礼 拝 式 順 10:45-12:00
司会大場清文長老 奏楽石川智久兄弟 石川涼楓姉妹
さんびリード 石井志乃姉妹 賛美奏楽 大場かづさ姉妹
前 奏
招きの言葉 イサヤ書40:1−5
さ ん び
さ ん び
開会の祈り
主 の 祈り
教会福音讃美歌 41番 心にあふれる喜びは
聖書朗読 マルコの福音書1:1−13
聖書の話 「良い知らせ」
クラッパム・ネイサン宣教師
教会福音讃美歌 353番 あなたこそわが望み
献 金 石川有希姉妹
報 告
執り成しの祈り 大場清文長老
頌栄(教会福音讃美歌) 271番 父・子・聖霊の
黙 祷
後 奏 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
良い知らせ
マルコの福音書1:1-13
海浜幕張めぐみ教会
2016年8月28日
クラプハム・ネイサン
タイトル: 良い知らせ
招きの言葉:イザヤ書40:1-5
良い知らせを聞くための、用意ができていますか?
あなたにとって良い知らせとは何でしょうか?息子にとって、今日はアイスクリームを食べる日だ、ということは良い知らせです。試験を受ける人にとって、合格したということは良い知らせです。多くの人にとって、休日が来たということは良い知らせです。
良い知らせの、その良さとは何でしょうか?何かの望みが実現した時に、良い知らせになりますね。良い知らせに、望みは必要なのです。
今日、マルコの福音書から、この良い知らせについて一緒に見ていきましょう。祈りましょう。
祈り
愛する天のお父様、
私たちとともにいらしゃってくださって感謝します。
御言葉をありがとうございます。
私たちの心を開いて、御霊で、あなたの言葉を入れてください。
どうぞ、私たちの人生をあなたの計画のために使って下さい。
イエス様の名前によってお祈りします。アーメン。
神の福音が来ました (Mk 1:1-3)
良い知らせがあるとマルコは福音書で私たちに言っています。マルコの福音書1章1節、
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。(Mark 1:1)
この節はとても大事なことを教えています。
最初に、この書物は特別な人、イエス・キリストという人について書かれています。大事なのはイエスと神様との関係なのです。イエスは「神の子」だと書いてあります。
次に、福音という言葉はここで初めて使われました。福音とは単に「良い知らせ」という意味があります。
マルコの福音書を理解する上で、この点は大きな鍵になります。このイエス・キリストとは誰でしょうか、という大切な質問を読者自身に尋ねる目的があるのです。福音書を読み進めていくと、いろいろな登場人物たちが、イエス・キリストのことを表現しています。
4章で、イエスが風と海を静めた後、弟子たちは「いったいこの方はどういう方なのだろう」と悩んでいました。8章29節に、弟子のペテロは「あなたは、 キリストです。 」と言いました。やっと、15章39節で、百人隊長はイエスについて、「この方はまことに神の子であった」と言いました。
預言者に預言された救い主が来ます (Mk 1:2-3)
「神の子」と書いてありますが、これはどのように理解すれば良いのでしょうか?1章2−3節で重要な情報が分かります。
預言者イザヤの書にこう書いてある。 「見よ。 わたしは使いをあなたの前に遣わし、 あなたの道を整えさせよう。 荒野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を用意し、 主の通られる道をまっすぐにせよ。 』」 (Mark 1:2–3)
この箇所から福音が預言者イザヤの預言に根拠していることが分かります。実際、この箇所は出エジプト23:20、マラキ書3:1、イザヤ書40:3に関連する箇所ですが、マルコには「預言者イザヤの書にこう書いてある」と書いてあります。だから、この福音というのはイザヤ書の影響が大きいのです。
イザヤ書40章に、神の民のための救いについて書いてあります。預言者イザヤの頃、その救いはまだ実現されていないのです。未来にある救いでした。でも、救いが来た時に、イスラエルの労苦が終わり、罪が赦されました。その預言を通して、福音という良い知らせが理解できるようになりました。
ですから、切実に待っていた救いの望みが、この福音の中に来ました。
今でも、この事実はとても重要です。クリスチャンになる前に、私は全然イエスについて考えていませんでした。でも、イエスがこの世界に来たことは世界を変えることになるのです。イザヤ書40章5節に、
【主】の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。(Isaiah 40:5)
