コメントはまだありません

2017年9月17日 礼拝 説教 マーク・ボカネグラ師 聖徒の交わりについて

 

2017年9月14日 礼拝 「聖徒の交わりを信ず」1  使徒2:46-47

序文)教会の修養会の主題「聖徒の交わり」について、今朝は、ウェストミンスター信仰告白第26章「聖徒の交わりについて」を学び、日本長老教会共通の信仰理解をまず学びます。

 

一項「みたまにより、また信仰によってかしらなるキリストに結合されているすべての聖徒は、イエス・キリストの恵み・苦しみ・死・復活・また栄光において彼との交わりにあずかる。また彼らは、愛において互いに結合されて、相互の賜物と恵みをわかち合い、また内なる人においても外なる人においても、共に相互の益に貢献するような彼らの公私の義務の実行を義務付けられる。」

「聖徒の交わり」とは何か、使徒信条では「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし」というように告白がつづきます。聖徒の交わりは、教会におけるキリストと聖徒との縦の交わり、すなわち、みたまにより、信仰によってキリストに結合されている交わりが根源にあって成り立っている。その上で、キリストにある聖徒相互の交わり、キリストから与えられた賜物の量りにしたがって全体の益にために相互に共に分けあう横の交わりがある。

それは父、御子、みたまの交わりにあずかる事であり、私たちを神の子とし、その性質にあずからせる。(Ⅱペテロ1:4、Ⅰヨハネ1:3、Ⅱコリント13:13)

この聖書の神様との交わり、すなわち、私という個人の地上生活のすべての領域において、神とともにあること、インマヌエルの主を覚えることが全信仰生活の基本であります。

長血の女性とイエス・キリストの出会いにみられるように、神との交わりは何事でも、人間の側からの一方的な呼びかけや、タッチや、礼拝や決断だけで成り立つのではなく、必ず神の側でそれと分かるように働かれており成り立っているのです。わたしたちは三位一体の神との交わりを、ヨハネが「見たもの、聞いたこと、手でさわったもの」というふうに、全生活の中で体験させられてゆくわけです。そして神ともにいます、ということをさらに強く信じて歩むわけです。信仰のスタートにおいてこのような人格的な神との交わりを大切にしなければなりません。曖昧にしてはなりません。

だから愛と奉仕は、神とキリストヘの感謝・献身であるが、それは聖徒相互の建徳と助け合いという形をとって表わされます。キリストを愛している。仕えている。しかし教会生活はやりたくない。聖徒相互の交わり助け合いはごめんこうむりたいという者は、クリスチヤンとしての健全な信仰の成長をすることができない。教会生活を抜きにしてキリストを愛し仕えているということは、聖徒の交わりの誤解である。

 

二項「信仰告白をした聖徒らは、神礼拝、またその他彼ら相互の建徳に資するような霊的奉仕の実行、更にまた彼らのそれぞれの能力と必要に応じて外的な事柄においても互いに助け合うことにおいて、聖なる交誼と交わりとを保たなければならない。この交わりは、神が機会を供えてくださるままに、主イエスのみ名を呼ぶに至る所のすべての人々に広げられなければならない。」

「聖徒の交わり」はお互いの交わりを大切にします。それは「愛において互いに結合されて、互の賜物と恵みを分かち合い、また内なる人においても外なる人においても、共に相互の益に貢献するような彼らの互いに一つの幹につながる枝として枝と枝が互いに分かち合い、支え合い共生してゆくのです。」

「使徒の働き」に記録されている、初代の教会は、「共にあること」を求めて、そう生活し、集まり、祈り、さまざまなことを共有していたのです。使徒2:42。聖徒の交わりを信じる私たちは、その表現として「一緒に集まる」のです。「ふたりまたは三人が、私の名によって集まるところ(セルグループの最小単位)には、私もその中にいるのです。」とのイエスの約束を信じて、聖徒の集まりは神との交わりの場であることを信じているのです。教会はお互いが一緒にキリストと交わる場となるのです。礼拝を献げ、聖餐式に与り、自分を献げ、みことばに聞く、互いに執り成し、信仰と賜物と恵みを分かち合い、補い合うのです。

キリストについての知識、経験を分かち合い、助け合う。個人のあかしや経験の分かち合いは、みたまの導きを祈り、喜んで、自分の勝利や試みや失敗や課題を告白します。「だから互いに罪を告白し合いなさい。またいやされるためにお互いのために祈りなさい」(ヤコブ5:16)。

お互いが交わりを破壊するような悪を何らかのかたちで行ったなら、私たちはそれを告白して、仲間の赦しを求めなければなりません。私たちの分かち合いで重要なことは、キリストに共に与ることです。そのために聖書を中心にして、教えと実践を分かち合う事で豊かなものを提供し合うのです。

さらに仕える面では、互いにてんでにではなくて、共に仕える。組織的に働くことによりキリストの身体が成長し、成熟して行くのです。この様な交わりを支え奨めるために、互いは聖霊の助けを必要としているのです。これは自動的に成立するものではありませんから、人間の不従順によって、実際に損なわれもすれば、破壊されることもあるのです。初代教会はそのことを経験済みで「平和の絆で結ばれて、聖霊による一致を守りなさい」(エペソ4:3)とすすめられているのです。

