コロサイ2:6-16 / キリストにあって堅く歩む理由 2018.2.25 マーク・ボカネグラ
序論
バイリンガル礼拝で一回言ったことがありますが、私たちが気付いていなくても、感じていなくても、この世では戦争が行われています。神様の王国とこの世の王国が戦っていて、この世とサタンはより多くの人たちを自分のものにし、神様の民を奪おうとしているのです。要するに、神様とこの世の戦争は神様とサタンが私たちを勝ち取るための戦なのです。
しかし、私達は教会が今、現在、霊的な世界大戦の中にいることを忘れがちです。私はCSルイスの本を読んで、サタンの第一の戦略は、サタンと戦争の存在をクリスチャンに忘れさせようとすることだと感じました。私たちが感じているかいないかにかかわらず、サタンはほえたける獅子のように、 食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています。密かな方法で、そして、徐々に、サタンは私たちがヤハウェイ王を裏切るように誘惑しているのです。サタンは徐々にこの世が愛しているものを愛するように、この世が求めているものを求めるように私達を仕向け、そして、最終的に神様からサタンへと寝返らせるために働いているのです。
コロサイ教会も日本の教会もそのような誘惑を受けていると思います。この世とサタンは良いものを使って、人の目をイエス・キリストから離すように誘惑しているのです。この世とサタンはキリスト教の良さを受け入れながらも、イエス・キリストの「物足りなさ」を常に指摘して、「キリスト教はいいかもしれないけど、家族や教育、お金や影響力、安定も大事だよね。その中から一つに絞ることができないよね。」と人を誘惑するのです。それゆえに、神様は御自分の民を守るために、このコロサイ人への手紙をとおして、イエス・キリストの「充分さ」そして「満ち溢れる」祝福をまた私たちに思い出せているのです。神様は、御言葉を通して、この世の誘惑から守ってくださり、私たちの信仰を力づけ、この世の考え方の「むなしさ」を注意しておられるのです。
本日の箇所はまさしくそのような目的のために書かれています。ある学者はこの箇所はコロサイ人への手紙の核心と言っています。この箇所のメインポイントは、私たちはすでにキリストの死と蘇りによって完成され、赦され、解放されたので、私たちはこの世の考え方に捕らわれず、キリストにあって堅く歩むべきだということです。この箇所は一つのポイントとそのポイントの三つの理由に分けることができます。ポイントは、6-8節に書いてあるキリストにあって歩む命令です。そして、キリストに従う三つの理由、は1)イエスキリストに満たされたから(9-10節)、2)イエスキリストに変わらない救いがあるから(11-12節)、3)キリストはすでに勝ったから(13-15節)です。
最初のポイントは、この世の考えにとらわれず、キリストにあって堅く歩むという神様のご命令についてです。
6-8節では、教会である私たちは、御言葉にあるイエスキリストをもうすでに受け入れているので、この世のむなしい考え方に捕らわれず、キリストに根ざし、建てられ、キリストにあって歩むべきだと書かれています。この箇所の前に、パウロは教会の使命を説明していましたす。1:28に書いてあるように、教会の使命は、使徒たちから頂いた御言葉によって、キリストを宣べ伝え、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。そして、なぜキリストのみを宣べ伝えるのかと言う理由は、2:3に書いてあるように、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている」からなのです。キリストの価値は他の宝や考え方と比べることはできません。それゆえに、パウロは2:6-7節で、はっきりと教会に、私たちの王様であり主であるイエスキリストにあって歩むべきだと命令したのです。神様はイエス様御自身を恵の泉の基(もとい)とされ、またイエス様を通して私たちに全ての恵みをお与えになります。それゆえに、私たちの人生をキリストのみに根ざし、私たちの生活をキリストにあって建て、私たちの一生涯をキリストにあって歩む価値があるのです。これは神様からの命令なのですが、私達にとって重荷になるのではなく、むしろ私たちの喜びになるのです。7節に書いてあるように、キリストにあって歩むことは私達が想像する以上の祝福を受け、神様に対して「あふれるばかりの感謝」しかないのです。
それ故に、8節でパウロは強くコロサイにいるクリスチャンたちを注意するのです。
Col. 2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは
人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません。
神様の視点からは、この世には二つの考え方しかありません:「キリストによる」教えと「キリストによらない」教え。中立な立場はないのです。
