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2017年12月17日 礼拝 説教

 

2017年12月17日 ルカの福音書 1:46~56「マリアの讃美」 A

序)わたしたちの主の母マリアはエリサベツから聖霊に満たされた預言を聞き、たしかに自分の胎内に宿っている方が、天使のお告げのように救い主で、イエスと名づけるべき方であると確信したとき、彼女は静かに心からの喜びを込めて、すばらしい詩を歌いました。それは「マリアの賛歌。マグニフイカート」として有名になりました。

 

Ⅰ マリアの信仰 マリアの感謝と賛美 46〜47節

先ず、マリアは自分の内に力あるかたが大いなることをしてくださったと、神の慈しみを感謝し、ほめたたえることから歌いはじめました。

「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」私は全存在をかけて神をたたえます。私の思いもからだも手のわざも足の歩みも、すべてをかけて賛美いたします。マリアは自分の内に神の全能の力が働き、驚くべき恵みにあずかったことを理解し、確信したとき賛美せずにはおれませんでした。

神は賛美を喜ばれます。とくに喜びの感謝の賛美ほど豊かに神をたたえることは他にありません。喜びの賛美を歌うときは、その賜ったものや賜った出来事を理解できたことを表わすのです。神から恵みを項いたという喜びだけでなく、神がそうしてくださったお心がよく理解できたときの喜びの感謝と賛美は、どれほどに湧きあふれることでしょうか。

 

「あがめる」(原語:メガルノー)の意味が「拡げる。おおきくする」です。メガとついているのは、そういう意味で、たとえばメガホン(拡声器)。マリアは「自分を小さくして、神を大きくする」と歌っているのです。パウロは「生きるにしても死ぬにしても私の身によって、キリストのすばらしさが現われされることを求める」と書いているが、このマリアの心と同じです。

日常においてわたしたちに、神は一方的に恵みをくださいます。わたしたちは主があたえてくださる事柄に感謝します。病気が治った。子供が生れた、就職できた、入学した、この人と結婚できた。さまざまなことに感謝します。すばらしい神の恵みに御礼を言うのは人間として当然の心くばりでしょう。しかし、そこにとどまってしまわないで、その事柄の所以を深く理解し、神のみむねの深さ、恵みを十分にくみとって喜びの賛美をささげるにいたるなら、これほどすばらしいことはありません。そのような中で何よりも救いをいただいたことへの感謝と喜びの賛美は年を追うごとに深まり、増しくわわらねば本当とはいえません。

 

マリアがある意味ではとても理解できないようなショックな体験にさらされたにもかかわらず、なお、かくも神への喜びの賛美をささげたということを思うとき、その賛美の心は崇高でもありました。「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」は、ここにみごとにあかしされています。

 

Ⅱ マリアの深い謙遜 48節

神を高く賛美すればするほど、マリアは自分の貧しさ、いやしさに気がつきました。それで「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」と歌いました。マリアの深い謙遜がここに示されています。

 

マリアが自分のことを「卑しい」というとき、この原語は低いとか軽蔑すべきという意味なのです。世が世ならは、マリアは本来、王宮にすむべきダビデ家の人間でした。しかし今は貧しい生活の毎日であり、大工ヨセフと結婚しようとしていた。「高い身分の者が、社会的経済的に急におちめになってゆくと、普通世のすねものになったり、積極的に生きる意義を失ってしまうものです。そして貧しさの故に世間にうらみをいだくようになります。しかしある場合はそれとは逆に、このことがむしろ恵みとして働き、この人が神への謙虚さを学び、その結果、魂がより美しく成長させるようになるのです。」(カイパー)マリアもヨセフも祝福の方へと自分たちを受け止めたのです。また、マリアはカトリック教会がまちがって主張しているように生れながらに罪なくして誕生したなどとは夢にも考えていませんでしたし、生涯、罪を犯すことがなかったなどとも考えてもおりませんでした。むしろ、「私の救い主なる主なる神」をと歌う存在であることを示しています。

 

自分は神に選ばれるような理由は何もなかった。これがマリアの率直な告白でした。さらに重要なことは、この卑しいものであることが、神が救い主の母として選ぶときに少しも妨げにならなかったのだという点です。いやむしろ「神は強い者を辱めるために、この世の弱い者をあえてえらばれた。また、この世の取るにたりないものや見下されている者を神は選ばれたのです。すなわち有るものをない者のようにするためと、無に等しいものを選ばれたのです。これは神のみ前でだれも誇らせないためです。」(第一コリント1:26〜29)神の選びの目は、まことに一方的な恵みによって判断され、あえていうならば。何ら選ばれるような理由のない者なので、選ばれた、というように向けられているのです。マリアはこのことを自覚して、心より、この賛美をささげました。

 

「これから後、どんな時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう。」

わたしたちの幸せは何でしょうか。それはマリアと同じ意味ではない。けれども信じる者の心の内に主イエスが宿ってくださっているというのではありませんか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」ガラテヤ2:20とあるとおりです。さらに、「わたしたちはこの宝を土の器の中にいれているのです。それはこの測りしれない力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかにされるためです。」これらのことばにマリアの精神が継がれているのです。

 

  • 結び)

マリアは自分は卑しい女、主を恐れかしこむ者、低い者であると歌って、事実そのとおりなのですが、イエスさまの側に立っています。マリアの賛美はクリスマスにさいして、イエスを信じ受け入れるすべてのものの共通の賛美であり、告白でもあるのです。救い主を恐れかしこみ、全存在をこめて賛美する生涯を、一人一人が恵まれますように!

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