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2018年3月26日 礼拝 説教 コロサイ2:16-23 「キリストにある自由を守りなさい! 」(録音音声あり)

 

コロサイ2:16-23 / キリストにある自由を守りなさい! 2018年3月25日マーク・ボカネグラ

序論

子供たちに一つ質問があります。もしサタンがこの町を支配するとすれば、どういった町になると思いますか?サタンの「理想」の町はどういった町でしょうか?

私がはじめてこの質問を聞いたときに、わたしは、私の母国の首都、マニラのような街だと思いました。貧富の差が激しく、弱肉強食の世界。ビジネスマンは政治家にお金を出して、中小企業または競争相手をつぶすような世界。政治家は国の資本を盗んだり、自分の政治力をビジネスマンに売ったり、儲かっているビジネスマンのお金をとったり、間接的に、または、直接的に、競争相手や敵を殺す世界。闇世界もあり、人身売買や内臓売買もあり、特に子供たちが巻き込まれることが多い、地獄のようなところです。世界各国から安く「快楽」と「ヒト」を買える国でもあり、このような地獄みたいな世界から逃れるために、酒や麻薬、様々な快楽に逃げる人たちも大勢いるのです。

 

もちろん、サタンはこのような町を喜びますが、ある長老派の牧師はサタンの理想都市はこのような町とは全く反対だと考えていました。サタンの理想の町は、ビジネスマン、政治家、町の人が全員、法律を守り、正しく生きている人しかいません。その町はクラブ、麻薬、お酒、たばこ、ポルノが禁じられ、町の人々も子供たちも敬語を上手に使い、町も安全で、歩いている人たちはみな笑顔であいさつしてくれるのです。町はきれいだし、町の皆さんはきれいにごみを分別して、皆さんはエコカーで交通ルールを守ります。そして、町にも、教会がたくさんあります。日曜日はみんな安息日を守り、教会も満員で、礼拝に遅刻しないで、熱心に賛美をし、説教を聞いている人の中には誰一人も寝ず、説教中はメモ帳に数ページ分のノートをびっしり書いています。町の皆さんはすべてを尽くして、犠牲的に、道徳を守り、常に奉仕をしています。しかし、一つだけ欠点があります。説教ではイエス・キリストについて全く触れません。ただ神様が望まれていることと望まれていないこと、すなわち律法だけが、語られています。この町の人々は神様の律法を守っていると思っているので、イエス・キリストの必要性を感じていないのです。これがサタンの理想の町です。

 

サタンの最終的な目的は私たちをキリストから引き離すことなのです。そして、それを果たすために、手段はえらびません。今話した町のように、サタンが密かに人をキリストから引き離す一番有効な方法は、良いもの、特に「律法」を使って、人に変な安心感を与えます。このような方法はコロサイ人の教会にとって最も危ない誘惑でしたが、ルール好きで、道徳的な、秩序を保つ日本人クリスチャンにとっても最も危ない誘惑だと思います。

 

本日の箇所はまさしくそのような誘惑に捕らわれないように、私たちに注意しているのです。そして、私たちにまたキリストにある満ち溢れる恵みを思い出させ、キリストのみの歩みへと導びくのです。本日のメインポイントは、キリストにある死と蘇りによって私たちは自由にされ、成長されているので、人間の好き勝手な宗教を手放し、キリストにしっかり結ばれるべきなのです。このポイントを理解するために、この世がどんな方法でキリストを取り替えているのかを、三つ見ていきたいと思います。そして、この三つの間違えを通して、イエスキリストのすばらしさがより深く理解できると思います。

 

キリストを取り替える一つ目の方法は、16-17にある「キリストの影を楽しむ」ことです。

 

16節をお読みいたします。

2:16   こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。

 

コロサイ人の教会は様々な「宗教的な」批判を受けていました。実は、宗教的な異邦人、すなわち、ユダヤ人以外の人からも批判を受けていたのです。ギリシャとローマの宗教観では、よく肉を食べない、そして、お酒を飲まない習慣がありました。そして、異邦人の宗教でも、様々な祭りがあり、自分たちの神様に生贄を捧げたり、いろんな儀式を行ったり、派手に自分たちの宗教心をあらわすことがたくさんありました。そして、宗教的な異邦人にとって、洗礼と聖餐式という非常に地味な儀式しか行わず、自由に飲み食いできるクリスチャン達を見て、クリスチャンは非常に「この世の中」的で、この世の楽しみに捕らわれ、宗教心がない者達だとみなされていたのです。