と書いてあります。「すべての者」は神様の栄光であるイエスを見るのです。世界を変えるイベントですよ。
あなたは神の子イエス・キリストを見ましたか? 見ると自分の世界が変わります。もはや、自分の目的があり、自分には神様の目的が一番大切なことになりました。友人たちはあなたに理性がないと思うでしょう。
でも、この栄光が来たので、新しい希望が与えられたのです。この救いである栄光は神の子なのです。イエスの生涯が書かれている、この福音は、神様の用意された救い主を現しています。
神様に帰る準備 (Mk 1:4-8)
バプテスマのヨハネが来ました。彼がどこにいるか注目してください。3節の「声」は荒野にありますね。4節、バプテスマのヨハネも同じ場所にいました。ヨハネがその声だからです。ヨハネの来た目的は、3節に書いてあります。
主の道を用意し、 主の通られる道をまっすぐにせよ。 』(Mark 1:3)
どういう意味でしょうか?もし、大切な人、例えば、アメリカの大統領が来る前には準備が必要ですね。その人をむかえることができるように、周りにその人が来ると伝えたり、その人の行動を計画したりすることなどが必要です。神の民のために、ヨハネはそういう準備をしました。
ヨハネは荒野で洗礼を授けたり、罪の赦しのための、悔い改めのバプテスマを宣言しました。
荒野は神の民にとって重要な場所です。イスラエルの歴史上、出エジプトは本当に大きな意味があります。神様がエジプトの奴隷になっていたイスラエルの民を救い出しました。荒野で神様の特別な民になりました。
荒野で洗礼を授けることによって、ヨハネは人々を神様に呼び戻し、神様との関係を改めようとしているのです。
「罪の赦しのための悔い改め」と書いてあります。「罪」と言えば、多分皆、自分は罪人じゃないと思うと思います。自分は親切だし、自分のしたことは大体正しいと思うでしょう。罪人ではないからです。
私はクリスチャンになる前に、そう思っていました。罪についてよく分かっていなかったのです。でも、クリスチャンになるには、聖書にある罪について理解することが必要なのです。聖書にある罪とは神様を拒否することです。神様を無視して、自分の道を歩み続けます。それが聖書の言う根本的な罪なのです。
だから、罪人は、神様の言葉を無視しています。罪人は神の言葉を無視するので、色々良くないことが起きたりします。しかし、罪の原因は神様から離れ、壊れてしまった関係からきているのです。私たちは神を否定したので、神の裁きを受けることになるのです。
人間はこの関係を修復することが出来ません。イエスが現れるずっと前から、長い間この状況が続いていました。
私はクリスチャンになる時、やっとそれが分かって、「私は罪人だ」と神様に告白して、神様に立ち返りました。
バプテスマのヨハネの所に来た人たちは、そのような告白をしました。5節に書いてあります。
そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた (Mark 1:5)
イエスによって、もたらされることの印として、彼らは神様に立ち返り、罪を告白しました。それは悔い改めということです。福音を聞くために、こういう準備が必要です。どうして、この救い主が来る、必要があるのか、という質問に対する答えがいると思います。救い主が必要でなかったら、福音は良い知らせではないのです。
そういう準備ができましたか?自分の心から出てくる罪が分かりますか?そのことが分かるまで、福音は分からないのです。分かることができるよう、神に祈りましょう。
イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、この世界に来たので、その罪の認識がなければ、あなたにとって、福音は良い知らせではないのです。
クリスチャンになった時、私は自分で自分を救うことはできないと認めました。
私たちは自分の罪を認めなければなりません。そうすれば、自分にとってイエス・キリストの福音が良い知らせになることが出来ます。
バプテスマのヨハネのミニストリーは本当に素晴らしいものでした。神様は新しいことを起こすために、自分の民の準備をしました。
クリスマスの時、多くの人はサンタさんについて子供達に話しています。多くの子供たちは、クリスマスイブの日に大きな期待をしています。何をもらえるかずっと考えています。寝られません。
バプテスマのヨハネのミニストリーにはこういう期待があります。神様の民は、罪の中に住み続けていました。いつ救い主が来るかとずっと待っていました。
ヨハネは特別な人を指して言いました。