神様は「キリストによらない」この世の教えを三つの角度から見ておられます。「キリストによらない」教えの1つは、「むなしいだましごと」ということです。「キリストによらない」考えは、私たちが求めているものを約束してくれますが求めていたもののほんの少ししか味わえず、最終的には私たちをだまし、むなしい状態に置き去りにするのです。「キリストによらない」教えは、ただの人の「言い伝え」、つまり、今も昔も伝えられている人間の価値観なのです。歴史的に見ても、知識、知恵、力に限りがあり、何回も間違えを犯す人間の考えをどうして信頼することができるでしょうか。自分の人生と愛する人の人生の全てを「人の言い伝え」のみにかける信頼性はあるのでしょうか。人の「言い伝え」は神様の御言葉と比べることはできません。「人の言い伝えであるむなしいだましごと」の最終的な目的は私たちを捕まえ、「とりこ」にするためなのです。「とりこ」というのは、戦争で捕まった敵のことです。この世の考えの目的は、神様の愛する民を捕まえて、キリストにある自由をなくすことです。世の教育制度や会社の制度、日本社会、人間の歴史を見れば、クリスチャンでも、クリスチャンではなくても、「人間の考え」は最終的に「人間をとりこにするむなしいだましごと」であることが直感的にわかると思います。
私が好きなCMがあります。転職サイトのCMです。大勢の人が、一つの同じゴールを目指して、苦しそうにマラソンをしています。これは一般の日本社会をあらわしていると思います。しかし、途中から、一人の人が、そこから外れて、笑顔で自分のゴールを探し始めるのです。そして、大勢人たちが笑顔で同じようにします。そして、これは現代の価値観を表していると思います。それは、「他の人の目を気にせず、自分の道を選んで、自分らしく生きれば、楽しくなるし、自由になるし、幸せになるよ」と約束します。しかし、客観的に見ると、実は、どちらの道も苦しいし、大変だし、自由にはなれないと思います。「安定」のトラックと「冒険」のトラックも喜びを約束しますが、どちらも私たちをだますのです。
それゆえに、神様は私たちが この世の考えに捕らえられないように、「キリストにあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」と、パウロを通して私達に命じておられるのです。
コロサイ2章の9-15節には、イエスキリストのみにあって歩む三つの理由が述べらています。9-10節に書いてあるのは、一つ目の理由:私たちはもうすでにキリストにあって満たされていることです。
人間がキリストにあって歩みたくないという理由の一つは、キリストは私を完璧に満たすことができないという疑問を抱(いだ)くからかもしれません。しかし、9-10節でパウロは、完全なイエス様によって私たちは十分に祝福されているからこそ、私たちはキリストにあって歩むべきであると命じています。パウロはまずイエスキリストがどういうお方なのかを思い出させるのです。
Col. 2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
この一節は、1:15-18節のことを思い出させています。
Col. 1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。Col.
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、ま
た見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子に
よって造られ、御子のために造られたのです。Col. 1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子
にあって成り立っています。Col. 1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初め
であり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のもの
となられたのです。
このお方、すべての支配と権威のかしらであるイエスキリストにあって、私たちは「満ち満ちている」と10節に書いてあります。私たちは、神の満ち満ちた御性質が宿っているイエスキリストと結ばれ、その完全なる御性質によって祝福されるのです。「満ち満ちている」のギリシャ語のニュアンスは、私たちは完全に満たされており、今も完全に満たされた状態が続いているということです。それがクリスチャンの客観的な状態なのです。もちろん、この世にいる間は、私たちはまだ罪と戦い、不完全な部分はたくさんあるのですが、イエス・キリストと結ばれることによって神様は私たちを完全な者として見てくださり、私達がこの世にいる間、私たちに必要なものを全て与えてくださり、世の終わりには私たちに新しい完全な体と喜びを与えてくださるのです。
ですから、もし私たちがイエス・キリスト以外のものに根付くとき、または、キリストの上に何か付け加えるとき、私たちはイエス・キリストの「満ち満ちている」御性質を二つの方法で否定することになるのです。。1つは、「私はキリストの完全さ以上にもっと満たされたい」という考え方で、もう1つはキリストがすでに下さっている恵みより、他から求めようとすることで、です。
前に説明しましたように、教育、仕事、家族、社会に何の期待と望みを持ってはいけないということではありません。イエス・キリストにあって完全に満たされるということは、教育、仕事、家族、社会などからくる益以上の満たしを味わうことができるということです。
イエス・キリストの「満ち満ちている」御性質を否定するとは、イエス・キリストをこの世のものの益と同レベルにすることなのです。皆さんはどのようにイエス・キリストにある満たしを否定しているでしょうか?
