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2018年10月28日 礼拝 説教 マタイの福音書8:14-17「私たちの病を負う主イエス様」(録音音声あり)

2018.10.28 招詞 イザヤ53章4節 聖書 マタイの福音書8章14-17節

「私たちの病を負う主イエス様」

序文)主イエス様は、ツァラアトの人を癒して、次に、百人隊長のしもべを癒されました。続いて、ヤコブとヨハネを連れて、すぐにシモン(ペテロ)とアンデレの家に行かれた。家ではシモンのしゅうとめ(奥さんの母上)が高い熱を出して寝込んでいた。主はその枕元に立って、手に触られると熱が引いた。「すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした」(15節)。彼女はすぐに立って主と弟子たちのために安息日の食事を調えてもてなしたのです。

 

Ⅰ 主は家族のことを気遣ってくださる

1 主イエス様はすべてを捨てて自分に従った者たちの家族を思いやっておられる。伝道旅行の最中にその家族の状態を聞かれてすぐに尋ねられた。どうだね?これは慰め深い事です。主イエス様に従って遣わされた所に出かけている者たちは、多くの場合、肉親のいろいろな困難や危機に即応できない状態に置かれています。しかし主イエス様は具体的に心を配ってくださり、高い熱の病に苦しむ、姑をいやしてくださった。

今でも、主の宣教の同労者、宣教師方の家族に、同じような事が起こります。事故があった。病気になった。危篤です。いろいろのニュースは、外国に遣わされている場合は、本当にやきもきします。心配が募ります。緊急性の度合に応じて一時帰国をさせます。出来事を知った者たちは祈りの応援をして、主イエス様がその家を訪れ、家族の上に働いてくださるようにと祈ります。

 

2 ペテロの姑は、主イエス様によって即時に癒されました。彼女は、この喜ぶべき奇跡を体験し、すぐに隣近所に知らせてまわり、大喜びしてもよかったのです。しかし、彼女が、すぐにしたことは、主と弟子たちのために食事を用意してもてなしたのでした。ゆっくりと食事をする間もないほどに、主と弟子たちは神の国のために労苦し続けていました。彼女はもてなしをしました。今、自分が第一にするべき事をわきまえていました。回復された力を用いて主イエス様のために奉仕しました。「もてなした」動詞は未完了形で、一回限りではなく、つづけて生涯、イエスに仕えてもてなしを続けたことを示します。弟子となったのです。

 

3 夕方になって日が沈むと人々が押し寄せてきました。安息日は日没で終わりとなり、それからは自由に歩き回り、働く事が出来ました。会堂での出来事や、シモンの家での出来事を人づてに聞いた者たちが、病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来たのです。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお治しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからです。

 

Ⅱ 預言の成就

1 当時、現実にあった病気は、ツァラアト、中風(脳溢血や脳梗塞の後遺症)、悪霊つき、熱病、血の流出などです。病いは今も世界に満ち、種類が増えています。私たち人間のために、地上に来られた主イエス様がなさった対応が、次々と病人を癒されたということでした。マタイはこれらの出来事を、預言者イザヤの預言の成就であると解説しました。イザヤ53:4「まことに、彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病い負った。」彼とは「メシア」をさします。救い主は、私たちの病いを負われた。救い主は私たちの罪のために身代わりとして十字架にかかって贖いのみわざを成し遂げて下さった。その地上人生には私たちの病気を負うことが含まれていた。病気に象徴される苦難、罪、悲惨、咎、死までも含めて、この聖句を適用することができる。イザヤ53:5-6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

聖書の神様は、人間の罪の結果の病いと死と永遠の滅びを放置されることなく、贖い、ゆるし、きよめ、いやし、回復させ、腐敗の究極の姿である死そのものを葬り、からだの復活をともなう永遠のいのちによって、完全な贖いをもたらそうとしておられるのです。その鍵をにぎっておられたのが地上に来て下さった救い主イエス・キリスト様でした。その保証が主イエスさまの十字架と葬りとからだのよみがえりでした。

 