 

また、コロサイ人の教会はユダヤ人からの宗教的な批判も受けていました。ユダヤ人は自由にお酒を飲むことはできましたが、食べ物に関しては厳しい規定がありました。その規則にそって「祭りや新月や安息日」を忠実に行っていました。旧約の時代には、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り、七週の祭りなどの色々な祭りを行う必要があり、様々な規則に従いながら生贄を行う義務があったのです。16節と同じ「祭りや新月や安息日」のフレーズを使っているエゼキエル45:17節をお読みいたします。

Ezek. 45:17 君主は、祭りの日、新月の祭り、安息日、すなわちイスラエルの家のあらゆる例祭に、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、注ぎのぶどう酒を供える義務がある。彼はイスラエルの家の贖いのため、罪のためのいけにえ、穀物のささげ物、全焼のいけにえ、和解のいけにえをささげなければならない。

ですから、ユダヤ人にとって、クリスチャンとは非常に怠慢で、神様に対して無礼で、宗教心のない信徒たちでした。異邦人も、ユダヤ人も、クリスチャンたちは誰も「本気な」信徒ではなく、みんな「なんちゃってクリスチャン」だと見ていました。ユダヤ人と異邦人は、神様のためにいろんなことを熱心にしていること、そして、自分達が忙しくいろんなことをちゃんとやっている姿に非常に満足していて、宗教的な習慣を楽しんで、クリスチャンを見下していたのです。

 

そういう批判を聞いていたので他人の目を気にしていた、コロサイ人のクリスチャンは不安になっていたのです。「わたしは本当に神様をもとめているのだろうか。わたしはもっとやるべきだよね…こんな怠慢で、なまぬるいみじめなクリスチャンでいいのかな…」と考え始めたのです。

しかし、パウロはそのように不安になっているクリスチャンに、2:17に書いてあるように、はっきりと強く注意するのです。「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」なぜかというと宗教的な儀式は、「次に来るものの影」であり、キリストの影だったのです。祭りと生贄の目的は大きく二つありました。そして、異邦人の宗教とユダヤ教の目的はほぼ同じです。それは、1)神様と関係を持つためであったこと 2)これから来る神様からの救いを思い出すためだということ です。生贄を通して、信徒たちが清められ、神様の御前に立つことができ、祭りをとおして、信徒たちが求めている救いと天国にある喜びを味わうことができたのです。

 

しかし、コロサイ1章と2章を読めば、イエス・キリストを通して、私たちが求めていたものが全て与えられたということがわかります。イエス・キリストを通して、私たちは完全に満たされているのです。イエス様は十字架と蘇りを通して、神様との完全な関係と、完全な救いを私達に与え下さいました。素晴らしいことに、私たちが今信じているものは「影」ではなく、神の満ち満ちた御性質を持っていらっしゃるイエス・キリストご自身なのです。

ですから、私達が求めていたものが与えられているのなら、もうそのような儀式は必要ないのです。ただ、「イエス・キリストに立ち返りなさい」とパウロは強く注意します。私の勝手な想像かもしれませんが、パウロはここでコロサイ人に対してちょっとイラっとしているんじゃないかと思います。「イエス・キリストの実態があなたの目の前にあるのに、実際、彼と話すことができるしイエス・キリストと楽しく交わることができるのに、なんでイエス様の影を熱心にあちこち追いかけて、その影に話しかけて一人で楽しんでいるの?それがどれだけバカバカしいことかわかっているの?」と憤っていることと思います。

 