彼は宣べ伝えて言った。 「私よりも、さらに力のある方が、 あとからおいでになります。 私には、 かがんで、その方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、 その方は、 あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。 」”(Mark 1:7–8)
この方は新しいバプテスマを与えます。また預言者のイザヤはこう言いました。
わたしは潤いのない地に水を注ぎ、 かわいた地に豊かな流れを注ぎ、 わたしの霊をあなたのすえに、 わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(Isaiah 44:3)
この人を通して、人に聖霊のバプテスマが授けられます。この人はヨハネの後に来ると書いてあります。そして、次にヨハネにバプテスマを授けられるために、イエス・キリストが現れました。
悔い改めを受けてくださった (Mk 1:9-11)
イエス・キリストが来て、私たちのために、洗礼を受けました。その時に、天からの声がこう言いました。
あなたは、 わたしの愛する子、 わたしはあなたを喜ぶ。 」(Mark 1:11)
イエスは罪のない方ですから、悔い改める必要はないのです。しかしイエスは私たちの代わりに悔い改めを受けてくださいました。この悔い改めは完璧な悔い改めです。この意味はイエスが私たしの裁きを受け入れるというしるしです。イエスは神ですが、この方は人間になって、私たちの罪への裁きを代わりに受けたのです。これがイエス様のミッションです。
イエスは私たちの、罪からの救い主です。だから、イエスに頼るべきなのです。
神様は私たちが完璧ではないというのを分かっています。だから、完璧になろうとするのをやめましょう。イエスだけが唯一の完璧な人だからです。
人生を完璧にしようとするための方法はたくさんあります。人に親切にしたり、試験で良い成績をとったり、子供の面倒をよく見たり、私たちの将来をより安全かつ安定したものにしようと試行錯誤することです。でも、神様が物事を完璧にできる方です。
イエスは神なので、私たちはイエスに、より頼むことができるのです。イエスに、より頼むとはどういうことでしょうか?まず最初に私たちのいのちをイエスに預けるということです。私たちのいのちは今、イエスの手の中にあります。イエスは罪の裁きを受ける私たちを安全に導きます。
マルコの4章で、イエスと弟子たちは舟の中にいます。大きな嵐が起こり、巨大な波が押し寄せます。弟子たちは死ぬことを恐れていました。でもイエスはクッションの上で寝ていました。彼は起き上がって嵐を静めました。
イエスは彼らに言われた。 「どうしてそんなにこわがるのです。 信仰がないのは、 どうしたことです。 」mark 4:40
こうして、弟子たちは向こう岸に安全に着きました。この時のように、イエスは裁きの中を通る私たちを、安全に導くのです。
私たちが日々の生活の中でイエスに頼る時、その時に私たちの世界はイエスを中心に配置されているのです。私たちがどこに住むのか、どんな仕事に就職するのか、どのように時間を使うのか、何にお金を使うのか、そのようなすべての決断においてです。私たちの決断は私たちの周囲の影響ではなく、イエスによって、形作られるべきなのです。
イエス様は私たちの、罪からの救い主で、私たちのいのちの主です。だから、イエス様に頼るべきなのです。
イエスはバプテスマを受けてすぐに荒野へ追いやられました。.
サタンの国とイエス・キリストの対立 (Mk 1:12-13)
バプテスマを受けたことにより、そこでイエスはサタンに対峙することになります。
13 イエスは40日間、荒野にいて、 サタンの誘惑を受けられた。
彼はミニストリーをしている間、常にいろいろな困難に直面していきます。悪霊に立ち向かい、神の民であるユダヤ人はイエスを殺そうとし、彼の弟子たちはイエスのミッションを止めようとします。
しかしイエスは私たちのために彼のミッションを続けます。イエスの誘惑は彼が十字架で息をひきとった時に終わります。その時にローマ人の兵隊、さえ、イエスを認めたのです。彼は言いました。
「この方はまことに神の子であった」
この荒野で、私たちにとって、イエスが良い知らせであったことを覚えましょう。彼だけが私たちのために苦しみ、サタンを打ち破ることができるのです。主はよみがえりました。彼のいのちを通して私たちは完全に救われるのです。イエスに、より頼み、従い歩む日々を送りましょう。
祈りましょう。
愛する天のお父様、
イエスによって、良い知らせを遣わして、
大きな恵みを与えてくださってありがとうございました。
あなたの子は唯一の救い主です。
あなたの聖霊を通して、日々、イエス様に頼ることができるように、助けてください。
イエス様の名前によってお祈りします。アーメン。