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2017年11月26日 礼拝 説教 マーク・ボカネグラ宣教師


 
序論

「キリスト教の本質は何ですか?」この間、あるノンクリスチャンが僕に聞きました。皆さんはどう答えるでしょうか。

その友人との会話の中で、私のノンクリスチャンの友人がどういう答えを期待していたのかを私は想像できました。彼は「愛」、「家族」、「希望」、「道徳」というような抽象的なものを期待していたと思います。そして、もしこのような一般的で、抽象的なものが本質であれば、他の宗教、文化、哲学などにもあり、キリスト教の独特性はない、と彼は考えていたのです。むしろ、キリスト教と共にいろんな観点を受け入れたほうがいいと彼は考えたのです。だから私はこう答えました。「キリスト教の本質は「もの」ではなく、「人」なんです。イエス・キリストがキリスト教の本質なんです。イエス様の上に立つ「基準」、または「要素」はないんですよ。」。

 

本日の箇所はそのポイントを強調しています。コロサイという町は「混合主義」という考えが強く、他の宗教や哲学、文化などのいいとこどりをして、常に進化していく文化でした。日本と似てるところは多いと考えられます。一般のコロサイ人はイエス様のみで満たされるということが難しかったと言えます。しかし、先月の箇所、コロサイ1:3-14節を見ると、コロサイ教会は正しく彼らの望みを理解していたので、彼らは堅く神様を信じることができ、キリストにある兄弟姉妹を愛することができました。

 

前回の説教を聞いて、「私たちの望みとは具体的に、何でしょうか?」とうい疑問があったかもしれません。今日の箇所がその答えです。

 

「私たちの望みは私たちの王様であるイエス・キリストです。」これがキリスト教の本質なのです。イエス・キリストは全てを造られ、全てを治めておられ、十字架によって神様の敵を全て倒され、私たちを完全な平安に導いてくださった王様なのです。だからこそ、私たちの王様が私たちの唯一の望みであるといえるのです。イエス様が どのようなお方なのかを知れば知るほど、イエス様にしか望みはないと思わされます。

今日の箇所を3つのポイントにそって、説明したいと思います:1)創造主である王様 2)贖い主である王様 3)王様に敵対していた教会。

 

一つ目のポイントは、創造主である王様です。

1:15-17節では、王様であるイエス様は全てを創造され、良きものも悪しきもの)も、完全に治めておられ、良いことのためにご支配されているのです。

15節では、イエス様の「王権」を二つの観点から描写しています。一つ目の観点はイエス様は、「見えない神のかたち」であるということです。イエス様が王様であることを指しています。

 

クリスチャンの皆さんはご存知かもしれませんが、人間は神の「かたち」に造られたと創世記に書いてあります。このように、創世記1:25-26に書いてあります。

Gen. 1:25 神は、 種類にしたがって野の獣を、 種類にしたがって家畜を、 種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。 神はそれを見て良しとされた。

Gen. 1:26 神は仰せられた。 「さあ人を造ろう。 われわれのかたちとして、 われわれに似せて。 彼らが、 海の魚、 空の鳥、 家畜、 地のすべてのもの、 地をはうすべてのものを支配するように。 」

26節には神の「かたち」に造られる目的としてアダムが「すべてのものを支配するように」と書いてあります。要するに、神の「かたち」と造られるということは、神様がお持ちになっている「王様」の御性質を人間に与えるという意味なのです。

 

コロサイ1:15に書いてある「見えない神のかたち」という意味は、1テモテ1:17に書いてある、「世々の王、 すなわち、 滅びることなく、 目に見えない唯一の神」と同じように、イエス様は神様であることを指しています。

第一のアダムは王権を神様から頂いて、神様を裏切り、堕落しましたが、本当のアダム、完璧なアダムまたは究極のアダムであるイエス様は、ヘブル1:3によると、「神の栄光の輝き、 また神の本質の完全な現れであり、 その力あるみことばによって万物を保っておられます。」

 

もう一つの観点は、イエス様は「造られたすべてのものより先に生まれた方」ということです。この箇所をパッと読むと、イエス様は最初に造られた人間として解釈できるかもしれません。古くから、この箇所に基づいて、イエス様が神様の被造物であられるということを間違って解釈する人たちもいます。

 

しかし、「先に生まれた方」は「長子」または「長男」の意味を指しているのです。旧約では、「長子」は家族の遺産または権威を引き継ぐ人でした。そして、旧約でも約束されているのは、ダビデ王の子が、神様の「長子」とされるということです。パウロは詩編89を引用している可能性が高いです。詩編89:26-28をお読みします。

