2016年5月8日 「聖礼典をどのように受け、与え、養われるか?」その三
第一コリント11:23−29
序文)今朝は、聖晩餐について学びをしましょう。
Ⅰ 「ウェストミンスター信仰告白 第29章 「主の晩餐について」
一項「わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼のからだと血との礼典を制定され、彼の教会において世の終わりまで守るべきものとされた。それは、彼の死によるご自身の犠牲を不断に記念するため、その犠牲のすべての祝福を真の信者に保証するため、彼らのキリストにある霊的養いと成長のため、彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため、またキリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリフトとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためである。」
「これは、主の晩餐の定義である。その目的・効用を詳記することによって、プロテスタント教会に生じた最初にして最大の論争点に関する改革派教会の教理を明確に告白している。」(岡田稔著 164頁)
聖餐式においてキリストのからだと血は、どのような仕方で、現存するか、について、プロテスタント教会内部で意見が分かれている。キリストの肉と血による現実存在は、プロテスタントもカトリックも共通に信じている。しかし、その仕方が論争を呼んだ。カトリックの「化体説」については六項で、ルーテル派の「共在説」については七項にでてきますのでそこで扱います。
ここでは、主イエス・キリストによる聖餐式の制定と、目的が記されています。聖餐式を守るのは世の終までですが、「主がこられるまで」(Ⅰコリント11:26)続けられることで、わたしたちは、将来への希望の絆で、主と結ばれていることを確認します。この日はいつか、いかにしてかわかりませんが、必ず、主は再臨くださると感謝してあずかります。
目的:「彼の死によるご自身の犠牲を不断に記念するため」「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」(ルカ22:19)。キリストの十字架の犠牲を忘れないように、不断に記念する。「その犠牲のすべての祝福を真の信者に保証するため」「彼らのキリストにある霊的養いと成長のため」パンとぶどう酒とともに、それが指し示しているキリストの恵みもともに差し出されている。キリストの贖いによる救いのめぐみは、キリストのからだと血をもって、現実に与えられるのです。「彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため」キリストの犠牲の恵みにこたえるのに、わたしたちの献身と奉仕と犠牲の生活をもってするため、聖餐式に与かる。「キリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるため」わたしたちとキリスト、わたしたちどうしの交わりの保証ー聖徒の交のりのきずなと保証である。兄弟愛のきずな、家族の団欒の食事は聖餐式において実感する。
二項「この礼典において、キリストが、生きている者または死んだ者の罪のゆるしのためにみ父にささげられるのではなく、またどのような現実の犠牲がなされるのでもない。それは、キリストが自らご自身をただ一度だけ十字架にささげられたことの記念、またそのため神にささげうるすべての賛美の霊的ささげ物にほかならない。それゆえ、いわゆる教皇主義的ミサ犠牲は、選民のすべての罪のための唯一のなだめの供え物であるキリストのただひとつの犠牲にとって、最もはなはだしく有害である。」
『この項はローマ・カトリックのミサに対する非難です。ローマ・カトリック教会の宗教を迷信でないと思い、有害であることに気づかない人は、この一事に注目すべきである。ローマ・カトリック教会の礼拝の中心はミサである。ミサは、主の晩餐の根本的な迷信化である。神父が司祭と呼ばれるのは、ミサを司るからです。ミサはみ父に向けて、もう一度キリストのからだを献げる儀式である。そして、その効果は罪人のためのなだめの犠牲が、実際にその度に「旧約時代の神殿の犠牲と同様に」献げられるというのである。さらにそれが死人のためにもと主張されている。歴史上の十字架と聖餐式とが実質的に同一の意義をもつ事柄だと考えてはならない。その意味で主の十字架は一回かぎりで、しかも完全である。(ヘブル9:12)そして主の晩餐はその永続的記念にすぎない。主の晩餐でなされる神への供え物は、ローマ12章以下にいわれている「信者の献身」のことである。』(岡田稔著 164頁)
三項「主イエスは彼の教役者に、この規定において、礼典制定のみことばを会衆に宣言し、祈り、パンとぶどう酒の品を祝福し、それによってこれらのものを普通の用から聖なる用に聖別すること、パンを取って裂き、杯をも取り、(彼ら自身もあずかりながら)陪餐者に二品を与えること、しかしその時に列席していない者にはだれにも与えないことを命じられた。」
