皆さんは、こういう人を知っているかもしれません。「あの人が絶対にクリスチャンにはならない!」 とあなたが思う人。裕福で、何も必要としないと思う人かもしれません。宗教のことを疑いの目で、または、敵意の目で見ている人かもしれません。道徳的な基準に対する軽視を誇示する人かもしれません。あなたは、そういう人を知っていますか。その人がクリスチャンになることをなかなか想像できない人?
今日の箇所で、私達は、そういう人に出会います。タルソのサウロという人です。このサウロは、使徒の働き9章の前に、3回出て来ます。議会の議員が執事ステパノを石で打ち殺していた時、彼らは、「自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた」 (7:58)。そして、ステパノが死んだ時、「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」 (8:1)。ステパノが死んだ後、エルサレムで起こった教会に対する激しい迫害の首謀者は、このサウロでした。「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」 (8:3)。
この人は、暴力をもってクリスチャンに敵対しました。彼らを迫害すること。彼らを牢に入れること。彼らを殺すことさえもしました。クリスチャンには絶対にならない人がいれば、それは、この人です。でも、どうなったのでしょうか。タルソのサウロは、クリスチャンになったのです。イェス様の信者を迫害したこの人は、自分の信仰のために迫害された者となったのです。クリスチャンの信仰を撲滅しようとした人は、この同じ信仰を広げる者となったのです。異邦人に対する宣教師のパウロとなりました。
主の変革の働き
さて、どうしてそうなったのでしょうか。タルソのサウロは、どうしてこれ程劇的に変革されたでしょうか。調べましょう。
エルサレムでクリスチャンを迫害するだけでは、サウロにとって、十分ではありませんでした。サウロ自身は、後で、自分が 「彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました」 (使徒26:11) と言いました。したがって、今日の箇所で、サウロは、ダマスコのクリスチャンを捕らえるために、そこに向かって行っていました。
でも、ダマスコへのサウロの旅について、神様は、それと違う計画がありました。天からの光は、サウロを巡り照らしました。サウロは、地に倒れました。そして、主イェス様は、彼に語りました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」 (4節)。サウロはすぐ、自分が出会った相手が自分よりもはるかに強いということがわかりました。「主よ。あなたはどなたですか」 (5節) と言いました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」 (5節) という答えが来ました。
イェス?イェスが死んでいるとサウロは思いました。数年前に、サウロの仲間のパリサイ人や他のユダヤ教のリーダー達の扇動で、ローマの総督ピラトは、イェスを十字架につけるように命じました。今、自分に語っているのがどうしてイェスでありえるだろうか。しかし、そのとおりでした。イェス様は、生きていたのです。
話しを進める前に、イェス様の言葉の尊いところの一つに注目しましょう。イェス様は、サウロに、「なぜわたしを迫害するのか」 (4節) と聞きました。イェス様は、ご自分の民と一体になります。サウロがクリスチャンを迫害していた時、イェス様は、それをご自分を迫害していることと取りました。旧約聖書の預言者ゼカリヤの言葉を借りると、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」 (ゼカリヤ書2:8)。だれかがキリストへの信仰のためにあなたを攻撃する時、イェス様にとって、それは、ご自分に対する攻撃です。イェス様は、それ程大きな愛であなたとつながっています。
サウロの場合に起こったすべてのことが主の変革の働きに典型的なことであるわけではありません。すべての人が天からの光を見るわけではありません。また、すべての人がイェス様の声を聞くわけではありません。すべての人が目が見えなくなるわけでもありません。サウロは、特にイェス様に抵抗していたかもしれません。ですから、神様は、特に劇的なやり方を用いたかもしれません。イェス様に抵抗することは、あまり賢くないようですね。
でも、サウロの場合に起こったことの中で、すべての人とイェス様との出会いに典型的になることもありました。まず、すべての人の変革には、イェス様がどういう方であるかということに向き合うことが必要です。サウロが悟った最初のことは、イェス様が生きているということでした。私達が教科書で学んだ昔の人物だけではありません。十字架につけられた3日の後、イェス様は、死者の中から復活させられました。さらに40日を弟子達と過ごしてから、天に昇りました。そして、そこで、父なる神の右にすわって、今も生きています。
サウロは、生きているイェス様に出会った時、イェス様についての他のことも悟りました。そして、これらのことをダマスコの人々に教えました。20節に、サウロが 「諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」 と書いてあります。パリサイ人のサウロにとって、イェス様が、ご自分が神の子だと言うのは、冒瀆でした。人は、どうして、そういうことが言えるだろう。もしイェス様は、そのことを言ったなら、詐欺師に違いありません。でも、ダマスコへの道でイェス様に出会った時、サウロは、イェス様についての考えを変えなければならないということがわかりました。イェス様が神の子であるのがどういうことかということをすぐ完全に理解しなかったかもしれません。でも、イェス様が、ご自分が言ったとおりの方であると、今、信じました。