89:26 彼は、 わたしを呼ぼう。 『あなたはわが父、 わが神、 わが救いの岩』と。89:27 わたしもまた、 彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。89:28 わたしの恵みを彼のために永遠に保とう。 わたしの契約は彼に対して真実である。89:29 わたしは彼の子孫をいつまでも、彼の王座を天の日数のように、 続かせよう。

 

ダビデ王の子を、「長子」とされるという意味は、「最も高い者」にして、永遠の権威と王国を与えるということです。そして、ダニエル書の7:14では、その方にはこのような権威が与えられるのです。

この方に、 主権と光栄と国が与えられ、 諸民、 諸国、 諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。

 

それゆえに、Col1:15をイエス様は「造られたすべての者の上に立つ長子と訳することができるのです。パウロは旧約からの様々な引用で、イエス様は神様の権威をすべて頂いている王様だと力強くパウロは語っています。

 

では、王様の役割は何でしょうか?治めることです。悪者を裁き、良い者を守り、支配している王国を良い方向に導くことです。しかし、イエス様はどれほど力強いのでしょうか?本当にその役割を果たしているのでしょうか。

 

イエス様が全ての創造主であることが16節に書かれています。あるクリスチャンは、その事実を聞きなれすぎて、イエス様の御力の偉大さを忘れているかもしれません。

天にあるもの、 地にあるもの、 見えるもの、 また見えないもの、 王座も主権も支配も権威も、 すべて御子によって造られたのです。 万物は、 御子によって造られ、 御子のをめに造られたのです。

これは本当に驚くべき一節だと思います。「天にあるもの、 地にあるもの、 見えるもの、 また見えないもの」とは、私たちが見えるこの世界と、私たちが見えない霊的な世界を指しているのです。そして、パウロが「王座も主権も支配も権威も、」と書くときは、もちろん、この世の権力者なども含まれています。最も強く、影響力のあった王国の王様も含まれていますし、最も残酷で、乱暴な王様をも指しています。そして、パウロはこの表現を用いるときに、よく霊的な存在を指すことがあります。神様の力強い御使いたちや、またサタンのような邪悪な霊的存在も指しているのです。コロサイにはいろんな宗教があり、様々な神々や霊が存在すると信じられていて、どのように悪い力から逃れるのか、どのように良い力から守りを受けたらいいのかを常に考えていたのです。

 

パウロはこの箇所で何を宣言しているのでしょうか。天にある、一番強いみ使い、最も邪悪な悪霊でも、この世にいるアメリカのトランプ大統領や日本の安倍首相、北朝鮮のキム・ジョンウン、ISISのアブー・バクル・アル=バグダーディーであっても、全ての権力者はイエス・キリストによって造られたと言っているのです。

 

しかし、ある方々はカオスのようなこの世界を見たり、暴走してるような悪者を見たりすると、本当にイエス・キリストは良い王様なのだろうかと、疑うかもしれません。なぜ神様はこのような悪をこの世に許しているのでしょうか。

 

パウロはこう答えます。「万物は、 御子によって造られ、 御子のために造られたのです。」この世はカオスのように見えますが、すべてのものは神様の御心にしたがって動いており、悪者または権力者が悪いことを計っていても、神様は良いことのためにお計らいなさるのです。

 

ヨセフの兄弟はヨセフを騙して裏切り、彼を殺そうとしましたが、エジプトに奴隷として売りました。一瞬で死なせるよりも何十年間の苦しみをヨセフに負わせた、最悪の行為だと言えます。しかし、ヨセフが奴隷として売られた結果、神様はそれを通して、ヨセフをエジプトの王様の右腕とさせて、エジプト、そしてヨセフの家族を7年間の飢饉(ききん)から救い出したのです。神様は悪を良いことのために用いることがおできになるのです。

 

ダビデの姦淫は神様に対する最悪の罪とも言えます。神様がダビデに膨大な恵を与え、ダビデを富んでいたイスラエル王国の王様とされたのに、自分の軍の勇士の妻を欲しがって、その勇士の妻、バテ・シェバを強姦(ごうかん)し、その勇士を殺して、自分の妻にしたのです。なぜ神様はこのような悪を許されたのでしょうか。この悪の中にも、神様の御摂理がありました。バテ・シェバを通して、ダビデに王国を引き継ぐソロモンが与えられ、そして、最終的にバテ・シェバを通して、イエス様が与えられるたのです。もちろん、神様はダビデの罪を軽んじてはいません。ダビデを後で厳しく注意され、罰を与え、ダビデも深く悔い改めました。そして、神様はダビデに対する御怒りを全て十字架にかけられたイエス様に下されたのです。しかし、神様はダビデの罪を「良いことのために」お用いになられたのです。

 

しかし、このような説明をすぐに受け入れることができないときもあります。「人身売買」や「強姦」、「殺人」などが結果的に良いことをもたらしたとしても、それで本当に許していいのでしょうか?