四項「個人的ミサすなわち司祭またはその他の者からひとりでこの礼典を受けることは、会衆に杯を与えることを拒むこと、品々を礼拝すること、崇敬ためにそれらを持ちあげたり持ち回ったりすること、偽りの宗教的用途のためにそれらを保存することと同様に、すべてこの礼典の性質とキリストの制定に反する。」
聖餐式の執行の仕方が告白されている。また、してはいけない仕方も告白されている。聖徒の交わりの中で聖餐式にあずかるのですから、交わりの外で、または個人で受けるべきではない。式文の中で「公に守るべきものです」というのはこのことである。病人の場合、教会の交わりを代表する長老と数名の兄弟姉妹たちとともに、病室で聖餐式に与ることはできる。健康人は、この交わりに与かることを第一として、生活を管理、配慮すべきであって他を優先して、後で自分だけ与かればよいと考えることは全然だめである。
また、四項ではカトリックの教えとやり方を具体的に非難している。『その基礎的誤りは、第一にパンがキリストのからだに変化する、という教えであり、「これはあなたがたのための、わたしのからだである」(Ⅰコリント11:24)の「である」を字義通りに解釈するために生じた無理なのである。ルター派も、この点にこだわったために迷信から十分には逃れきれなかった。第二に、ミサを犠牲とする考えである。第三は、品々を礼拝すること−これは第一の点よりくる直接の結果であり、ルター派ではキリストの人性を礼拝すると考える。第四は、杯を一般信者にわけあたえないこと−マタイ26:27「みなこのさかずきから飲め」のみなを12使徒たちと考えている。第五は、個人的ミサで第四のことと関連して、司祭だけで個別に式を守ることは、聖俗二元論であり、他は第一点の延長である。』(前掲著166頁)。
第五項「キリストによって定められた用途のために正しく聖別された、この礼典における外的な品は、真に、しかしただ礼典的にそれらがあらわしているもの、すなわちキリストのからだと血という名でしばしば呼ばれるような関係を、十字架につけられた方に対してもつ。しかしそれらは、その実質と性質とにおいては、依然として前と同じように、真実に、ただパンとぶどう酒のままである。」
第六項「パンとぶどう酒の実質が、司祭の聖別あるいは他のどのような方法ででも、キリストのからだと血の実質に変わると主張する(普通に化体説と呼ばれる)教理は、聖書に反するばかりでなく、常識にも理性にも反し、礼典の性質をくつがえし、従来も現在も様々な迷信、いな、ひどい偶像礼拝の原因である。」
ここでローマ・カトリック教会の化体説を具体的に非難している。パンはパンであり、ぶどう酒はぶどう酒であることに終止変りがない。ただ、礼典が正しく信仰的に執行されている時には、これら品々は主イエスの血と肉との礼典的な一致関係にあるから、パンがキリストの肉と呼ばれ、ぶどう酒がその血と呼ばれる。しかし「これはあなたがたのための、わたしのからだである」(Ⅰコリント11:24)の「である」は、どこまでも「印証・保証」の意味である。従って、キリストそのものよりも、キリストの贖いの祝福を意味し、また、与える力を持つものである。
第七項「ふさわしい陪餐者は、この礼典において、見える品々にあずかりつつ、信仰によって現実にまた実際に、しかし身体的また肉的にではなく霊的に十字架につけられたキリストと彼の死のすべての祝福を受け、またそれに養われる。その時キリストのからだと血とが、身体的また肉的にパンとぶどう酒の中に、またそれらとともに、あるいはそれらのもとにあるわけではないが、この規定において、品々そのものが信者の外的感覚に対すると同じように現実に、しかし霊的に、信者の信仰に対して存在する。」
聖書的な、主の晩餐のあり方が積極的にのべられている。すべては霊的に(すなわち聖霊によって)であって、しかも現実に実際にキリストの贖いの祝福が、与えられ、養われる。「すなわちこれは神の隠れた不思議な力によってなされるのであり、また神の霊は聖餐にあずかるきずなであり、この理由によってそれは霊的と呼ばれるのである」(カルヴァン)。
ルター派は、礼典においてキリストのからだと血が真実に、かつ場所的に臨在すると信じている。「救い主のからだは、聖餐においてパンの中に−in、パンとともに−With、パンのしたに−under、臨在しており信者と未信者の両者によって食された」と主張している。
第八項「無知で邪悪な者がこの礼拝において外的な品を受けても、それによって示されているものを受けないばかりか、彼らがふさわしくないままでこれに近付くことによって、キリストのからだと血とを侵す、自分にさばきを招くのである。それゆえ、すべて無知で不信仰な者は、キリストとの交わりを享受するのに不適当であるから、主の食卓にあずかる値打ちがないし、彼らがその状態を続けている限りキリストに対して大罪を犯すことなしにこの聖なる奥義にあずかり、あるいはあずかることを許されることはできない。」
聖餐式の意義を正しく教えられていない者は、陪餐の資格がないこと。陪餐が禁じられているとともに、誤って、それに与かるならば、かえって「キリストのからだと血を侵す」ことによって、主より罰せられるのである(Ⅰコリント11:29)。
(参照:ウェストミンスター大教理問答170〜175問、小教理問答96〜97問。)
