2018年1月28日 マタイの福音書5章17-20節 「キリスト・律法の成就」
序文)地の塩・世の光であるクリスチャンの生活をさらに浮き彫りにするために5章17節から7章14節まで、イエス様はどのような生活が光であるのかを教えられました。これからの文脈の中心は「義の生活」なのです。この主題のために5:17−20は序論部分となっています。原則が語られています。私たちの生活の底流にいつも覚えられていなければならないものです。
第一は、主イエス様は律法や預言者の語ったことを成就するために来られたこと
第二は、クリスチャンの義は律法学者、パリサイ人の義に優っていなければならない、ということです。
Ⅰ 主イエス・キリストと律法の関係
1 神が人間の義に言及される時、はっきりとした規準を持っておられます。神の永遠不変の法に照らして義か不義かを判決されます。神はその法を選民ユダヤ人にはっきりと示しておられるのです。預言者たちはそれを解説して来ました。それが旧約聖書です。イエス様はこれを「律法」と呼んでおられました。また旧約聖書は救い主が来られるという預言書でもありましたので、「預言者」とも呼んでおられました。「律法と預言者」は旧約聖書全体を表すことばとして用いられていました。「律法」は道徳律法、儀式律法、司法律法の三つの部分から成り立っていました。儀式律法の中には、救い主預言的な型も入っていました。預言者は実際に律法を教え、これを適用し解釈しました。民を真の律法に立ち返らせること、さらにメシアの到来を預言しました。
主イエス様はここで旧約聖書を成就するために来たと語られたのです。「成就する」は満たすという意味でもあります。完成する、終了させるという意味ではありません。すでに始まっていることに何か付け加えるというのではないのです。旧約聖書がある教えを説く時に、ある程度までそれをすすめた。そこへイエス様がやって来て仕上げをした、というのではありません。
成就したとは、旧約聖書を実行した。完全に教えに従ったという意味です。律法と預言者に語られていることは一つ残らず文字通り実行した。満たしたということです。さらに律法全体の根本を掴んで、それを守ったということです。
「廃棄する」はバラバラに分解するという意味です。律法や預言者のことばを分解し、相互の連絡を失わせ、無意味にしてしまうということです。
旧約聖書はイエス・キリストが来られるまでは、その律法は誰も守りきることができない空文だったのです。その預言も予告に過ぎなかったのです。イエス・キリストが来て、初めて「律法と預言者」に一つの大原則が全体を貫いていることが分かったのです。主イエスこそ旧約聖書を満たして意味あらしめたお方です。イエス様が言われた通り「律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」(18節)。旧約聖書の一点一画が変更されて天国に入る条件や、資格が変えられたのではなく、むしろ、はじめて、旧約聖書の意味が明白になったのです。神の律法は不変であって、天地の滅びゆくまでは廃止されたり効力を弱められたりすることはないのです。天地が存在する間は、一点一画すらすたることはないのです。主イエス様が来て、この不変の法を成就し、実行し、完全に服従されました。『神の約束はことごとく、この方において、「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです』(第二コリント1:20)。
2 旧約聖書と私たち
旧約聖書全体は、イエス様にとって全て信じ従うべき、神のことばでした。クリスチャンは同じ態度で旧約聖書に向かわなければなりません。旧約聖書の全てが神のことばです。そしてその一点一画ことごとく成就するまでは意味を持っているのです。
預言は主イエス・キリストにおいて成就しました。けれども、やはり今でも、これから成就する部分、再臨、最後の復活、最後の審判などが残っているのです。律法はどうでしょうか。儀式律法は完全にキリストにおいて成就しました。主の死と復活と昇天において全面的に成就した。その確認として神殿はのちに破壊された。神殿の幕は主の死において二つに裂けた。司法律法は、本来特に神政国家としてのイスラエルのために、当時の特別環境に応じて与えられた。イスラエルは現在神政国家ではない。主はその使命を終わる時ユダヤ人に「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」(マタイ21:43)と言われました。
