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2017年7月2日 礼拝 説教(日本語文)マタイ3章1〜12節


 

 

2017年7月2日礼拝 マタイの福音書 3章1-12節 「荒野で呼ぶ者の声」

序)バプテスマのヨハネの活動は福音の歴史において貴重な時代の幕開けを表します。主イエス様が「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネよりも大きい人物はいない。」(ルカ7:28)と言われたのです。人々の生活状態も暗く、取税人は決まっている額以上を取り立て,兵士は人を脅かしたりだまし取ったりしました。政治の世界から宗教の世界まで暗く、人々はバプテスマのヨハネを通して神の裁きのメッセージを聞かねばなりませんでした。あまりにも現代と似通った現実がそこにはありました。またヨハネは「さらに力ある方」が来ることを告知して、ユダヤ人たちに「その方がメシヤ」として宣教を開始することを証言しようとしました。今日の私たちもバプテスマのヨハネを通して神の警告に耳を傾け、イエス・キリストと自分の関係の修復に心を注がなければなりません。

 

1 福音の道を用意するヨハネ

1 さて福音のはじめに何があったのでしょうか。目を閉じて想像してみましょう。私たちの目の前に、イスラエルの荒野があります。そこに一人の人物が、古代の預言者の風采をして立っています。しかも何かを大声で叫んでいるのです。旧約の預言者エリヤの服装が第二列王記1:8「毛皮の衣を着て、腰に革帯を締めた人でした。」と書かれていますので、そっくりで、人々はエリヤの再来と認識できたのでした。ヨハネはヨルダン川におりてバプテスマを施しています。

バプテスマのヨハネは、新約の主イエス・キリストの時代のはじめをもたらしたのです。救い主を迎える道ぞなえを神の民にさせたのです。しかし、彼はある意味で旧約時代の最後の扉を閉める役割を果たしました。彼は古代の本当の預言者としての姿とメッセージを持って人々に迫りました。それは神の約束の成就として預言者の口を通して語られたとおり、メシヤ・イエスの到来の道ぞなえを荒野でしたのです。2節はマラキ書4:5-6の引用です。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」3節はイザヤ40:3の引用です。「荒野に呼ばわる者の声がする。主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」

2 人々が荒野にヨハネを見に来たとき、神の裁きが近づいたこと、斧は木こりが倒そうとしている木の根本に置かれたことを聞かされた。このメッセージは選民イスラエルに向けられています。ヨハネはイスラエルの群衆を「まむしのすえたち」と呼んでいます。人々は異邦人のような罪の存在ではなく、神の民、アブラハムの子孫としての特権があり、いざというときは、この理由で神の裁きからまぬがれると思っていました。バプテスマのヨハネによると、そのような特権意識は神の裁きの前に何の役にもたたない。神が、望まれるならアブラハムの子を石ころからでも起こすことができるのだ。

大切なことは選民イスラエルかどうかではなく、選民にふさわしく歩いているかどうかなのだ。特権意識にあぐらをかき、時代の罪の中にともに歩み、曲がった生き方をしているなら、危険である。良い実を結ばない歩みであるなら、主は斧でその木を切り、火に投げ込まれるだけだ。

まことの心備えが、日々にあるということが第一義である。力ある方は、神の民でも、異邦人でも、罪のうちに歩んでいるなら切り倒すことができるのです。バプテスマのヨハネのメッセージは現代風に取るなら、私たちがキリストにより神の子とされて洗礼を受けている、聖晩餐式に与っているというだけで、安心しているのなら、イスラエルの人々と同じ危険に陥っていないかを反省させるのです。神の子にふさわしい日々、主の前に悔い改め赦され真心を整えて歩んでいるかどうかを!

この歴史の変化、神の裁きの到来ということを前にして、この危機に、誰も自分の血統や信仰や名声にたよることは出来ない。すべての人は神のふるい分けに直面している。罪の赦しを必要としている。そして赦しなしには、すべての人は籾殻となって焼かれてしまうのです。このことを認める者、すなわちヨハネのメッセージを謙遜に聞く者が、悔い改めのバプテスマを受けたのです。ヨハネが説教を聞く者に要求したことは、徹底した、厳しい、容赦のないことでした。主イエス・キリストを迎える道ぞなえは、悔い改めをともなうのです。とても厳粛なことでした。

3 「悔い改め」は「申し訳なく思う」以上のことです。「考え方を改める」以上のことです。旧約聖書の預言者たちが、イスラエルに呼びかけ続けていたことがらです。それは「神に立ち返る」ことでした。偶像崇拝に染み、祈りの世界を闇に変えて、さまざまな裁きを歴史的に受けてきた選びの民が、神への反逆をやめて、恵の契約に従うことでした。「天の御国が近づいたから」です。根本的な回心が必要なのです。神の絶対主権が確立されるときが近づいた。裁きと救いにおいて神の正しい御手が下ることが迫っているのです。すぐにも決断すべきです。主イエス樣は、同じメッセージを公の宣教の働きを開始されたとき伝えました。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。“悔い改めなさい。天の御国は近づいたから”」(マタイ4:17)。ですからヨハネはイエス様と違うことを言ったのではありません。同じメッセージをして、救い主の到来を示しましました。