 

では、十字架を見てみましょう。イエス様はどなたよりも純粋で無実な、お方です。かわいい幼児よりも純粋なのです。

しかし、サタン、死、罪、そして「天にあるもの、 地にあるもの、 見えるもの、 また見えないもの、 王座も主権も支配も権威も」と書かれているすべての悪が、私たちが想像することができないほどに、この幼児よりも無実なイエス様に対して全力で悪戯(あくぎ)を行ったのです。イエス様は、悪者の手によって、醜い(みにくい)姿になり、叩かれ、むち打たれ、釘を打たれ、十字架にかけられ、そして完全に死なれたのです。一番残酷な「人身売買」、「強姦」、「殺人」よりも邪悪なできごとでしたが、イエス様は十字架にかかったまま、まだその悪の「上に」たって、王様としてご支配しておられました。そして、「十字架」という悪を通して、永遠のいのちを罪人にお与えになることができたのです。

 

それゆえに、17節に、「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」この「成り立つ」というギリシャ語は、「一致させる」とか「治める」というニュアンスが入っています。イエス様はすべてを創造して、放っておかれるお方ではありません。私たちの王様は、悪いことであっても、苦しいことであっても、死に至ることであっても、神様に敵対する者がいても、万物をすべて治め、神様の最も良い目的のために一致させ、この世を成り立たせておられるのです。どんなに小さなことでも、どんなに大きいことであっても、イエス様は全てを創造し、すべてを治め、すべてを良いことのために計らわれるのですそれゆえに、苦難の中でも、悲劇の中でも、死の直前でも、創造主であられる王様が私たちの唯一の望みとなられるのです。イエス様のような神様、権力者、霊的な力はこの世にはありません。だからこそ、私たちは完璧な創造主であられるイエス・キリストにより頼んで、委ねて、お任せするのです。

 

しかし、イエス・キリストは創造主であるだけではありません、贖い主でもあられます

 

二つ目のポイントは、この贖い主である王様は、御自分の栄光と花嫁である教会のために全てを造り変えられることも約束されています。

 

18節には、「また、御子はそのからだである教会のかしらです。」と書いてありますが、イエス様にとって、教会またはクリスチャンは特別な存在であると指してます。

 

エペソ5:23, 25-28はこのように、「頭」と「体」の関係性を描いています。

なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

 

Eph. 5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。Eph. 5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、Eph. 5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。Eph. 5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

 

イエス・キリストにとって、教会は妻のような存在だとお考えになられているです。イエス様は御自分の一部として、犠牲的に、全てを尽くして教会を愛されるのです。イエス様は万物を全てご支配されていると言えますが、万物の全てはイエス様の「からだ」とは言えません。教会だけが、イエス様の「体」で、教会だけを特別に愛しているのです。

 

どこまで、そして、どのようにイエス様は教会を愛しているのでしょうか。

18 御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

 

万物の創造主であられるにもかかわらず、教会を「死」の支配から救われるために、イエス様は「死」を圧倒的に倒され、「新しい王国」を建て上げられたのです。

聖書の世界観では、「死」は暴力的で残酷な存在で、人類を囚えれていると見ているます。人類が「死」に囚われているのは、人類の代表である、最初に生まれたアダムが罪を犯して、自分の自由を「死」に売ってしまったからです。そして、それによって、全人類は罪、死、とサタンに支配されるようになったのです。アダムの子孫は、罪、死、サタンの支配下のもとで、神様に敵対するようになりました。

 

しかし、愛する教会を救うために、イエス・キリストは解放の道を開くため、「死」の鎖を引きちぎるために、御自分を死なせて、蘇らせる必要があったのです。

 

コロサイ人への手紙の筆者パウロは、1コリント15:20-28節にこのように書いてあります。

1Cor. 15:20   しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。1Cor. 15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。1Cor. 15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

 

1Cor. 15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。1Cor. 15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。1Cor. 15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。1Cor. 15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

 

