2018年11月4日 聖書朗読 マタイ8:18-22(ルカ9:57-62)「人の子に枕する所なし」
序)主イエス様が、大群衆を避けて、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとされました。
弟子たちにも向こう岸に渡るように命じました。
Ⅰ 奉仕は、限界を超えてはいけません。休息が必要です。
なぜ向こう岸に行こうとされたのかというと、8:24に嵐に見舞われた船の中で「イエスは眠っておられた」とありますので、大群衆に仕え続けて体力の限界を超えそうだった。疲れ果ててしまわれたと考えられます。私たちも、体力の限界を超えて奉仕することは避ける必要があります。それは命取りになる危険性があるからです。休息のためにも向こう岸に逃れる必要がありました。それで、渡るには船の準備が必要です。そうこうしているときに、主に従うつもりの二人が登場しました。主に従うこと(弟子)の道について、一人一人にふさわしく主イエス様が答えられた記事が、今朝の聖書箇所です。日頃、主イエスに従っている私たちです。その覚悟のほどを省みさせる主のおことばに耳を傾けましょう。
Ⅱ 20節 「人の子には枕するところもありません。」
一人の律法学者が、イエスさまに「先生、あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と申し出ました。律法学者はイエス様に「先生」と呼びかけています。マタイの福音書は「先生」という呼びかけは、尊称にすぎなく、部外者が使う言葉として紹介しています。「主」と呼びかけている場合は、本当にイエス様に従ってきている者たちの使う言葉として紹介している。それでも律法学者が「どこに行かれても、ついて行きます」といったことは、とても勇気のいる言葉でした。どこにでもついてゆきますと言い切ったすばらしさがあります。このことばには責任が伴います。キリストの弟子として従うという事は、その先にどのような困難があるか、また光栄があるか、前もって計り知る事ができません。普通なら、このような追随者が表れると大歓迎です。一人でも仲間は多い方がいいのです。12弟子たちはきっとそう思ったに違いありません。
ところがです。イエス様は彼に向かって「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と答えられました。現代的にいうと、わたしにしたがうことは「ホームレス」になって日々を送ることになる、と言われたのです。枕するところがない。家はない。従うことの厳しさをイエス様は、言われました。この人の本心を見抜いて、あまりにも気軽すぎる志願に冷や水をかけられたのです。ユダヤの社会では尊敬され、どこに行っても安楽に生きてゆけるのです。彼の心の中に12弟子たちと同じように、イエス様について行くことで、一種の栄進を願う思いが隠されていたのかもしれません。主イエスにどこまでも従う道は、恥辱と貧困と迫害と十字架を負う道でもありますから、律法学者が、そのようないばらの道を選り分けて進み、悲惨と苦悩を通ることまで、考えていたかというと、どうもそう思えませんでした。主イエスは、そこのところを見抜かれたのです。
主イエスに従う道は「枕するところもない」事を覚悟してでないと、と言われたのです。安易で快適な道や、あらゆる富で満ちた住居を夢見ているだけの熱心ならば、主に拒まれるのです。多分、この人は、最初に出会う不快な出来事で落胆してしまい、十字架に直面するキリストの戦いで、勇気がくじけて退却してしまい、持ち場を放棄してしまうでしょう。
主イエスは、自分に従う弟子たち、信徒たち、一人一人に高い要求を持っておられるのです。弟子であること、クリスチャンであることが、たいして重要でもないことならば、このような答え方をなさらなかったと思います。主イエス様に代わって、御国の民として、地上でその恵みと光栄を表す者となるのですから、主はよく弟子になる人々の志しを吟味しておられるのです。
Ⅲ 22節「わたしに従って来なさい。」
次に出てくる人は、先の人のようではなく、「別の一人の弟子が」とありますから、すでに弟子となっているのです。それで「主よ」とよびかけています。「まず行って父を葬ることをお許しください。」と申し出ました。古代のユダヤ社会では、父を葬るとき子どもたちは24時間以内に葬ることが義務づけられていました。実際に父が死んだのなら、許可を得ているひまはありません。故郷にすぐに出かけなければなりません。24時間しか無いのですから。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」彼は、なおも弟子として従うことに逡巡しています。父の葬りを理由に持ち出しました。まだ死んだわけでない父の葬りをですよ。イエスに従って行くと、この先どこに行くか分からない。だから生きている父の最後を看取るまでは待ってもらいたい。肉親としての義務、責任を全部すましてからにしたい。主イエスに従うことを、だれにも反対したりされなくなってからついてゆきます。妨げる人がいなくなってから、心のしこりがなくなってから従います。そうなってから信仰生活に入ります。
このような人に主イエスは答えます。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」ルカの福音書では追加されていることばがあります。それは「あなたは出て行って神の国を言い広めなさい」です。葬式そのものが不要だというのではないのですよ。キリストが葬りを非難しているではありません。ここで問題なのは、この人が、家に帰り、今、生きている父の死ぬまで元の生活に戻っている間に、献身の生活が失われてしまわないか。父の葬りが済んだとして、その時イエスどこにおられるか分からなくならないでしょうか。「死人たちに、彼らの死人たちを葬らせなさい。」この「死人たちに」とは、神を信じて新しいいのちに歩んでいない状態の者をさします。霊的に死んでいる者たちのことです。私たちも、信仰に入る以前にそうであったのです。ようするに、その時が来たら死人の葬りは、他の兄弟や、親族にやってもらいなさい。いつになるかわからない葬りを理由にして、今、あなたのなすべきことを怠り、決心を後回しにしないようにしなさい。あなたは、あなたにしかできない事を、今、しなさい。神の国を告げ広めなさい。
福音の奉仕者、宣教者として召されている者は、特に、ここで、これから死ぬ人の後始末に気をとられて、今という大切な時を殺してしまっては行けません。たえず家に帰ってゆこうとし、世のわざに心残りがあって、優柔不断で後ろ向きになってはいけません。神の国を告げ広めるという前向きで生きるようにしなさい。神から召された働きが第一になるのです。
一般的に考えても、この一年が儲かるとか、食べるとか、飲むとか、葬るとか、娶るとか、嫁ぐとかいうことだけで、人生、事足れりとするのではなく、神があなたに期待しておられ、招いておられる信仰の飛躍を、先ず、一段登るために決断して、キリストに従う歩みをすすめましょう。決定すべき瞬間を逃さないようにしなさい。
結び)以上、人を省みて自分を照らしましょう。軽々しく血気にはやって、どこまでも従いますと申し出はしたが、主から冷や水をかけられた人、優柔不断の人、躊躇して一歩も前に出ない為にイエス様から促された人ではないか。この世に気の多い未練たっぷりで過去に執着して、今ぐらぐらしている人、それぞれに主は適切なことばをくださった。
2018年〜2019年の歩みを、これからどのように進めましょうか。それぞれに主からチャレンジを受けて、潔く、尊い歩みを進む、「前を向いて」神の国に仕えてまいりましょう。