「自分は違う」という前に、忘れてはいけないのは、「キリストの影」はキリストのようなもので、良い宗教的な習慣だけど、微妙に違うものなのです。ここに自分の心の状態をチェックできる質問があります。「あなたは自分のクリスチャン的習慣を通して、他のクリスチャンを見下すようなときがありませんか?」そして、クリスチャン的習慣を使って「格差」を作ってしまう傾向がありませんか?ある宗教的な習慣を通して、自己満足しながら、自分は「大丈夫」だと考えているときはありませんか?これは伝統的な物事に限っていません。これは「新しい」「若い」「現代」の習慣にも適応できることです

もちろん、宗教的な習慣は信仰を補うものでもありますし、それらを通してイエス・キリストに近づくことはできますが、その習慣を行うことはキリストご自身にのみより頼むという信仰ではありませんし、イエス・キリストご自身と結ばれることでもありません。イエス・キリスト御自身と結ばれる手段は限られています。御言葉、礼典とお祈りを通してのみ、イエス・キリストご自身と結ばれることができます。それ以外の習慣または手段は、キリストと直接的には結ばれません。そしてさらに言うと、御言葉、洗礼、聖餐式、お祈りもただの手段なのです。何回御言葉を聞いても、何回礼典を頂いても、何回お祈りしても、キリスト御自身により頼む信仰がなければ、何の益もないのです。

 

John 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

John 5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

 

ですから、要するに私たちは御言葉にあるイエス・キリスト御自身により頼む信仰で人を見ているのか、または、あるクリスチャンぽい習慣、性格、雰囲気、あり方を通して、人を見ているのか。

 

キリストを取り替える方法の二つ目は、18-19節にある「苦労やキリスト以外の力、特別な知識による成長」ということです。

 

2:18-19節をお読みいたします。

Col. 2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、Col. 2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。

 

18節では、キリストを取り替える方法がもう一つ挙げられています。その方法の目的は「ほうびをだまし取る」ことなのです。そして、19節の文脈をみると、そのほうびは「霊的な成長」だとわかります。要するに、この方法は「霊的な成長」を約束するのですが、実は、全くそういう効果がないということなのです。

 

18節を見ると、コロサイで「ほうびをだまし取る」ものには大きく4つの傾向が見られます。一つ目の傾向は、「苦行生活」です。「自己卑下」をさすギリシャ語を直訳すると「謙遜さ」という意味がありますが、ここの文脈では「偽りの謙遜さ」というニュアンスがあります。23節に書いてあるように「肉体の苦行など」によって、霊的に成長できると思っていたようです。自分に苦しみを与えることによって、自分が鍛えられ、神様に近づくことができると信じていました。日本でもそのような発想がありますね。滝の下で滝に打たれて、その痛みを通して悟りを得ようとする姿はよくメディアにありますね。そして、一般の日本社会でも「人生は修行だ」または「苦は楽の種、楽は苦の種」のような発想が強く根付いていると私は個人的に思います。

そして、このような発想が日本人クリスチャンの考え方に染み込んでいることはないでしょうか。「忙しく、苦労している方が、霊的に成熟している。忙しくなく、苦労していない人は、未熟だ。」という発想はないでしょうか?クリスチャンが自分の「苦労と忙しさ」を分かち合う時、「謙遜」に聞こえることもありますが、実は心のどこかで本当は「苦労」や「忙しさ」を誇っていることもあるのではないでしょうか。どうして、そんな事がいえるというと、わたしもそういうことがあるからです。もちろん、聖書には苦しみを尊重しているところもありますが、この世から来る価値観の色のほうが濃いと私個人的には感じます。

 

二つ目の傾向は、「御使いを礼拝する」ような傾向です。不安なコロサイ人たちは、イエス・キリスト以外の御使いたちに悪と苦しみからのお守りをお願いして、同時に「成長」も求めていました。残念ながら、御使いを礼拝する形に、落ちてしまいました。私たちも、イエス・キリスト以外の力を借りながら、その「力」を一つの神のように考えはじめ、その力に従い、礼拝することはないでしょうか。宗教的な「力」の場合もありますし、無宗教的な「学歴、会社、成功、お金、名誉」などの場合もあります。

 

三つ目の傾向は、「幻を見たことに安住している」ことです。当時、神様から、または御使いから、特別な啓示を求めていた人たちもいました。そして、他の人が持っていない、その「特別な知識」によって、「自己啓発」できると信じていたのです。そして、この「特別な知識」によって、変な安心感も抱いていました。みなさんも似たようなことがありませんか?他の人にあまり知られていない「特別な知識」によって、自分が成長していることに満足しているところがありませんか?