要するに、すべてのものに命をあたえられた創造主が、愛する花嫁である教会を救うために、イエス様は死なれたのです。コロサイ1:19では、イエス様は「満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせた」お方です。旧約のイスラエルの神殿のように、神様の御栄光が満ち溢れるような存在であられたにもかかわらず、イエス様は十字架にかけられた死体になられたのです。釘に打たれ、いばらの冠をかぶらせられ、つばも吐かれて、十字架にかけられた、血まみれの、みじめな、裸の死体になられたのです。天にあるもの、 地にあるもの、 見えるもの、 また見えないもの、 王座も主権も支配も権威も支配し、すべてを創造お方が教会のために、十字架にかけられた死体になられたのです。そのようにへりくだる王様、権力者、リーダーがいるでしょうか。そこまで自分の権力を他人のために使う方はいるでしょうか。

 

そして、イエス様は、愛する教会のために、十字架を通して「死」を圧倒的に倒されました。人間であったイエス様が「死」から蘇えた時に、歴史上はじめて、人間から「死」の鎖が引きちぎられたのです。それゆえに、イエス様の十字架と蘇りによって、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除して、さらしものとし、彼らを捕虜(ほりょ)として凱旋(がいせん)の行列に加えられました」とパウロはコロサイ2:15に書いています。サタンと罪はもう「死」を使って、教会を脅かすことができなくなったくたのです。今、サタンはほえる獅子かもしれませんが、イエス様は蘇りによって獅子の牙を抜いたのです。その結果、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 

だからこそ、死を倒したイエス様は、コロサイ1:18節に「死者の中から最初に生まれた方」と呼ばれているのです。先ほどご説明したように、「最初に生まれた方」の意味は、最高の権威を持っている方であるという意味です。それ故に、イエス様は死から蘇って、教会の最後の敵「死」を倒したお方なので、マタイ28:18には「天においても、地においても、いっさいの権威が彼に与えられている」と書かれているのです。にそして、ほふられた子羊は永遠の王国の権威を引き継ぐことができたのです。

 

しかし、もちろん、今現在、死はまだ存在しますし、この世もサタンもまだ神様に敵対して教会を絶滅させようとしています、また、イエス様の王権を無視して自分を人生の王として生きる人々もいるので、まだ完璧な「平和」はこの世にはないと言えます。そのため、コロサイ1:20はイエス様の再臨を指しているのです。もう一度、お読みします

その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

当時、敵の王国と和解する方法は二つありました。一つの方法は平和条約を結ぶこと。もう一つの方法は敵を完璧に倒すことです。義なるイエス様は、イエス様を裏切り、何千年も神様を無視して、残酷なことを犯し続けた罪深い世界と平和条約を結ぶことができません

 

イエス様の再臨によって、私たちは蘇り、私たちの最後の敵である、「死」を完璧に倒します。最後の日の蘇りは、救いでもあるし、悪者または神様に敵対するものに対する裁きでもあります。再臨と蘇りによって、神様に敵対していたこの世にある悪の権力者や天にある悪の御使いや悪霊をすべてを滅ぼすことができるのです。その結果、イエス様は神の御国をこの世にくだらされ、この世と「平和」と「和解」ができるのです。そして、結果的に、イエス様は愛する教会を救い出し、教会は喜びに満ち満ち溢れた「新しい王国」の中に永遠にそして平和に過ごすことができるのです。

 

万物の創造主であられるにもかかわらず、教会を「死」の支配から救うために、イエス様は「死」を圧倒的に倒され、御自分の民、御自分の花嫁と永遠に過ごされるのです。、イエス様は完璧な贖主なので、私達はイエス様を私達の王様としてより頼むことができるのです。イエス様は私たちの唯一の望みなのです。

 

イエス様は偉大で、力強い、創造主でもああられりますが、その御力のすべてを尽くして、愛する教会を「死」から救われるために、十字架までへりくだられ、蘇りを通して悪者を完全に倒し、この世に完全な、永遠の「平和」をもたらされる贖い主なのです。

 

しかし、私たちには問題があります。

三つ目のポイントは、王様に敵対した教会についてです。

コロサイ1:21を読みます:「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのです」

 

実は、イエス様が倒される敵というのは、もちろん、ヒトラーやISILのような悪者も含まれていますが、私たちも含まれています。もし私たちが悪い行いをしたことがあれば、私たちも「心において」の「敵」です。どんな行いが「悪い行い」なのでしょうか?パウロはこう言っています。

 

Rom. 1:28   また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。Rom. 1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、Rom. 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、Rom. 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。Rom. 1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 

自分は「殺意」、「神に対する憎み」」「むさぼり」など考えたことはないと思うかもしれませんが、他人の「陰口」を言ったことはありませんか?上から目線で、話したことはありませんか?ひとに対して無関心になったり、愛さなかったことはありませんか?約束をやぶったことはありませんか?子供たちも今日いますね。みなさんは親に逆らったことはありませんか。むしろ、逆らわない子供はいませんよね。これらはすべて、「悪い行い」なのです。神様に「敵対する」行いです。そして、その結果、死罪にあたるという行いなのです。