私たちの交わりを成立させて行くのに必要な徳は、実はただ一つです。「アガペーの愛、主イエスの愛」です。自分から出て行く一方的な愛です。神から出て人に向かって行く愛です。人からおかえしを求めない愛です。行動する必要があるから行動し、行動しないことが自分自身の苦悩となる愛です。

交わりの実践をどのようにしたらよいか。霊的な面と物質的な面との両方において、聖徒相互の助け合いの実践が告白されています。これはエルサレム教会の中で実践されていました。「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売ってはそれぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を−つにして宮に集り、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:42〜47)。

聖餐式や祈りは聖徒のまじわりの頂点を表わします。執事会活動の深い部分では、この交わりの両面がやはり担われています。

このような交わりは、各地区教会においてばかりでなく、日本長老教会全体において、さらには、神が機会をあたえてくださるままに世界大に広げられなければなりません。教会間、教派間の枠を越えて広がることも告白されているのですから、福音の根本において基本信条を受け入れていることを注意しながら、教会の公同性を守って実践して行きましょう。

 

三項「聖徒らがキリストともつこの交わりは、どのような意味ででもキリストの神性の本質にあずからせず、またどのような点でもキリストと等しくならせるものではない。そのどちらを主張しても不敬虔であり冒涜である。また聖徒としての彼ら相互の交わりは、おのおのが自分の財産や所有に対してもっている権利すなわち所有権を奪たり侵害するものではない。」

ここには聖徒の交わりがキリストとの交わりであるが、それは決してキリストと同じになることを意味しないと注意している。どれほど、キリストとの交わりが親密であっても、私たちとキリストとの間には根本的な違いがある。キリストとの絶対的、性質的な相違があることを注意している。聖徒はキリストの神性に関与することはない。キリストと父なる神との同質性のように、わたしたちがキリストと同質なのではない。わたしたちはキリストの人性と同質なのである。私たちはキリストのように本質的に神の子なのではなく、神の子と養子されたものである。

次には、私有財産制の肯定が告白されている。これは共産制、独裁制への歯止めとして告白されている。聖徒の交わりの誤解をこの点でしないように注意しよう。神の恵みが、全体の益のために与えられているが、それは個人の持っている所有権を否認したりしない。愛のゆえに自発的に心から捧げることによって初代教会は活動していたのである。

 

Ⅲ「聖徒の交わり」は、すでにこの世を去って、天にいる聖徒達との交わりを考えることができます。もちろんこれは当然「死者との霊交」という聖書が禁じている事を指すのではありません。

ヘブル12:1、22、23。ここに示されている交わりはこれから与えられるものであり、キリストにあって一つということが、死によっても取り去られることがないと言うことを示しているのです。死が破ることができるものは、一時的な離別ということでしかない。主にあって私たちは一つ家族として「天上にある一つ教会にとどまる。今は流れによって隔てられているけれども、狭い死の流れによって。」(C・ウエスレー)

天にいる聖徒たちが地上に残していった信仰の遺産を共有するという点での交わりがあります。今日的には、記念文集などを通しての交わりです。

 

結び)以上、学びましたような聖徒の交わりの実践の一環として、セルグループの交わりについて、修養会の開会礼拝で続けます。

 

「聖徒の交わり」 2  アウトライン

 礼拝説教の適用:セルグループの交わりについて

1 なぜ「セルグループ」なのか 

イ 初代教会の模範 使徒2:46-47、5:42

ロ 多くのクリスチャンの交わりが現実に非常に浅い。しかし神が望んでおられるのは、ほんとに深い交わりがあることです。

ハ 互いに罪を告白し合うために ヤコブ5:16

ニ イテロ原則 出エジプト18:13-26

モーセの問題は、一人で全部を指導しようとしていたことである。イテロはそれに対して人数に応じたリーダーを立てることを忠告した。

ホ 弟子造りのためにも必要  マタイ28:19-20

「私があなた方に命じたことを守るように教えなさい」礼拝で説教を聞いても信徒が、イエスからの命令を守っているかどうかを確かめることができない。小グループの交わりによってそれを知ることができる。

ヘ 伝道の為にも必要 Ⅰテサロニケ2:8

ト サイド・ドアー伝道はフロント・ドアー伝道よりも効果的である。

チ 各個教会のためにリーダーを育成する  Ⅱテモテ2:2

リ 長老教会全体のためにリーダーを育成できる

ヌ 万人祭司という宗教改革の原則:

エペソ4:12. 使徒の働き8:1-4

ル 明瞭性という聖書解釈の原則:

ウェストミンスター信仰告白第一章の7「救いのために必要十分なことは、聖書の中に非常に明白に示されておりだれでも、それらについて十分理解することができる。」

オ 長老の責任は教会を治めることだけでなく、牧会や伝道も長老の働きである。

ワ 教会と家 教会誕生の場は神殿ではなく家でした

「召された者の集まりとしての教会」と「キリストの体」としての教会。信仰告白の上に立つ教会 マタイ16:16-18

使徒的権威の上に立てられた教会 使徒1:25、エペソ2:20

組織とその指導者たち 使徒15:22、14:23

 

結び)聖霊の導きと助けを得て、具体的に交わりの場、集まりの場として「家」を設定することの必要性があります。現在のパティオス20〜105廣橋の家の教会での交わりの深化とともに、ベイタウンの様々なブロックで、また他の地域で、「○ ○ の家の交わり」として誕生することを新五カ年計画は期待しています。

 

コメントを投稿