これもまた、宗教的な「特別知識」の場合もありますし、無宗教的な「ビジネス知識や人生経験、学歴、独学した知識」などの「特別知識」の場合もあります。

 

四つ目の傾向は、「肉の思いによっていたずらに誇る」ことです。苦労していて、キリスト以外の力や特別な知識があるから「私は他の人と格が違う」という態度です。それは、これらによって自分が「霊的に成長している」と思いこんでいることです。しかし残念ながら神様から見ると、苦労やキリスト以外の力、特別な知識の中には霊的な要素が全くなく、成長している姿も見られないのです。ただ自分の肉の思いによっていたずらに誇っているだけなのです。

 

それはなぜでしょうか。ここでまたイエス・キリストにあるすばらしさを見ることができます。私たちがかしらであるイエス・キリストに堅く結ばれていないからです。霊的な成長はイエス・キリストからのみ来るのです。当時の人間の体の理解では、頭が体全体を養い、成長を与えると思われていました。そして、私たちはかしらであるイエス・キリストから、必要な養いを受けて、成長することができるのです。イエス・キリストとますます結ばれることによって、「神による成長」または神秘的で、神聖な成長が与えられると約束されています。「こんなに素晴らしい恵の泉の基が与えられているのに、なぜイエス・キリストだけにとどまらないのか!」とパウロは強く注意しているのです。

 

しかし、私達がイエス・キリストにとどまらない理由は、私たちが、人の上に立ちたがったり、人の前で誇りたがるような罪深い者だからです。イエス・キリストにある成長は、苦行生活と違い、誰でもイエス・キリストと結びつくことによってできることなのです私たちの苦行によってではなく、イエス・キリストが私たちのために苦しみを受けてくださったから、私たちが成長できるのです。イエス・キリストにある成長は、御使いを礼拝する者と違い、力の格差などなく、まったく同じ聖霊様が私達ひとりひとりに働いてくださっていて、すべての人に神様の同じ力が与えられているのです。そしてイエス・キリストにある成長は、神様の奥義であるイエス・キリストがみんなに宣べ伝えられ、全く同じ聖書が与えられ、知識の格差も全くないのです。だれも誇ることはできなないのです。これがキリスト教と他の宗教の全く違う点でもありますし、キリスト教のすばらしさでもあります。

 

そして、最後に、キリストを取り替える三つ目の方法は、20-23節にある「DIY宗教で罪と戦う」ことです。

 

「DIY宗教」という言葉に戸惑う方もいらっしゃるかもしれませんが、実際にそういうギリシャ語が使われています。2:23節をお読みいたします。

Col. 2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

「人間の好きな勝手な礼拝」のギリシャ語は、辞書を開くと、”do-it-yourself religion”と定義されているのです。DIY宗教ですよ。ちょっと笑えますよね。しかし、先ほど述べたキリストを取り替える二つの方法の根源は、ここにあるのです。無神論者からキリスト教をちょっと改造した世界観まで、イエス・キリスト以外の世界観は「DIY宗教」を意味しているのです。神様の御言葉よりも自分の考えで好き勝手に神様を礼拝するということです。

 

「DIY宗教」で想像できますよね。神様が素晴らしい家を与えます。イエスキリストの死と復活によって造られた、大きくて豪華でキレイな屋敷が与えられますが、私たちは自分で自分の小さな道具で、薄っぺらいベニヤを使って、適当に設計も何も考えずに勝手にDIYで自分の小屋を作るのです。自分で家をつくることは謙遜で、賢そうに見えるかもしれませんが、すでに素晴らしい屋敷が与えられているのであれば、本当にバカバカしいですよね。

 

しかし、なぜコロサイ人はDIY宗教を行ったのでしょうか。それは「肉のほしいままな欲望」または「罪」と戦うためだったのですが、何の効き目もありませんでした。どれほど宗教的な習慣を行っても、どれほど自分の努力で自分を苦しませ鍛えても、どれほどいろんなものを費やして力を得ても、どれほど勉強して特別な知識を得ても、私たちの罪を全くコントロールすることはできませんし、何の効き目もないのです。歴史上一番ひどい台風の中で、自分のDIYの小屋で安全を確保するようなことです。