イエスキリストのみにあって歩む二つ目の理由は、私たちはキリストにあって変わらない救いを頂いているからだということです。
キリストにあって歩みたくない理由は、あることによってキリストの救いの効果が変わったという疑問があるかもしれません。例えば、いろんな罪を犯したゆえの罪悪感や苦しい試練からの不信仰、または、常に犯し続ける罪からのマヒ状態によって、自分に対するイエスキリストの救いが変わってしまったのではないかという不安からです。しかし、11-12節では、キリストの死と蘇りによって、神様は私たちに変わらない救いと恵みを下さったので、キリストにあって歩みなさいと命じているのです。
まず、パウロは教会に私たちは神様の怒りと罰から逃れ、神様の恵みと祝福に授(あず)かることができたことを思い出させています。「割礼と洗礼」という二つの儀式を通して、パウロはその恵みを描いています。この2節を理解するために、まず割礼と洗礼の意味を説明する必要があります。説明はちょっと長くなるかもしれません。
割礼という儀式は、男性の生殖器官のいらない皮膚を切り取ることです。割礼には4つの意味があります。1つ目の意味は、割礼は忠誠の証だということです。この痛みを伴う儀式は、私たちは私たちの全てを犠牲にして神様に従うということを表しています。他の箇所を読むと、この儀式の意味は、「神様に忠実に従うことができるように、心のいらない罪や考えを切りすてる」ということだと書かれています。
2つ目の意味は、割礼は神様の民である印だということです。もし私たちが神様の民であるなら、神様は特別に私たちを守り、養い、導き、祝福してくださいます。「割礼」は祝福のしるしなのです。そして、この祝福のしるしはただ忠誠の誓約をしたものだけにではなく、忠誠を告白した者の子供にも与えられました
3つ目の意味は、割礼は神様を裏切る罰を表していたということです。皮膚が体から切り取られるということは私たちへの罰をあらわしています。もし神様を裏切ったならば、神様はあなたを御自分の民から切りすてるということを宣言しているのです。また、男性の生殖器官の皮膚を切りすてるという意味は、あなたの子孫も神の民から切りすてられるということなのです。神の民から切りすてられるということは、神様の守り、祝福、救いを頂くことができないということです。要するに、「死」を意味しているのです。
4つ目の意味は、割礼は赦しを表しているということです。出エジプト4章を読むと、割礼は神様の裁きから守る儀式であることがわかります。神様はモーセの息子が割礼されなかったことに対して怒られ、割礼しなかったら罰を与えることをモーセにおっしゃいました。モーセの妻、チッポラはすぐに息子に割礼をしました。そして、【血まみれ】の皮膚を息子の生殖器官につけ、その血によって、過ぎ越しの祭りの血のように、神様の御怒りから息子を守ったことがわかります。切りすてられた、血まみれの皮膚は過ぎ越しの羊のように、私たちの代わりに、民から切り捨てられ、罰を受けたという意味合いがあります。割礼は神様の恵み深さをあらわす証印でもあるのです。
そして、「洗礼」にも4つの意味があります。一つ目の意味は、割礼と同じように、私たちの忠誠、または、信仰告白をあらわす印です。
二つ目の意味は、神様の民をしめす印です。洗礼を受けたものは、割礼を受けた者とおなじように神の民とされ、神様から守り、養い、導き、救いを約束されますそして、旧約の神の民のように、信仰告白をした人の子供も神の民とみなされるのです。
三つ目の意味は、割礼と同じように、神様の裁きをあらわす印です。聖書で、「水」は死と裁きをあらわすものでした。一番わかりやすい例はノアの洪水です。ですから、神様により頼まないものは神様のさばきに「溺れる」または「神の御怒りの洗礼を受ける」という意味がありました。
しかし、洗礼の4つ目の意味は、赦しのしるしでした。洗礼は、イエス様が私たちの代わりに裁きの水を受けたことをあらわし、私たちが赦されていることを表しているのです。
この4つの意味を考えながら読むとコロサイ2:11の意味がもうちょっとわかると思います。
2:11キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリ
ストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを
死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
ここから、割礼と洗礼は同じようにキリストの死と蘇りを指していることがわかります。キリストにより頼むこと、そして、根づくことを決心するなら、私たちはキリストにあって、人の手によらない、霊的な、究極の割礼を受けるのです。キリストは十字架上の死によって、切り捨てられた皮膚のように、私たちの罰を代わりに受けてくださったのです。キリストの割礼によって、私たちは神様の御怒りから守られ、神様の民とされ、神様の御国の永遠の祝福といのちを受けるができるのです。これが人の手によらない、霊的な究極の割礼です。そして、割礼と同じように、私達はキリストにある洗礼を受けることによって、キリストと共に、死に、蘇り、神様の御国の永遠の祝福を得るのです。
キリストの死と蘇りは変わらない歴史的な事実です。私たちの洗礼も変わらない歴史的な事実です。そして、私たちが神様の罰から救われることと永遠に祝福されることは変わらない客観的な事実なのです。
