2018年2月4日 マタイの福音書5章21-26節 「殺人と怒り」
序文)主イエス様が17節から20節までのところで、律法の成就者としてのご自分と、その救いを受け取って弟子とされた私たちクリスチャンに求められている人生のあり様について、倫理的な側面の実例を21節から48節まで教えてくださいました。それは律法の全部についてではなくて、六つの例です。取り上げられているのは「殺人」と「怒り」さらに「姦淫・離婚」、「誓い」「法的権利」「愛」です。主イエス様は律法の成就者として、私たちがどのように生きるべきかについての態度を教えてくださって、結論として「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と結ばれました。
Ⅰ 六つの例の中に、主が語られている原則を最初に取り上げます。それは十戒理解の原則であります。ウェストミンスター大教理問答99問に教えられています。
1 律法は完全であり、全人においてその義に全く一致し、またいつまでも完全な服従をするように、すべての人間を拘束する。従って、すべての義務に対する最高度の完全さを要求し、またすべての罪の最少度をも禁ずる。
2 律法は霊的であり、従って言葉・わざ・挙動と同様に、理性・意志・感情・霊魂の他のあらゆる働きにも及ぶ。
3 同一のことが、さまざまの関係で、いくつかの戒めの中に命じられ、あるいは禁じられている。
4 義務が命じられている場合には、反対の罪が禁じられており、また罪が禁じられている場合には、反対の義務が命じられている。そのように、約束が付加されている場合には、反対の威嚇が含まれており、また威嚇が付加されている場合には、反対の約束が含まれている。
5 神が禁じられることは、してよい時はない。神が命じられることは、いつでもわたしたちの義務である。しかし、すべての特殊な義務は、いつでもしなければならないのではない。
6 一つの罪あるいは義務のもとに、同じ種類のすべての罪あるいは義務が、そのすべての原因・手段・機会・その情況・それへの挑発と共に、禁じられ、あるいは命じられている。
7 わたしたち自身に対して禁じられ、あるいは命じられていることは、他の人々が、彼らの立場の義務に従ってそれを避け、あるいは実行することができるように、わたしたちの立場から努力しなければならない。
8 他の人々に命じられることにおいては、わたしたちは自分の立場と職分に従って、彼らの助けとならなければならない。また他の人々に禁じられていることにおいては、わたしたちは、彼らに加わらないように用心しなければならない。
Ⅱ 主イエス様は、律法の霊的な性格を証明するために、ここで三つの例を取り上げておられます。
主イエス様はここで律法を成就するために来たという言葉の意味を十分説明しておられます。主の福音は律法をあがめその権威を高めるものだと教えておられます。ここに解き明かされるように律法はユダヤ人の大部分は思っていたよりも、はるかに霊的で心を探る基準であると示しておられます。そして主イエスはその例としてモーセの十戒の中から三つを選び出して、自分の言葉を証明しておられるのです。主は第6戒の「殺してはならない」を解き明かしてくださっています。多くの人は現実に殺人を犯しさえしなければ神の律法のこの部分を守り行ったつもりでいます。しかし、イエス様はこの戒めの要求がそれよりはるかに高いものであることを示されました。これはあらゆる怒り、あらゆる劇した言葉を弾劾しています。特に理由もなく発さられた場合がそうであります。この点ははっきりさせる必要があります。私たちは人の命を奪っていない点で完全に無罪であっても第6戒を破る罪を犯していないとは言えないのであります。
人を殺してはならないと言う戒めの正反対の側にあるお言葉はヨハネの15章13節「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」です。
憎しみを持って人を殺すことは、このお言葉の正反対であります。イエス様に救い出されて神の子としていただいた私たちが、キリストに似るものになろうとするならば、「兄弟に向かって腹を立てるもの、能無しというもの、ばかものというようなもの。それは人を殺すことと同じだ」とイエス様が言われました。ユダヤ人の犯罪者を処刑する方法は、軽い順から言うと法廷が課す、斬首刑です。その次に重いのは最高議会が課す石打の刑です。最も重いのはベンヒンノムの谷で焼身刑であります。イエス様の言葉の順番というのが実はこの順番に従っています。
