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2017年8月13日 礼拝 説教(日本語文)マタイ5章1〜2節


 
2017年8月13日 マタイ5:1−2「山上の教え」

序文)今朝の聖書箇所は、文脈として4章23〜25節の次に書かれているのです。「イエス・キリスト様がガリラヤの全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエス様の噂はシリヤ全体にまでひろまり、人々が、さまざまな病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の物などをみな、みもとに連れてきた。イエス・キリストはお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」これには深い意味があります。

Ⅰ 二つの山上の説教の相違

イエス様が山の上から、弟子たち(5:2)と群衆に教えました(7:28)。その群衆は4:25の群衆です。イエスさまが行く先々で御国の福音を伝え、それに大いなる業が伴っていました。病む者が癒され、悪霊が追い出され、人々のあらゆる病気、痛み苦しみが駆逐されてきました。それは細事にこだわる律法学者のようにではないし、パリサイ人のようではない。彼らに悩まされてきた群衆は、いま、目の前で喜びの福音を伝え聞き、次々と困難から解放してくださるお方の思いやり溢れる姿に近づき、恵みをいただこうとして付いてきた群衆だったのです。

福音がもたらす恵みの救いと喜びに溢れている群衆たちなのであります。

主は山に登り、弟子たちと群衆にお話を始められました。これから話される事柄は、かつて出エジプトの時に神がシナイ山の上からモーセに語られ、モーセから民衆に語られた内容とは大きくかけ離れていました。かつては雷の鳴り響く目もくらむような稲妻をともなって律法が与えられた。それは石の板に書かれて、禁止事項の盛られた内容であった。不従順な人々は石の板が目の前でモーセにより粉々に内砕かれ神の怒りを覚えさせられた。

しかしこのたびの山の上での話は、そよ風のふく、抜けるような青空、さまざまな草花が咲き乱れ、小鳥たちの鳴き声も聞こえる、そのような中に静かに語られたのです。それは主イエス様が「幸いだなあ!」という感慨のこもった話し方をされた幸福のメッセージでした。

モーセ律法は厳しく、拘束力、強制力のある内容であったが、主イエスは人々の弱さを包みながら、優しさと柔軟な感覚で説教をなさっているのです。聞いている人々はモーセのように呪いの宣言が出てくるような内容に恐れつつ聞くのではない。恐怖心は消しさられ、美しい魅力と、みことばに聞くことで忠誠心が生まれてくるような暖かみのある内容でした。いわば敬虔な信仰生活を送ることの秘訣が説教には込められているのです。主イエス様の説教内容の基本は「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じよ。」です。その「神の国」の生活指針ともいうべき秘訣が語られているのです。それは神への畏怖が人生の根底にある生き方だと言うのです。恐怖ではないのです、畏怖なのです。敬虔な畏れです。

 

Ⅱ 今の時代の三つの特徴

なぜ、今、山上の教えを学ぶのか?について、参考にしている書物類の中で、様々な信仰深い学者や、牧師方が説明を企てています。その中でご紹介しておくことは益になると考える説明をしておきましょう。

第一の特徴:今の時代の人々は真実より力に、愛より利益に、生きる価値を見出そうとしている。既存の価値観が崩れ去り、それに頼ることができなくなっているだけでなく、それに代わる頼れる価値と倫理を持てない結果、そうなっている。

第二の特徴:それは絶対的価値基準を失い、相対化してしまったためである。それは社会構造そのものに大きく起因している。つまり、社会が多元化し流動化してきた結果、一つの基準で全てを律することが不可能になった。そのために永遠的、本質的なものまで見失い、現象的、即物的なものに目が奪われるのも自然な傾向と言える。

第3の特徴:生きる意味と意欲を失いつつある。現象的、即物的であるとともに、それらに心から満足することができない。経済的繁栄の中において、多くの人々は深い虚無の虜になりつつある。

 

創造主・救い主・完成者である聖書の神様への敬虔な畏怖を失っているためにこのような時代的特徴の中に私たちは生活しています。しかし、イエス・キリストは本当の力と解決と持っておられるのです。キリストが信じ話されたように、聖書・みことばをありのままに取り上げ、語りかけを受け入れることで、様々な浅薄さから解放されることができます。聖書は生活と実践の唯一の基準であると、主イエス様がそうであったように、私たちも信じている。山上の教えは、この時代の特徴を打破し、自分たちが受け入れた主イエスの十字架と復活の福音をどれほど真剣に生活しているかを示してくれるのです。その生き方の根底に神への敬虔さを身につけさせてくださるのです。

 

