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2018年2月11日 礼拝 説教(録音音声あり)


 
2018年2月11日 マタイの福音書5章27-32節 「十戒の第七戒」
 

序文)主イエス様は、律法の成就者としてのご自分と、その救いを受け取って弟子とされた私たちクリスチャンに求められている人生のあり様について、教えておられます。倫理的な側面の実例を、先回「殺人と怒り」について学びました。殺すという問題でも、主イエス様の説明によれば、身近な事柄であることがわかりました。神の裁きを免れることはできません。ですから、どうしても、神さまがご用意くださった、主イエス様の十字架の血による贖いが必要です。神の前でとりなしてくださる仲保者イエス・キリスト様がおられるので、福音を尊んで、感謝を込めて、信じ続ける必要がありました。今朝のところは「姦淫と離婚」についてですが、結婚生活の原理に触れる部分を学びましょう。

 

Ⅰ 主イエス様が二番目に取り上げたのは姦淫と離婚の問題です。

1 モーセの十戒の第7の戒め「姦淫してはならない」とあります。 ここでイエス様は第7戒がどんな場合に当てはまるかについて、当時のユダヤ人がホットな論争を繰り広げていた問題を取り上げられました。

姦淫の罪は一般に他人の妻や婚約者と性的交わりを持つことと考えられています。自分たちの夫婦の誓約を破り、他人の夫婦たる誓約の中に割り込む罪であります。それは夫婦たる誓約を破るという点で淫行と言われたのとは違っています。姦淫は2倍の罪にあたります。性的な結びつき以前に夫婦の誓約違反、背信、裏切りという行動に現れたものだけではなく、もっと前に心の中にあることがすでに罪であるとイエス様はおっしゃいました。これは10戒の第10番目の「貪ってはいけない」ということの中に「隣人の妻を貪ってはいけない」とあることからも明らかです。ここに罪の本当の姿があります。罪とは単なる行動や行為の問題ではなく霊的な事柄であり心の中にあって人を行動へと駆り立てるものなのです。その罪が人を行動に走らせるわけであります。

 

2 ウェストミンスター大教理問答の139問を読んでみましょう。

問139:第七戒で禁じられている罪は、何であるか。
答:第七戒で禁じられている罪は、求められている義務を無視することの外には、次の通りである。すなわち、姦淫・不品行・強姦・血族相姦・男色およびすべての不自然な欲情、すべての不潔な想像・思想・企て・感情、すべて汚れた卑わいな会話・またはそれに耳を傾けること、みだらな態度・図々しい軽薄な行動・慎みのない服装・合法的結婚を禁止すること・不合法な結婚を許可すること、娼婦を許可し黙認し蓄えること・また売娼すること、独身生活へのとらわれた誓願・不当な結婚延期、同時に多妻または多夫をもつこと、不正な離婚や配偶者遺棄、逸楽・暴食・泥酔・不貞な交際、みだらな歌・本・絵・踊り・演劇・その他自分自身や他人に汚れを挑発したり行なったりするすべてのことである。

 

この139問の中に罪の巧妙な表れが示されています。私たちの精神、ものの見方の中にあって腐敗した思いを抱かせている事柄が掲載されています。行いに出なくても想像の中で罪を犯し喜び楽しんでいます。なぜゴシップ記事やエロ・グロものが街に氾濫し、それがよく売れるのか、あらゆる雑誌に入り込んでいるのか、子供の漫画の世界にもそれは入り込んでいます。それは人々がそれによって想像を掻き立てられて、そこに書かれた代理人によって自分は行動しないが楽しんでいるからであります。巧妙な罪の姿がそこにあります。人々は罪の行為について問題としますが、神様は罪そのものについて問題としておられるわけであります。

 