2 癒しをした主

主イエス・キリスト様が地上生涯で行われたいやしの数々が、次のように言われています。マタイ15:30-31「すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足元に置いたので、イエスは彼らを癒された。」主イエスは神の国の到来をご自分で見せられました。主は神の国の到来をご自分で見せられました。

黙示録に示されている、完全な救いの世界、新天新地、新しい神の都には、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもない。またそれまで罪がもたらしたすべての病い、肉体的、精神的、自然的、社会的、人間生活が営まれる環境の病いも含めて、すべての病いはない。全きいやしがそこにある。のろわれるものはないのだから、二度と病いはない。永遠のいのちは、からだの復活によって全人に及んでいる。一人の人間の完全な贖いと救いと新しい存在の状態だけでなく、神による新天新地は被造世界の完全な栄光に満ちた世界である。

 

Ⅲ  病いをどのように受けとめて生きればよいか

1 基本的に病いはキリストの贖いと深く関係しています。主イエス・キリストを自分の罪からの完全な救い主と信じる者は、その贖いの恵みに与かっているし、主の十字架と死と復活に示された恵み、もちろん新天新地に入る恵みも受けている。それゆえにローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」と告白して地上生涯を歩んで行きます。

 

2 主イエス・キリスト様は、病いの人々をいやされました。生まれつきの障害をもっている人々には、その原因を詮索するのでなく、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」ヨハネ9:3と積極的に言われ、癒されました。主イエス・キリストの祈り、願いは、私たちが癒されることです。原因を詮索する前に、助け、癒し、前向きに生きるようにと励まされるのです。

 

3 主イエス・キリスト様は、ある人々には病気の癒しをなさった後で、もう罪を犯してはいけません、と警告されました。生活の仕方を罪深い道から転換するようにです。私たちが暴飲、暴食、飽食の罪によって自分の身に病いを引き寄せ苦しんでいるのだとしたら、癒されることの祈り求めと同時に、その罪を悔い改めて、生活態度を転換しなければなりません。

 

4 ヤコブ5:13-16「オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

教会がいやしのために奉仕できる道が示されています。

病んでいる人自身が祈ることです。病んでいる人のためにお互いに祈ることです。病んでいる人が長老たち(複数)を招くことです。長老たちを招くのは、霊的必要もからだの必要も神様に依存してクリスチャンは生かされているからです。謙虚になって祈りの必要を求めるのです。長老たちがその人のために油を塗って信仰の祈りをすることです。そのために病んでいる人は心を探って神のいやしをさまたげる罪があるかどうかを反省しなければなりません。罪があれば告白され、キリストの御血のもとに赦しの信仰(第一ヨハネ1:7-9)を持ちます。病にかかる前よりもさらに信仰が深められるのです。

病んでいる人のために教会全体が祈りの奉仕をすることです。それは霊的なレベルでの奉仕になります。病気が治ればよいと言ったレベルでなく、その人の全体的な必要のための祈りとなります。本人も教会も清くあるようにと祈り求め、信仰を働かせるようにと祈り求めることになります。

 

5 パウロのように癒されないことがある。その場合、その弱さのゆえに主の恵みを体験し宣教に生きた。病気に対しては癒されるように祈ることの必要を勧めているし、テモテには薬用にぶどう酒を用いることや、休息をすることを奨励している。病気自体は歓迎すべき事柄ではないが、クリスチャンとしてその状態の中にも主の働きを認め、それを感謝に変えている。

 

6 ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」御霊のとりなし、助けを信頼する。

 

7 最後に一番大切なことは、主イエス・キリスト様が、私たちの罪と病いを負ってくださっている現実に深く感謝し、その身代わりの死と復活のいのちを喜び、賛美することです。その恵みは尽きることがありません。

 

 結び)来るべき救いの完成を心から待ち望み、癒される事を信じて祈り求め、病いとの戦いが続いたとしても、それを受容する日々の中から、たとえ肉体の死を迎えても、なお確かな喜びある復活の希望ゆえに、主イエス・キリストのいのちに結びつけられている者として、御国を目指しましょう。

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