 

なぜこのようなことが神様の目でには「重罪」なのでしょうか。それは、どんなに重い罪でも、軽い罪でも、創造主であり、贖い主であられる王様に対してクーデターを犯す、または攻撃するような意味があります。これほどまでに偉大力強いお方が、私たちのレベルまでへりくだって愛してくださるのなら、神様である王様を敬うべきであり、神様のおっしゃることに従うのは人間にとって最低限の常識だと思います。そして、神様は「すべてを尽くして神様を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」と非常にシンプルな、良い掟を私たちにお与えになりました

 

しかし、その掟を守らず無視するなら。「創造主である、贖い主のいうことよりも、私の基準に沿って歩みたい」という意味になります。一瞬そう聞くと、あまり大したことではないように思えるかもしれませんが、もうちょっと掘り下げて考えてみると、創造主と贖い主の王権を認めない、むしろ、私がその王座に座りたいということが表されています。

 

要するに、神様の掟を無視して自分の基準にそって歩むということは、天の王宮の扉を蹴り倒して、神様の王座へどうどうと向かって、王様である神様のむなぐらをつかみ、王様を引き倒し殺して、自分が王座に座って、自分の人生の意味や人生の掟を定めようとしているのです。私たちが陰口を言う時、子供たちが親に逆らう時、私たちが神様を無視するとき、意識的にまたは無意識的に、神様に「死ね」と言って、神様を殺そうとして、自分を王様としているのです。

 

そして、権威のある方に対するほどそのような、暴言、行為を行ったら、罰が大きくなりますよね。私に対して暴言を言ったり私をぶってもあまり大した罰はないと思います。私は権威が全くないですから。しかし、もし核兵器を所有していて、この世の最強の軍隊と経済を持っているアメリカのTrump大統領に対して、暴言を言ったり、彼をぶったりしたら、かなりの反発があると思います。最低でも逮捕、最大なら処刑かもしれません。しかし、もし全てをご支配しておられる創造主、そして、蘇りを通して、すべての敵を圧倒的に倒される贖い主に対して敵対するなら、永遠の死という罰は当然なことと言えます

 

今も教会は様々な「悪い行い」を犯し続けています。心の中で、色々な々な方法で神様に対してクーデターを犯し、神様の王権を奪いおうとしているのです。しかし、反逆者である教会は、どのように王様なるイエス・キリストの御前に立つことができるのでしょうか?

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

ローマ帝国では、十字架は「反逆者」の処刑台でした。私たちの王様が、私たちの代わりに、天の御国の「反逆者の処刑」である十字架刑を受けてくださったのです。そして、私たちにイエス様の完璧な義を覆わせてくださったのです。それゆえに、わたしたちは神様の御前では、御子の肉の体において、すでに処刑された反逆者となるのです。律法上、私達はもう処刑される必要はありません。そして、イエス様の完璧な義が私たちの罪を覆われているので、私たちは忠実で聖く、傷もなく、非難されるところもない者とみなされるのです。神様の目に、私たちはイエス様のように神様を裏切ったことがない、「義人」とみなされるのです。

 

このように私たちのために完璧な救いをご用意してくださる王様がいらっしゃるでしょうか。これほど素晴らしい福音があるでしょうか。だからこそ、パウロはこのお方のみに堅く立って、より頼む必要があると宣言するのです。

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。

 

これほど力強い創造主はおられません。これほど恵み深い贖い主はおられません。これほど忍耐深い王様はおられません。

 

では、私たちはどう応答するべきでしょうか。もしキリストをまだ受けれていない方がいれば、このような方はいらっしゃるかどうか、ぜひ考えてみてください。そして、クリスチャンであれば、イエス様のみにより頼み、喉が千切れるほど神様をほめ歌いましょう!

 

実は、15-20節は初代教会が歌っていた讃美歌なのです。パウロが手紙の挨拶を書いてる途中、神様に対する感謝が抑えきれないほど心からあふれ出て、15-20節でイエス様の偉大さと恵み深さをほめ歌い始めるのです。皆さん、そのように賛美したいですか?そうであれば、自分を見るのではなく、イエス様の偉大さと恵み深さを見る必要があります。

 

私たちの唯一の望みであられる、十字架にかけられた王様であられるイエスキリストにより頼み、神様の御名をほめ歌えるよう成長できるようにお祈りいたします。

 

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