3 29節から30節 ここで主イエス様は罪の恐ろしい性質と私たちを陥れようとしている危険と罪自体を処理し捨てることの重要さを教えようとしています。目と手、それは人間にとって大切なものです。しかしその大切なものが罪を犯させるならば切り捨てよと、イエス様は言われました。すなわち罪はそれほど恐ろしいものであるということなんです。人生においてそれほど重大なことだということです。なぜならばその結末はゲヘナに投げ込まれると書かれているからです。罪のもたらす結末の重大さ恐ろしさは、十字架のイエス様によってはっきりと人間に示されているのです。私の罪が神の御子に血を滴らせ、体を裂き、死をもたらした。どの罪を犯していないから云々は、問題としては小さすぎるのです。罪そのものが問題であるということを気づかせようとしています。私たちの魂は神の前に聖められているか。五体の一部分をこの世で失っても、神様の前に聖く立つことの方が益である。自分の永遠の行き先に無頓着であってはならない。マタイ16章26節で、主はこうおっしゃいました。「人はたとえ全世界を手に入れてもまことの命を損じたら何の得がありましょう。その命を買い戻すのには人は一体何を差し出せば良いでしょう。」マタイ10章28節「体を殺しても魂を殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

 

次に「切って捨てる」と言われました。その人をして夫婦の絆を正しく保つために罪を犯させるものがあれば、それを捨てなさいと言うのです。神とあなたを結ぶものを断つような罪の誘惑は避けるように。あらゆる種類の誘惑から遠ざかるように。自分にとって最も危険とわかっているものは、はっきりと排斥をするようにと言われています。

 

Ⅱ  積極的に、この戒めの勧めの部分を読んでみましょう。

問138 第七戒で求められている義務は、何であるか。
答 第七戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、体・精神・感情・言葉・行動の純潔、それを自分自身と他人の間で保持すること、目やすべての感覚に注意深くあること、節制・きよい交際を守ること・服装の質素さ・禁欲の賜物がない人々の結婚・夫婦愛・夫婦生活、自分の職分に忠実に働くこと、不潔へのすべての機会を避け、それへの誘惑に抵抗することである。

ここまで教えられて、本心から、神さまがご用意くださった、主イエスさまの十字架の血による贖いが必要だと祈りましょう。神の前でとりなしてくださる仲保者イエス・キリスト様がおられるので、福音を尊んで、感謝を込めて、信じ続ける必要があります。

 

Ⅲ 離婚について 31節から32節

「また誰でも妻を離別するものは妻に離縁状を与えよと言われています。しかし私はあなたがたにいます。誰であっても不貞以外の理由で妻を離別するものは、妻に姦淫を犯させるのです。また誰でも離別された女と結婚すれば姦淫を犯すのです。」

「また誰でも妻を離別するものは妻に離縁状を与えよと言われています。」主は申命記24:1-2「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ,そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり」から、当時の人々の言いふらされている慣習を取り上げました。当時のユダヤ社会は、男性にだけ離婚する権利を認めていました。女性には認められていなかったのです。主イエス様の時代には、この律法が曲解されて、離婚の理由はとんでもないものもあったのです。例えば、「彼女がおまえの指図に従わなければ、縁を切れ」とか、「お料理を焦がした」というようなことも、「恥ずべきこと」にはいるといっていました。律法の解釈で、このように説明する学派があったのです。

 

イエス様はこのような社会の風潮にたいして、否と言われ、律法本来の意図に理解をもどし、踏み込んで教えられました。ここは離縁状を書いて離婚することを勧めているわけではありません。どういう場合離縁してよいかと言っているのでもないのです。誤解をしないように。主の時代には不品行—姦通によって夫婦の一体性が壊され、罪の極みに堕落した場合以外は、離婚は通用しなかったのです。それゆえに別れた相手に再婚の道を与えることは姦通罪のそそのかしになるというのです。「私はあなたがたにいます。誰であっても不貞以外の理由で妻を離別するものは、妻に姦淫を犯させるのです。また誰でも離別された女と結婚すれば姦淫を犯すのです。」男性に離婚の権利があるというのなら、その行為の責任は男性にある。姦淫の罪を犯すのは男性である。離縁状を渡したときに、その結果、ほかの人の妻となって、彼女に姦淫を犯させることになる。マタイ19:9「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、べつの女を妻とする者は、姦淫をおかすことになるのです。」男子も姦淫をおかすとはっきりと言われました。自分で犯さないばかりか配偶者にも犯させてはいけないという配慮を払うようにと言っています。

