コメントはまだありません

2018年9月23日 礼拝 説教 マタイ7:13-14、ルカ13:22-30「狭い門から入れ」(録音音声あり)

2018年9月23日 マタイ7:13-14 ルカ13:22-30 「狭い門から入れ」

序文)主イエス様は、山の上の説教を5章1節から始められた。教えの数々は、天の御国から地上に使命を帯びて降られた主が、打ち立てようとしている神の国・天国・神の支配にある国の生活指針である。神を信じない者たちのようにではなく、信じる者のように生きることとはどのようであるのかであった。7章12節の「人生と人の生き方の黄金律」で、生きる方針は完結した。

13節以降は、その教えの実践において実を結ぶことの重要性を訴えられている。主の説教は聞くだけでは何にもならない、実践して実を結ぶことが求められている。その手始めが、「狭い門から入りなさい」である。

 

1 門は狭い

主イエスは、門は狭いと言われました。この狭さは、キリストにある人生の歩み方の狭さ、狭い門、狭い道だと言われました。私たちが、利己的なしわざ、罪にあたるはなはだしい物欲や、世間的な名声などを背負ったままでは、到底くぐることができないような狭い門というのです。

主イエス・キリストにある地上人生の入口は狭いのです。福音を広く、少々のことを妥協しても入れるほどのことと考えると、それは違うとイエス様は言われました。確かに山の上の説教の内容は実践する際に、狭さを覚えます。

狭いので、入るときに余計なものを捨てて身軽にならなければならない。後生大事にしている重荷の数々を、おろして、捨てる。大多数の群衆がしている生き方を捨てる。クリスチャンの生き方は、世間からは例外的存在と見られる。異例であると扱われる。一般的家族と違う、学校仲間と違う、主の主を、人生に一番大事な主と仰いでいるので、何事も主が第一位を占める。主から賞賛を得たいと歩む。「よくやった。忠実なしもべよ」。主から離れて、自己実現のためには仲間や世間の賞賛を浴びることを目指すような生き方は求められていない。時には「父、母、兄妹」を離れ、主イエスに従う歩みをする。14節「いのちにいたる門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。それを見出す者はわずかです」。このような歩みは、困難という狭さを通ることになる。様々な技術を身につけて、一流になっているわずかの人々は、訓練と忍耐と修練という細い困難な道を越えてきた人々です。野球の三割バッターは、一流ですね。四割バッターがいれば天才と言われます。100M走者は、9秒台を出せば金メダルと言われていますね。8秒台はあり得ない。人間が走れる限界を超えているからでしょう。音楽家、芸術家、料理人、どの文化的分野でも、群を抜くほどの技量を身につけたのは、細い困難な道を乗り越えたからです。主イエス様に従う信仰の道は、細い道です。しかしその道を行く者は成熟した一流の信仰者とならせていただけるのです。困難な信仰の戦いが一生続くからです。ゴールに入るまで続きます。聖霊の支えが、その道を行く者に常にあるからです。

 

2 ルカの福音書13章23-27節では、「救われる人は少ないのですか」との問いかけに、主が「狭い門から入るように努めなさい」と答えられた。それに続く話の内容は、救いに入る時間的な狭さ、緊急性、門が開いている間に入らなければならないという狭さなのです。神の国の救いは、このような性質を持っているのです。時が来ると、主人が門をとじてしまうというのです。すると二度と入れないのです。

そのとき、自分が入れなかった理由を、どれほど並べ立てても、だめです。主イエス様が提供される機会を利用しなければならないのです。主がさまざまなめぐみの機会を設けて、伝道の門戸を開いておられる間に、招かれ続けているのであり、天国に自由にすぐにも入ることができます。

ところが、多くの人々は門に入ろうとしないで、仲間といっしょになって、門の外で、放浪しているうちに、扉は主人により閉められてしまいました。帰ろうと思ったときは閉め出されているのです。今、信仰に入らなければなりません。

 

さらに次に大切なことは、入り損なった人に対する主人のことばが、今日の私たちに対する警告となっています。

主人といっしょに食べたり飲んだりしたとか、大通りで教えていただきましたとかいうのでは、だめなのです。キリストの教えに接したことがある、キリスト教文明の一員である。といってもそれでクリスチャンであるとはかぎらないのです。教会に出入りしてその恩恵に浴するかもしれません。しかし、審判者の主人は「あなたがどこの者かわたしは知らない」25.27節「どこの者」とは、その人の本質の由来を問うています。バブテスマのヨハネは「天からか、人からか」とイエスさまが敵対する者に問われたとき、人々は「天からだといえば、ではなぜ彼を信じなかったかとイエスがいうし、人からだといえば、民衆は皆、ヨハネを預言者だと信じているので、私たちを石で打ち殺すだろう」と思い、ついに「どこからか知りません」と答えました。「どこの者」とは、「どこに属する者」か、と言う問いです。どこからの者か、というのです。「神によって生まれ変わった人か、地につけるままの人か」というのです。イエス様は本質的に生まれ変わっていない人は、地につけるままの人で、天につける者ではない。それで「知らない」と審判者イエス様がおっしゃることにより、しめだされるのです。このような狭さがあるのです。

自分は信じたからそれでいいと言って、主人の家の内側にいるべきなのに、今は外に出てしまったままで大丈夫だろうと入ろうとしなければ、時、既に遅しとなる危険性があるのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。」これが第一の戒めである、と言われたクリスチャンの道を誤解してはなりません。主人イエス様をあなどり、主人のいましめ、お心を軽んじるものは、時が来て、閉め出されている自分を発見します。

信仰の道を全うするための狭い門からはいるための努力は「規定にしたがって競争するのでなければ栄冠は得られない」(テモテ第二 2:5)といったことばと同じ文脈にあります。

アブラハム、イサク、ヤコブ、すべての預言者たちが神の国に入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、泣き叫んだり歯ぎしりしたりする。

 

3 今しんがりの者が、あとで先頭になり、いま先頭の者が後でしんがりになります。地上で、どのように先を歩んでいても天ではしんがりになる。しんがりを歩んでいるようでも、天では先頭になる。このことばは神の国ではかくれた戦い、本人のすべての努力があらわになるので、多くの驚きと狼狽がある事を示しています。ユダヤ人たちは神の選びを受けていました。賜物も与えられていました。特権もありました。しかし、それらに頼って生きていても、むなしいのです。傲慢が砕かれて、捨てられたと見られていた異邦人が最も高い栄誉と特権を受け、ユダヤ人が最も低いことになる。

結び)この世で無視されているけれども、ひたすらに祈り、賢明に戦い、主に付き従った者が、天国では最高の扱いをうけるのです。

いつでも主が共におられることを知っている歩みは、どのように細く狭く困難な闘いのある信仰生活でも、実は、主が私たちを支え、満たし、運び、御国のゴールまで入れてくださるので、実に光栄な歩みなのです。

 

終わりに次の言葉を読みましょう。「エペソ4:17-24」(新改訳2017)

「ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは知性において暗くなり。彼らのうちにある無知と、かたくなな心ゆえに、神のいのちから遠く離れています。無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。しかし、あなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はキリストにあるのですから。その教えとは、あなた方が以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなた方が脱ぎ捨てること、また、あなた方が霊と心において新しくされ続け、真理の基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」

コメントを投稿