「兄弟に向かって腹を立てる者はさばきを受けなければならない。」腹を立てるという時に英語の訳の中に「理由なく」というのが付いています。同じ言葉を使っても理由がある時がある。理由のなくして腹を立てるということがここで扱われています。なぜならば兄弟に向かって愛を基として発する言葉というのがあるからです。イエス様もパウロも「愚かな人よ」という言い方を幾度もなさいました。人の目を覚まさせ正しい道に立ち帰らせるための愛から発した怒りの言葉であります。パウロはコリント第二7章11節で「ごらんなさい。神の御心に沿ったその悲しみがあなたがたのうちにどれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ処罰を断行させたことでしょう。あの問題についてあなたがたは自分たちが全ての点で潔白であることを証明したのです。」と書き送りました。問題なのはあくまでも自分の心にある憎しみ、妬み、軽蔑などから出る怒りの声であり、侮辱なのです。
兄弟に向かって能無しというような者は最高議会に引き渡されます。また「ばか者」というような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
Ⅲ 23-24節
次にイエス様は兄弟に向かって腹を立てることからさらに進んで兄弟から恨まれていることを思い出した場合について話されました。兄弟から恨まれるという言葉の直訳は「あなたの兄弟があなたに対することを何か持っている。」分かりやすく言えばあなたの兄弟があなたに何か言いたいことがあるならということであります。ここでは兄弟とは仲間の意味で特定の人をさしたものではありません。ここで扱われているのは相手が自分に対して反感を持っている場合であります。裏を返せば自分が相手に対して憎しみを持っているケースなどは論外であります。もし誰かが自分を憎んでいるなら祭壇への供え物をとりあえず横に置いて、まずその兄弟と仲直りをしなければならない。神に供え物を捧げる前に兄弟と和解しておくことは重要である。神様との交わりと言うのは他の人々との和解を前提としているからであります。
このような和解の努力を相手が受け入れてくれるかどうかは、これは別の問題です。どのような結果になろうと自分の分を果たすことこそ重要であります。なお祭壇は抽象的な意味で使われることも新約聖書には少なくないけれども、ここでは文字どおり解釈して差し支えありません。ささげようとしている、あるいはささげなさいは、現在形であります
なお兄弟を許すことの有用性は主の祈りに教えられており、それに続く6章14節15節の解説にも出てきます。
イエス様がさらに言われたことは、もう一歩踏み込んで自分が告訴されているケースを取り上げます。イエス様の時代の社会は人々が問題を裁判所の調停に持ち込むということは日常的に行われていました。そこでイエス様は他人から訴えられた場合のことを話されました。このようなことが起こってしまったら早急に仲直りをして告訴取り下げてもらうように努力をしようと言っておられます。そうしなければ裁判の結果、牢獄に入れられたり、賠償金の全額を払うまでは牢屋から出してもらえないということが起こったからであります。
ここは法廷闘争を避けるようにとおっしゃっているわけでありましょう。告訴合戦のような事柄がうっかりすると日常的になってしまう社会というものはありますが、イエス様の教えに従う者たちは天の福音の中にあります。それは和解の福音の中にあるからです。
いずれにしてもイエス様はこの殺すなかれということの説明をしてくださった背後には、神様の裁きがあるということを大前提でお話しして下さっているわけです。私たちは、神の最後の裁きがあることを信じているのです。神様のさばきは、中途半端ではないのです。最後の一コドラント(ローマの最小金額の硬貨)を払うまで出てこられないと、話されました。
結び)私たちは霊的な事柄に対して無知です。殺すという問題でも、主イエス様の説明によれば、これほど、身近な事柄であることがわかると、神の裁きを免れることはできません。ですから、どうしても、神さまがご用意くださった、主イエスさまの十字架の血による贖いが必要です。神の前でとりなしてくださる仲保者イエス・キリスト様がおられるので、福音を尊んで、感謝を込めて、信じ続けましょう。神の前に聖いと審判していただける道はこれ以外にありません。