道徳律法は先の二つと違います。神は永久不滅なもの、ご自身と人との間にいつも存在しなければならない関係を設定しています。道徳律法の全ては、主が第一で最大と言われたものの中に、ことごとく見いだされます。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(ルカ10:27)。これは永遠の定めで全人類に宛てられている。第二の戒めも同様です。この道徳律法は私たちが完成されるまで、世の終わりまで有効なのです。
クリスチャンは律法は行いの契約であるという意味で繋がっているのではありません。この点からは律法の元にはいないのです。神との契約関係としての律法の元にはいないのです。しかし、生活規範としての律法から解放されたという意味ではないのです。恵みの元にあるということは、律法と無関係という意味ではないのです。恵みの教理を誤用して、罪深く生活を続けることは赦されてはいません。「恵みがまし加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません」(ローマ6:1-2)。恵みによって私たちは律法を守ることができるものとされます。恵みとは人を律法の呪いから解放したのちに、人が律法を守り、こうしてキリストが義であるように、義となることができるようにしてくださるのです。義に飢え渇く者と私たちは作り変えられたのです。
Ⅱ 第二は、クリスチャンの義は律法学者、パリサイ人の義に優っていなければならない。(20節)
1 律法学者 彼らは民の中で最も傑出した人々でした。律法の教えと解釈に時間を用い、律法について偉大な権威者となっていました。
パリサイ人 その尊厳性ゆえに傑出していました。モーセの律法そのものよりももっと厳格な儀式律法を作り守ろうとしました。例えば断食は旧約では年一回で良い(レビ記16:29-34)。彼らは週二回守ろうとしました。人々はこれらのパリサイ人を手本にしていました。
ところが主イエス様は、あなたがたの義が律法学者、パリサイ人の義に優っていなければ決して天国に入ることができないと言われたのです(20節)。主は人々がパリサイ人の影響下に生活していることを知っておられました。そして主はつねにその教えの虚しさをしめそうとされました。彼らの神と宗教にたいする態度はマタイ23章全体に幾度も「彼らは忌まわしい」と実例をあげて非難攻撃されています。大変なまちがいでありました。主は彼らと同じ信仰の在り方ではダメだと言われたのです。
真の礼拝を捧げることと、真の礼拝に関係のあることにより頼むこととは別である。毎週礼拝に「出席」することと、礼拝を心から捧げることは別である。心からの信仰ではなく形式だけの信仰はダメである。道徳面よりも儀式面により強い関心を抱くだけではダメである。神の律法よりは自分の法を盾にする。自分の罪を合理化したり、理屈をつけたりして、自分のしていることや、していないことに言い訳をする。このようなパリサイ人的な信仰の守り方ではダメだとイエス様は言われた。自分の義に関心がある。神の栄光でも名誉でもない。自己満足、いつも自分はこれをした。神のご性質、ご存在を忘れる。
私たちは自分に痛みなしでは聞けない主の警告なのです。
Ⅲ 主イエス様は、ここで何を教えておられるのか。
行いによる救いでしょうか?天国に入るためにパリサイ人の生活に優る生活をするようにと言っておられるのでしょうか。そうでないことはわかっています。しかし他方で救い主イエス様の義によって救われたのだから、私たちが何をしようと問題にならないということも間違っています。
私たちは主イエス・キリストにおける恵みによって改心していると主張するとき、それはキリストが十字架の上で私たちのために死んでくださったからでした。それで私たちの罪は赦されたのでした。しかしそれだけではありません。私たちのいのちが新しく生まれ変わらせられて、新しい神の子としての性質にあずからせていただいたのです。キリストが私のうちに形作られつつあるのです。神のご性質にあずからせていただく者とされているのです。古いものは過ぎ去り、全てが新しくなった。
キリストが私の中に住んでおられるのです。キリストの義を持っている人とされたのです。この義はパリサイ人の義にはるかにまさる義です。
結び)クリスチャンはもはや自己義認、自己満足ではない、心貧しく、柔和で、憐れみ深くなっているのです。義に飢え渇き、心が聖められつつあるのです。神を愛し、神のみ心である愛の律法を行いたく願っているのです。そして行おうと祈り、行っているのです。これこそパリサイ人の義にまさる義なのです。