 

コリント第一手紙7章10〜11節 「次に結婚した人々に命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのだったら結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。また夫は妻を離別してはいけません」です。

聖書はクリスチャンの離婚を事実上認めないほどに厳しくしています。不品行の場合ですとクリスチャンは教会訓練規定により「戒規」を受け、まともな状態にはいないということです。夫婦の誓約は、結婚制度の創始者である神にむかって、人間同士が行う誓いです。ほかのいろいろの誓約の内では最も重要で厳かで誠実なものなのです。それを破るような人は、ひれ伏しても全くあてにならない。人の夫婦生活の誠実さはその人の宗教生活の誠実さのバロメーターになっているのです。

[それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのであるのである。この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです](エペソ書5章31-32節) 。ここにキリストと教会の関係として結婚のことが語られています。クリスチャンは主イエス様の赦しを知っています。離婚はありえないこととして見られているのです。世の常識よりはるかに勝った神様の義と純潔の中でクリスチャンの家庭は守られているのです

神は人間を創造された時に「結婚生活の原理」を制定されました。それは、「男は父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる」というものでした。イエス様は、この記述を引用され、肯定しておられます(マタイ19:4‐6)。そして、夫婦としての男と女の出会いは、神による結び合せであって、人が引き離してはならないことをも追認しました。さらにイエス様は、結婚が人類の創造の段階における神の聖なる定めであることを認めると同時に、それは、あくまでも地上的営みであって、天国では行われないことを付言しました(ルカ20:35)。

 

離婚と再婚。この問題も、その論拠とされる聖句の解釈によって多少意見が分れます。

(1)離婚が明確に認められるのは、2つの場合である。一つは、一方の死亡による解消であり(ロマ7:1‐2、Ⅰコリ7:39)、もう一つは,一方の不貞による場合である(マタ5:31‐32、19:7‐9)。ほかに、間接的にではあるが、離婚のやむなきを暗示する聖句がある。それは、未信者の側が、信者から離れていこうとする時です(Ⅰコリ7:15‐16)。しかし、いずれの場合も、離婚を勧めているのではありません。モーセの律法で離婚を許容したのは、正当なこととしてではなく、民のかたくなさのゆえに仕方なく認めたものである(申24:1‐4,、マタ19:7‐8)。離婚は、姦淫の罪にかかわることになるので、十分に注意しなければならないのです。なお、聖書には直接の言及はないが、「教会や国家的為政者によってもどうしても救治できないような故意の遺棄」をも、やむを得ない離婚の事例として容認する考えもあります(「ウェストミンスター信仰告白」24:6)。

 

(2)再婚について明確に容認されているのは、一方の死別によって自由になった場合だけである(ロマ7:2‐3,Ⅰコリ7:39)。この場合は、残された人は、自分の願う人と結婚する自由がある。また、一方の不貞によって離婚した場合の潔白な側の再婚については、特に積極的な言及はない。このことを「白紙の状態」と解して、再婚を合法的とする解釈がある(「ウェストミンスター信仰告白」24:5)。しかし、パウロは次のように勧めている。「もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい」(Ⅰコリ7:11)。また、死別して自由になった人に対しても、「もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです」(Ⅰコリ7:40)と述べています。これは律法ではなく、「ひたすら主に奉仕できるため」(Ⅰコリ7:35)の自発的判断であり、信仰であります。

 

結び)結婚は主イエス様のいう通り、神聖な事柄です。結婚の破れは、背後にある罪と誤った欲望という根本的な悪の問題です。そのような罪深い私達のために、神は十字架と死と復活のめぐみの福音を用意してくださったのです。福音を信じ通すことの力を、助け主により頼んで注ぎ続けていただきましょう。

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