Ⅲ 聖書に出てくる「幸いだなあ」

山上の教えのはじめの数節は「幸いだなあ!」の連続になっています。次の週から学びますが、その前に、聖書にいくつも出てくる「幸いだなあ!」について少しだけ見ておきましょう。

1 詩篇 1:1 [幸いなことよ。]

神を褒め称えることは、地上にあるキリスト者の神への最高の奉仕であり、特権でもあります。また天上では贖われたものの永遠の歓喜は、神に対する尽きぬ賛美となってあらわされるのです。へブル詩篇は何よりもまず、賛美の書です。1:1の最初の語は「幸福」(アシュレイ)であり、最後の語は150:6ハレルヤ-あなたがたは主をほめたたえよ!150篇からなる詩篇は、人生のあらゆる局面に遭遇した詩人たちの、時に深い嘆きの歌であり、また苦痛の呻きの歌であり、罪を悔ゆる悲しみの歌です。さらに疑惑と不安より生じる恐れの歌でもあります。しかしながらいつも詩の終わりは、唯一のまことの神主へを褒め称える勝利の歌へと高められています。最後はハレルヤです。「幸いだなあ」と主イエス様が言われている山の上の教えの背後に、主が親しまれて来た詩篇があったのではないかと思わせます。人間の幸福についての一致した教えがあります。私たち聖徒たちも人生の終わりにハレルヤコーラスを歌って天の御国に入ることができるのは、本当に「幸いだなあ」です。

2 ヨハネの黙示録14章13節 私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。今からのち、主にあって死ぬ死者は幸いである。」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休みことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

天からの声を聞いたのは、使徒ヨハネです。彼が晩年、キリスト教を迫害していたローマ皇帝の命令で、パトモスの島に幽閉されていた時に、聞いた声や見せていただいた天の情景を描いたのが黙示録です。「幸いだなあ。主にあって死ぬ死者は!」死ぬことが幸いであると言うのです。普通は死ぬことは不幸であると思います。しかし「幸いである」と天の父なる神様からのみ声です。地上しか見ていない人間の視点ではなく、全てを創造し、今も治めておられ、世の終わりには、新しい天と地を再創造される、聖書の神様からの視点です。通常、人は「罪にあって」死ぬことで永遠の滅びを刈り取るので不幸なのです。しかし、天の父なる神様が、お送りくださった救い主イエス・キリストを信じ、より頼む者たちは、「主にあって」死ぬので、永遠の命にあずかりつつ、労苦から解き放たれて休むのです。「死は休み」と言われています。いずれは目覚める時が来るからです。人が死ぬと消滅してしまうのではありません。身体は土に帰りますが、そのひとの人格の中心であるたましいは永遠存在です。永遠のいのちに存在するか、永遠の滅びに存在するかなのです。存在しなくなるのでは決してありません。ですから救い主にたましいが生命的に結びついている者は幸いなのです。土に帰った身体については、主が十字架の上で死に墓に葬られて、三日目によみがえられたいのちに、身体も結びついているので、自分たちの復活の日まで休むのです。そして、栄光の身体によみがえる時が来るから幸福なのです。主イエス様が「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ10:45)、と言われた通りのことが起こるからです。主イエスにあって完全な救いをいただくのです。しかもその際に「彼らの行いは彼らについて行くからである」と聖霊が言っておられます。私たちの、地上での行いのすべては、主イエスにおぼえられ、善であれ悪であれ、真の神様の前で明らかなのです。「ついて行く」とは生前の人格に伴う全てが、死の後も、神様の前でその人格と共におぼえられると言うのです。主がある時「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と、神を畏れる人々の行いのことを話されました。その内容は、「わたしが空腹であったとき、わたしに食べるものを与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです」(マタイ25:35-36)と言うのです。私たちの地上での日々に、主にあって何をしたかは、それが主ある幼子に対することであっても、ついて行くのです。わたしにしたと主イエスはいってくださるのです。信じる者としての生涯を共に歩んでゆく者は、幸いだなあ!

 

3 黙示録20:5-6 「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」第一の復活にあずかる者は幸いだなあ!いつそうなるのか。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響のうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともに入ることになります」(第一テサロニケ4:16-18)。

確実に体の復活がある。神が定められた時が来ると、主ご自身が迎えに来てくださる。今は、ちょうどそのプロセスの中に生きて入る。このような人生に招かれて歩めて入ることは、本当に「幸いだなあ!」

 

結び)救い主を信じるようにと招かれ、信じることができ、日々に歩みを進めることが可能なのは、助け主聖霊様のお働きに浴しているからです。本当に幸いです。次主日から、主イエス様の山の上の教えの本文・幸福論に進みましょう。

 

 

 

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