章の蛇のことばと、神様のことばを同じように自分に適用して見習い用いることは出来ない。ヨブ記に出てくる、友達のことばは、模範にならない、後の部分で間違った思想、考え方として神様からとがめられている。ヨブが言ったことばも、そうである。神のことばか、主イエス様のことばならば問題なく見習い当てはめられるが、そうでない場合は語り手が誰か、そのような場合か良く考えよう。アブラハムだから無条件にいいことばとは限らない。ダビデだからいいともいえない。
2 著者・記者 はっきりと著者が分かっている場合、またその著者の生涯が聖書から分かっている場合、同じようなことばでも中身が深い場合もある。誰が書いたかは理解する上で大切です。
3 風俗・習慣 描かれている儀式や習慣、風俗を知ることで本当の意味を知ることができる。申命記25:9-10、ルツ記4:7。創世記37:25-36ヨセフは誰に売り渡されたか?
土師記8:24 ここでミデヤン人はイシュマエル人とも呼ばれた。キャラバン は二つ来たのでなく一つだったとわかる。とうじ同一のキャラバン、同一の人々を見たときに、二つの表現で表現できた習慣があった。
4 読者層 誰に宛てられたか。
C たとえ話し(比喩)(Ⅰの6で取り上げているが、ここでは解釈について)
聖書にある比喩的文学形態の種類「なぞ」「寓話」「たとえ話し」「風喩」
1 「なぞ」 なぞなぞ、のこと。riddle-くだらないなぞなぞのこと。有名なところは士師記14:14、サムソンが結婚式に集まったお客に出したなぞなぞ。「食らうものから食べ物がで、強いものから甘い物がでた。」 eniguma- 本当のことをしらせたいなぞなぞ。そのものずばりを言うわけに行かない内容の場合。当時の事情がある。黙示録13:18「その数字は人間をさしているからである。その数字は666である。」
2 寓話-fable おとぎ話しのたぐい。なぞなぞは、文字どおりの意味であったのに対して登場してくるものは自然のままでなく、むしろ不自然な、そのものの本性と矛盾したり、反対するような使われ方をする。特に動物植物が擬人化され、理性を持つもの、特に原語能力をもつかのように用いられる。「イソップ物語」などですでに承知しているように。士師記9:7以下。木が王を立てる。森の木々が物を言う。列王記第二14:9。杉とあざみが縁組みをするか
「身の程しらずもいいかげんにしろ」寓話の理解では中心点だけをしっかりとつかめばそれでよい。
3 たとえ話し-parable ギリシャ語のパラボレーから出たことば。パラは「かたわらに」「横に」の意味、ボレーは「(何か物を)投げる」こと。「横に投げる」返答に言いたいことのかわらわに物語を投げる。逆に物語の横に別の意味がある。
私たちの読んでいる現実の物語とは別に、趣旨の解説が並んでいる。イエス様がとてもよく使われた。マタイ13:10以下言いたいことをなるべく易しくわかりやすくするため、納得させるために使われた。でも同時に弟子達には分からせるために天国のことをずばり教えられたが、一般の人々には本当の意味が分からないように、たとえで語ると言うこともあった。イエス様の話を聞きに来る弟子達の中で本物の弟子と、興味本位で、見かけ上の求道者が帯びた足しい数にのぼっていた。イエス様は本物と偽物を見分ける段階になって、パラブルでお話しになった。たとえ話は二重の目的で語られた。
4 たとえ話の解釈
実習は主イエスさまがしてくださった。マタイ13章3-9節種蒔きのたとえ。18節以下に答案がある。マタイ13:24-30毒麦のたとえ。答案は37節以下にある。
たとえ話は、みな現実にある内容である。意味は案外細かく一つ一つに付けられている。種はみことば、鳥は悪い者(悪魔)、日は困難や迫害、いばらはこの世の心づかいと富とまどわし、土の薄い岩地は聞くとすぐに喜んで受け入れる、早合点であるという具合である。中心点だけつかめばよいのと違って一つ一つに意味がある。でもそれにこだわっているかというとそうでもない。
⑴ たとえで話された事情は何か?
⑵ その土地の風俗、習慣、生活様式がそのままでてくる。
⑶ 中心点、趣旨をつかむ。そのために語られたきっかけは何であったかを知る。語りだしに注意する。「何何のようなものだ・・・」、結びに注意する。マタイ18:35。
⑷ 趣旨をきわ立たせている部分の細い点の意味をつかむ。その他は余り意味を持たせない。
5「風喩」- allegory アローほかのこと、アゴリューオー述べる、宣言する、語る
「他のことを述べる」パラブルと似ている。でもことばそのもの意味でなく、他の意味がある。隠喩metaphorは「わたしは世の光である。」といったり、神様を「わが巌、わがとりで」といったりする。アレゴリーは長くなった隠喩である。物語全部が隠喩となっている。
詩篇80篇「イスラエルの牧者よ。」は隠喩。「ヨセフの羊の群れのように導かれる方」は、明喩。8節以下はアレゴリー。お話と意味が一つに解け合って別に解説がなされない。箴言5:15以下18節。みずため、井戸、水路などはアレゴリー。若いときに妻のアレゴリーになっている。ここは「自分の妻に貞節を守れ、ほかの女に血迷ってはいけません」ということを教えている。井戸、水路などは妻を楽しむ権利をさしている。自分だけの権利である。出エジプト2:17、ヨハネ4:12、創世記29:1-8など参照する。
6 風喩でないところを風喩として解釈しない。古くから問題になった聖書理解の間違った仕方の代表がアレゴリーでない所をアレゴリーとして理解してしまう危険である。読み込 みをして、自分の理解通りに聖書を語ろうとする危険です。自分が信仰に入る前に持って いた哲学にあわせて聖書を読み込もうとするのです。自分の習慣に合わせようとするのです。