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2018年4月15日 礼拝 説教 マタイ6:1−4 「天の父の前で」(録音音声あり)

 

2018年4月15日「天の父の前で」 マタイ6:1-4

序文)主イエス様は、当時のユダヤ人が宗教生活で敬虔かどうかの判断として重視していた、「施し」、「祈り」、「断食」について、その遵守の仕方を教えられました。これらを主は肯定しておられました。クリスチャンは、主イエス様に従う生活を送っています。ここに教えられている三つの課題は信仰生活上の基本的課題なのです。施しは対人関係の課題です。祈りは対神関係の課題で、断食は対自分の関係における課題です。自覚的にそれぞれの課題を実践しながら信仰は成長していきます。その守り方の眼目についてのご注意が主から与えられているのです。1節は、18節までの三つの課題に対する、序論として話されました。今朝は、序論と「施し」に焦点を合わせて考えましょう。

 

Ⅰ 序論 1節 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。 そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」

「善行」と訳されている原語は、すぐ前の5章で「義」と訳されています。文脈的には、5:20でクリスチャンの義は律法学者、パリサイ人の義に優っていなければならない、ということを教えられて、21節から、48節まで、義の生活について話されました。6章に入り、律法学者、パリサイ人たちが、宗教的な善行(義)について取り上げられ、それをクリスチャンとして、どのように、勝ることができるかを教えられました。主イエス様が信仰生活を守る上で基本的な課題について、注意すべき中心点を、まずお話になりました。それは宗教上で、遵守しようとすることがらは、あくまで神の前で、神に対して行なうという視点であります。人に褒められるために、人の前で行うのではありません。語られている事は明快で、疑問の余地はありません。「善行」は良いわざです。それは、見せびらかすためにするのではないのです。このように言われることで、律法学者、パリサイ人の義に欠けている点を分からせようとされました。それは人に見せるための善行であったのです。

 

Ⅱ 2〜4節 施しをするとき

1「施し」はユダヤ教においては、宗教的義務であった。「施しは、必要を覚えている人々に、金銭や物品を持って援助を差し伸べることです。」この原語は「憐れみ深い者」という名詞から取られた動詞を使っています。「慈しみ」「誠実」と言ったり、時には「義」と表したりもしました。申命記15:5-8「ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行わなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちでも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。進んであなたの手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」

 

社会福祉制度などがなかった時代に、社会的貧困者に自発的寄付をして助け合って行くようにと律法があったのです。ペテロたちが神殿の入り口のところで、施しを求めていた生まれつき足の萎えた人に、「金銀は私たちには無い。主イエスの名によって歩け」、と言って癒しを即座に行った記事の、背景には、このような旧約以来の伝統がユダヤ社会にあったことを覚えさせます。

2 問題は、その施しの姿勢にありました。

「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」自己顕示の譬えになっています。自分に人々の注意を引くようにと施す。「偽善者」(原語では役者とも訳できる)はマタイの福音書では、ほとんど「律法学者、パリサイ人」をさして使われる形容詞となっています。見せびらかしの敬虔。聴衆に見せようと演技をしている「役者」のようであってはならない。人にほめられれば、もう、報いは受けてしまっている。

 

3 「施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないように」

これは誇張法である。実際問題として、両手をつかって施しをするから、一方に知られないようにはできない。知られざるを得ない者に対してさえ、知られないように、細心の注意を持って行うように!

善行は自己義認や自己顕示などに転化する危険性をいつもはらんでいます。

現代の教会、種々のキリスト教団体、個人が献金や支援活動に携わるとき心すべき事柄があるのです。

マタイ25:31-46

主に褒められた人は、自分がした善行を覚えていない。忘れてしまっている。それほど、目の前の小さな人々の必要を満たそうと集中している。イエス様はわたしにしてくれたと言っておられる。

 

Ⅲ 4節 隠れたところをみておられる父が、報いてくださる。

隠れた善行に神は報いて下さる。神は隠れたことをみておられる。詩篇33:13-15「主は、天から目を注ぎ、人の子らの全てをご覧になる。御座が据えられた所から、地に住むすべての者に目を留められる。主は、一人ひとりの心を形造り、わざのすべてを読み取る方。」神は隠れておられて見えないのです。しかし、人が隠そうとしていることを見ておられるのです。

そして、報いを与えられるのです。2節の「すでに、自分の、報いを受けているのです。」の報いは、現在形で、現在請求通り、すでに報いを満額受け取っている、を意味していますが、ここの「報い」は未来形で、これから終末の裁きの時に神から受け取る報いのことなのです。

神は人の行為に対して褒美をくださるのです。箴言19:17「貧しい者に施しをするものは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。」

第二コリント5:10「私たちはみな、善であれ、悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」しわざに応じた報いを受け取ることは、神が正義を愛の方であるからです。

コロサイ3:1-4。「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」

 

神様は、来るべき世で、めぐみをもって「報い」を下さると約束しておられるのです。ですから、それを待つことは聖書的です。

パウロは第二テモテ4:6-8と申しました。「義の栄冠が私のために用意されている」と断言して、神の御前に出ようとしています。それは、「主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」とも断言しています。

 

結び)

「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の聖名のために愛を示しました。」ヘブル人への手紙 6章10節

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