ヨハネは人々に勧めただけでなく、自分自身もこれから始まる新しい時代イエス・キリストの福音の時代に、自分は値しないことを知っていました。11節「私はあなたがたに水でバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私は、その方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」ヨハネ自身も「聖霊と火によるバプテスマ」を受ける必要があることを深く認識していました。それが新しい時代であり、その幕を開く方はイエス・キリストご自身だったのです。

 

Ⅱ  洗礼を受けられたイエス様

1 ヨハネからバプテスマを受けた人々の列の中に、他の人とも変わらない一人のお方がおられました。その方は、ガリラヤのナザレから出てこられたのでした。イエス様がバブテスマを受けられたことは罪の放棄とかきよめのためではなかった。それはまず、一人のユダヤ人として、神がメシヤの先駆者として定められたバブテスマのヨハネの預言者としての権威に従うためでした。神の子としては、その立場が逆なのです。ヨハネ自身が「わたしこそ、あなたからバブテスマを受けるはずですのに。」(マタイ3:14)と言っている通りです。しかし、イエス様は人間として、また父なる神のたてられた秩序に従って、ヨハネの権威に身を低くして従われました。さらに大切なことは、ご自身がこれから創造しようとしておられた神の国へと入るのに、このバプテスマという扉を通じて入るのだということを示すためでした。世に死に、神に生きるという、人間の取るべき生活態度を、ここでも実践されたのです。

 

2 しかし、このお方が洗礼をお受けになられた時に、一般の人々とははっきりと区別された特徴的なことが起こりました。

まず、「天が開け」ました。これは、預言者エゼキエルが召命を受けた時に起こったことでした。「私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た」(エゼキエル1:1)。この後「聖霊がエゼキエルの内にはいり、たちあがらせた」(エゼキエル2:2)。主イエスは、神の御座、開かれた天の光景をはっきりとごらんになったのです。それは御子が天上で、み父と共におられたときにもっておられた関係をはっきりと表すものでした。

聖霊がハトのように自分にくだって来るのをごらんになりました。このことにより、神はイエス様がこれからなさる働きのために力を与えられたのです。特別な賜物が聖霊によって与えられたのです。イエス様はその誕生の時から、たえず聖霊に依存しておられました。そのことは、イエス様の人格と神性の結びつきから、当然と考えられています。しかし、イエス様が神としての働きを十分に発揮するのに人性の力を最高に用いられねばなりません。ですから聖霊の働きが必要不可欠であったのです。聖霊の働きにより、イエス様のことばも、人の心を見抜かれた力も、多くの奇跡も行われた。神でありながら、人となられたイエス様の働きを聖霊が助けたのです。

このことは私たちのうちにも起こっているのです。

神の人が立てられる時、按手によって、その人の与えられた賜物が、さらに力づけられるのは、同じ聖霊の働きです。教師や長老たちの按手は,単なる儀式では決してないのです。また、私たちが洗礼式の時の一人一人の受けた按手も同じです。これから、そのような場にのぞむとき、お互いは祈りをもって聖霊の力づけを求めるようにしましょう。

イエス様の場合、聖霊は限りなく与えられましたが、私たちの場合は、それぞれの賜物に応じて与えられるのです。

 

3 さらに天から声がありました。「これは、わたしに愛する子。わたしの心にかなう者である。」これは父なる神の声でした。御子についてみ父がじきじきになさったあかしです。確認です。「愛する子」は「ひとりご」と同じ意味です。まことに「神の子」であることの、天の父の確認です。主イエス・キリスト様は、ここに父のみこころを行う者として、公的に立つべく神によって確認を受けて聖霊のバプテスマを受け、神の子であることがはっきりとあらわされたのでした。神の子が、地上でこれからなしとげるようにと、天の父から託された救いのわざを、しもべとして開始される、そして同時に神の子としての来るべき王の王として世界の支配者としての権威と力を表され、行動されてゆくのです。

 

結び)イエス・キリストの福音は、荒野から始まった。私たちに福音が届けられるはじめは荒野であった。それは天の神様の証言つきではじまった。聖霊は救い主の上に注がれ、み力に満たされた。福音は荒野で広められ、勝利を治め、天来の光栄が溢れ輝いた。あなたの心の荒野に、悔い改めに続いて主イエス・キリスト様の光栄を宿していただきましょう。今も福音はベイタウンの心の荒野に響き渡っている。悔い改めてイエス・キリストの福音を信じるようにと!

 

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