Ⅱ ウェストミンスター大教理問答 問169 キリストは、その晩餐の礼典において、どのようにして、パンとぶどう酒を与えまた受けるよう定められたか。答 キリストはみ言葉の教役者たちに、主の晩餐の礼典執行に際し、そのパンとぶどう酒とを制定のみ言葉と感謝と祈りによって普通の用途から聖別すること、パンを取って裂くこと、パンとぶどう酒の両方を陪餐者に与えること、を定められた。陪餐者は、その同じ命令により、自分のためにキリストの体が裂かれて与えられ、その血が流されたことを、感謝に満ちて覚えつつ、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲まなければならない(1)。
問170 主の晩餐のふさわしい陪餐者は、そこで、どのようにしてキリストの体と血によって養われるか。 答 キリストの体と血は、主の晩餐におけるパンとぶどう酒の中に、それらと共に、あるいはそれらのもとに、身体的または肉的には存在しないが(1)、しかし、それらの品物自体が陪餐者の外的感覚に対するのに劣らず真実かつ現実に、彼の信仰に対して霊的に存在する(2)。従って、主の晩餐におけるふさわしい陪餐者は、そこで、身体的または肉的でなく霊的な仕方で、しかも真実かつ現実に、キリストの体と血によって養われる(3)。他方、信仰によって彼らは、十字架につけられたキリストとその死のすべての利益とを受け、自分自身に適用するのである(4)。
問171 主の晩餐の礼典を受ける者は、それに臨む前に、どのようにして自ら備えなければならないか。 答 主の晩餐の礼典を受ける者は、それに臨む前に、次のようにして自らそれに備えなければならない(1)。すなわち、自分がキリストにあることについて(2)、自分の罪と欠陥について(3)、自分の知識(4)・信仰(5)・悔改め(6)・神と兄弟に対する愛(7)・すべての人への思いやり(8)・自分に悪を犯した者たちを許すこと(9)の真実さとその程度について、キリストにならおうとする自分の願いについて(10)、また自分の新しい服従について(11)、自ら吟味することにより、またこれらの美点の実践を更新することにより(12)、真面目なめい想(13)と熱心な祈りによってである(14)。
問172 自分がキリストにあること、あるいは自分のなすべき準備について疑っている者が、主の晩餐に臨んでもよいか。答 自分がキリストにあることや、あるいは主の晩餐の礼典に対して自分のなすべき準備について疑っている者は、自分ではまだその確信を与えられていなくても、キリストヘの真の関心を持っているのかもしれないし(1)、またもし関心の不足を悟って正しく悩み(2)、キリストにあるのを認められて(3)不義を離れたい(4)、と偽りなく望んでいるなら、神のみ前にはそれを持っているのである。その場合(弱く疑い深いキリスト者たちの救いのためにも、約束がなされ、この礼典が命じられているのであるから(5))、彼は自分の不信仰を嘆いて(6)、疑いを解くよう努力すべきであって(7)、そうするなら、彼はさらに力づけられるために主の晩餐に臨んでもよいし、臨まなければならない(8)。
問173 信仰を言い表わし、主の晩餐に臨みたいと願っているだれかが、それからはばまれてよいか。 答 信仰の表明と主の晩餐に臨みたいとの願いにもかかわらず、無知あるいは悪評があると認められるような者は、教えを受けて改善を示すまでは(1)、キリストがその教会に委ねていかれた権能によって、この礼典からはばまれてもよいし、はばまれなければならない(2)。
問174 主の晩餐の礼典が執行されている間、それを受ける者に、何が求められているか。
答 主の晩餐の礼典が執行されている間、それを受ける者に求められていることは、次の通りである。すなわち、全ききよい敬けんと注意をもって、この規定のうちに神を待ち望むこと(1)、礼典の品と動作をつとめて見守ること(2)、主のみ体を深くわきまえ(3)、主の死とみ苦しみとを情愛深くめい想し(4)、それによって、自分の美点の強力な実践へとわが身をかき立てることであって(5)、それらは、自己批判(6)と罪への悲しみ(7)、キリストを熱心に渇望し(8)、信仰によって彼に養われ(9)、その満ち足れるものを受け(10)、その功績により頼み(11)、その愛を喜び楽しみ(12)、その恵みに感謝すること(13)、神との契約と(14)、すべての聖徒への愛(15)を新たにすることにおいて行なわれるのである。
問175 主の晩餐の礼典を受けてからのキリスト者の義務とは、何であるか。
答 主の晩餐の礼典を受けてからのキリスト者の義務とは、次の通りである。すなわち、その間、自身がどうしていたか、またどこまでうまくできたかを真剣に考えること(1)、もし力づけと慰めを感ずるなら、そのために神に感謝し(2)、それが続くように乞い求め(3)、消えないように注意し(4)、自分の誓いを果たし(5)、たびたびこの規定に出席する決心を固めること(6)、しかし、もし益を感じなければ、この礼典への自分の準備とその時の態度を一層厳密に反省すること(7)。もしどちらの点でも、神に対しても自分の良心に対しても、自分を正しいとすることができるのなら、時のくるまで、その実の熟するのを待たなければならない(8)。しかし、どちらかの点で落度があったのに気付いたならば、謙虚にせられ(9)、今後はもっと注意深く勤勉に出席しなければならない(10)。