 

では、具体的に、DIY宗教の本質は何でしょうか?どのように罪と戦うのでしょうか?そして、キリスト教とどう違うのでしょうか?20-22節を読むと、DIY宗教には二つの要素があります。1つ目の要素は、DIY宗教は人間の戒めと教えでつくられ、絶対に滅びへ導く宗教だということです。前回説明したように、歴史的に見ても、人間の戒めと考えは知識、知恵、力には 限りがあり、間違いがあり、どんな哲学であっても問題があるのです。何千年の人間の歴史を見て、罪をコントロールできた人間の戒めと教えはあったでしょうか?もしないのなら、自分の人生と愛する人の人生の全てを「DIY宗教」のみに簡単にかけられるでしょうか。

 

2つ目の要素は、DIY宗教の根本というのは「律法主義」なのです。「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めは、「行いによる世界観」を描いているのです。規則または律法を守れば、報われる、もし規則が守れなかったら、報われないというシステムなのです。そして自分の行いによって評価される世界なのです。不思議なことに、キリスト教以外の宗教でも、哲学、世界観は全て「行いによる世界」です。しかし「律法主義」の最終的な問題は、人は自分がやりたいことを思うようにできないということです。

 

だからこそ、パウロは20節で鋭い質問をします。「 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのようにこの世の定めに縛られているのか」?

 

パウロは私たちになぜイエス・キリストが十字架にかかったかという理由を思い出させているのでしょうか。キリスト教は「恵みのみによる世界観」です。イエス・キリストは私たちの代わりに律法の重いくびきを背負われ、律法を完全に成就され、律法の罰を受けて下さいました。それは、私たちの律法のくびきをとり外すためだったのです。しかし、クリスチャンが自らこの重い「律法」のくびきをつけるということが、パウロにとっては、まったく理解できませんでした。

 

子供たち、かなり前の話ですが、囚人服の例えを覚えていますか?私たちは一人一人神様の前に罪人で、派手なオレンジ色の囚人服を着させられました。そして、オレンジ色の囚人服を着ているせいで、サタンとこの世は犯罪人として私たちをいろんな方法で苦しめ、支配し、責め続けるのです。しかし。もちろん、私たちは罪人ですから、何にも言い返せません。そんな私達のために王様の服を着ておられるイエス様が私たちの名前がついているオレンジ色の囚人服を着て、死刑台へ行き、私たちの代わりに罰を受けます。要するに、私たちはイエス様と共に死んだのです。その代わりに、私たちはイエス様の王様の服を着て牢屋から出て、律法とサタンの訴えから解放されました。それが前回の話だったのです。

 

しかし、もし私が死刑台から解放されて、王様の服を着て自由に生活しているとき、他の人をみて、「みんなはオレンジ色の服を着ているし、みんなはサタンの訴えもよく聞いているし、まだ牢屋に入っているし、私は本当にこれで大丈夫なのかちょっと不安」だと思い始めるなら、みなさんは私に対してどう思いますか?本当に理解できない話ですよね?「あなたはイエス・キリストが何のために死んだのか、忘れているのかい!」と私に怒るかもしれません。

 

しかし、私たちは日々そのようなことをしがちです。イエス・キリストが私たちを救ってくださったのに、不安な私たちは自ら自分が造った宗教に縛られ、この世の律法のくびきを背負うのです。しかし、パウロはこういいます。

Gal. 5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

サタンはいろんな方法で私たちの自由を奪い取ります。宗教的な習慣。努力による成長。特別な知識による成長。人間の好き勝手な宗教。そして、最終的に、私たちをまた律法の下へ導き、私たちを支配したいのです。だからこそ、私たちはイエス・キリストから頂いた自由を握りしめて、イエス・キリストと堅く結びつき、信仰をもって歩む必要があります。非常に地味な方法かもしれませんが、その信仰によって、「神様による成長」が与えられるのです。それを期待して、お祈りしましょう。

 

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