私たがはどのような状況に置かれても、どのような感情を抱いたとしても、また、どのような罪をおかしたとしても、キリストの死と蘇りの歴史的な事実は変わりませんし、私たちが救われることと祝福されることも変わらないのです。それゆえに、私たちはキリストから離れる理由はありません。だからこそ、私たちは堅く、揺るがないでキリストにあって歩む必要があるのです。
最後に、イエスキリストのみにあって歩む三つ目の理由は、キリストはすでに勝ったということです。
キリストにあって歩みたくない理由に、キリストだけではこの世の考え方には不十分だと思う疑問があるからかもしれません。しかし、13-15節にはと、キリストの十字架によって私たちに必要な赦しが与えられ、キリストがこの世の考え方と権威を倒されたと書かれています。ですから、私達はキリストにあって歩むべきなのです。
13節に書いてあるように、私たちは神の民と認められることができない存在でした。洗礼と割礼を受けていても、私たちは神様に罪を犯し神様を裏切っているので、神の民になる資格はないのです。神の民から切り離されるということは「死」を意味することだったのです。サタンとこの世は神様の御前で私たちの罪を指摘し、私たちがどれほど御国にふさわしくないかを訴え、非難するのです。この世は、私たちがどれほど罪深くて、どれほど弱いか、どれほどみじめでどれほどみにくい存在なのかを私たちにささやきます。「イエス・キリストはいいひとなんだけどさ、あなたを本当にそのまま天国へ行かせると思うの?イエス様はまだあなたを聖くて強い、尊敬される、美しい人にまだしてないし、やっぱりキリスト以外の力を使う必要があるんじゃない?・・・この世にある他の力をちょっとだけ使うっていうのはどう?」そして、サタンは私たちを不安の中で、キリスト以外のところへと導くのです。しかし、イエス・キリストの十字架を見るなら、私たちは不安になる必要はありません。14-15節で、パウロはある例えをはなしています。
Col. 2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効
にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
Col. 2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜
として凱旋(がいせん)の行列に加えられました。
子供たち、ちょっと想像してみてください。私たちは一人一人神様の前に罪人です。罰を受けるべき者です。私たちは、処刑を待っている犯罪人なのです。アメリカでは、犯罪人は派手なオレンジ色の服を着させられます。なぜかというと、逃げたらすぐに見つけることができるからです。
そして、牢屋の管理人はサタンだと想像してみてください。サタンは私たちのオレンジ色の犯罪人の服をみて、「お前は、神様を信じていながら死刑になるぐらいわるいことをしたのか。お前は本当に信じているのか?お前はどうしようもないやつだ。神の子なんかじゃなくて、ただの罪人だ」と私たちを責め続けます。そして、サタンとこの世は、犯罪人として私たちをいろんな方法で苦しめ、支配し、責め続けるのです。そして、もちろん、私たちは罪人だから、何にも言い返せません。そして、罪の罰である死刑から解放される唯一の手段は誰かが自分の代わりにその罰を受けることです。
ある日、あなたの牢屋に王様の服を着たイエス様があらわれます。そして、イエス様はがこうおっしゃいます。「私はあなたのオレンジ色の囚人服を着て、私が処刑台に行き、あなたの代わりに罰を受けます。その代わりに、私の服を受け取りなさい。」そして、イエス様は神様の処刑台であった十字架へ向かいました。イエス様が十字架で死なれたときに、罰を受けるべきであった囚人服が釘に打たれ、破壊され、私たちは神様の罰から解放されたのです。
そして、牢屋にはもう一つの服が置かれていて、それはイエス様の王様の服でした。私たちはそれを着ます。牢屋の管理人であるサタンがやって来て、私たちを犯罪人として責め、苦しめようとしましたが、サタンは、私たちが着ているイエス様の服をみて、私たちをもう責めることもできず、苦しめることもできなくなりました。むしろ、サタンは、私たちを、イエス様の服によって、犯罪人としてではなく王と認める必要がありました。2:15節に書いてあるように、サタンの権威、力、支配であった全ての武装が解除されたのです。イエス様の十字架の犠牲によって、サタンは圧倒的に倒され、捕虜として神様の勝利の行列に加えられました。
私たちはこの世とサタンの力を恐れる必要はありません。イエス様はもうすでにサタンに勝ち、罪深い私たちであっても、十字架によって赦され、神の子と認められ、そして、祝福されるのです。
結論
この世は私たちにいろんなことを言います。「イエス・キリストはあなたが望むようにはあなたを満たすことができないよ。」「イエス・キリストはあなたの数多くのいろんな罪や、状況、苦しみから救うことなんかできないよ」「イエス様はまだあなたに今必要な力を与えることなんてできないよ。」私たちが不安になるとき、そういう声を聞くかもしれませんが、冷静に考えるならこの世が約束しているものは私たちを満たすこともできないし、私たちの根本的な問題から救うこともできません、何の力もないのです。私たちが望むものは、イエス様だけにあるのです。ですから、みなさん、この世の考えにとらわれず、イエス様にあって堅く歩もうではありませんか。お祈りしましょう。