22節に、「サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた」 と書いてあります。サウロは、イェス様がキリストであるということを悟りました。旧約聖書で神様が遣わすと約束したメシヤ、救い主、王です。サウロは、どのようにしてこのことを証明したでしょうか。旧約聖書の預言が次々にイェス様によって成就したということを示したでしょう。
私達一人一人にとっても、私達は、イェス様に出会った時、生ける神の子、神様が私達の救いのために遣わしたメシヤに出会いました。
そして、サウロの場合に起こったことの中で、すべての人にとって典型的になることは、もう一つあります。自分がイェス様の主としての権威に反対していることを認めなければなりませんでした。サウロの場合に、この反対は、とても積極的な形となりました。イェス様が主であるということに抵抗して、イェス様を主として認める人を迫害しました。私達の中でも、イェス様に対する抵抗が積極的な形となる人もいるかもしれません。でも、その抵抗が消極的な形で、イェス様に対する無関心として現われた人もいるかもしれません。私達がどのように生きるべきかについて、イェス様が何を言ったかということに、私達は、何の関心もありませんでした。私達は、ただイェス様を無視しました。でも、イェス様の権威に抵抗しても、それに無関心であっても、どちらの場合にも、私達は、イェス様が主であることに反対していました。主の変革の働きの中には、イェス様への反対を認めて、それを悔い改めて、主としてイェス様に従うことがあります。
変革の神への期待
神様は、人を変革する神です。サウロの場合は、ほとんどよりも劇的でした。でも、ユニークではありませんでした。私達は、イェス様との出会いによって変えられました。前と同じ人ではありません。
クリスチャンの方、しばらく考えてください。もしイェス様に出会わなかったら、あなたは、どういう人になったでしょうか。
私の場合、私は、17才の時、クリスチャンになりました。高校の最後の学年でした。私の変革が若い時から始まったから、神の恵みのゆえに、イェス様に対する私の抵抗は、あまり長く発展しませんでした。しかし、3年生になる前の夏に、私の人生の方向性を決めてしまったかもしれないようなことがいくつか起こりました。
もし私がイェス様に出会わなかったなら、私は、アルコール依存症になったかもしれません。アルコールをとおして興奮を求めて、問題から逃れるというパターンは、その時、すでに出始めていました。
また、もし私がイェス様に出会わなかったなら、私は、自分の快楽のために女の人を利用する人となったかもしれません。私の親類には、離婚がたくさんありました。そして、私も、何回も結婚と離婚を繰り返したかもしれません。また、何回も女の人としばらく同棲して、後でそれを捨てたかもしれません。
さて、私は、どうしてそういう人にはならなかったでしょうか。私がこれらの傾向を乗り越えて、人生の方向性を直す程強い人だからではありません。私が生きている神の子イェス様に出会ったからです。私がイェスさまによって変えられたからです。イェス様は、私の罪を赦して、私を変革するために、ご自分の力によって私の心の中に働いてくださいました。
私の好きな聖句の一つは、ピリピ書1:6です。私がこの聖句を引用したのを数回聞いたかもしれません。この聖句で、もとのタルソのサウロは、こう書きました。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」
もしあなたがクリスチャンであるなら、イェス様に出会った時、神様は、あなたの心に良い働きを始めてくださいました。変革の働きです。子供の賛美のとおりです。
Little by little, every day, 少しずつ、毎日、
Little by little, in every way, 少しずつ、すべての点で、
Jesus is changing me. イェス様は、私を変えてくださっています。
前のあなたを振り返ると、変革の証拠が見えるでしょう。イェス様に出会わなかった場合のあなたを考えると、今までの変革を感謝するでしょう。そして、この聖句は、神様が変革の働きを完成させると言っています。もし自分の人生の中で、変わる必要のあるところをまだ見ていたら――罪深い行ない、罪深い思い、罪深い態度――主の変革の働きがまだ完成されていないということを覚えてください。クリスチャンであっても、未信者であっても、イェス様をとおして、変える力を見つけることができます。イェス様の権威のもとに、聖霊の力によって、本当の変革は、可能です。こう祈ることができます。「主イェス様よ。あなたの力によって、私の心に変革の働きをしてください。」 イェス様がそういう祈りに答えてくださることを期待することができます。
最後に、神様が他の人の心にも変革の働きができると期待するように、励ましたいです。絶対に変わらないとあなたが思う人は、だれですか。絶対にクリスチャンにならないと思う人は、だれですか。その人が変わるのは、タルソのサウロが変わったよりも驚きですか。
神様がダマスコのクリスチャンであるアナニヤに、サウロの癒しのために祈るように命じた時、アナニヤは、これが安全かどうかと心配しました。13節―「アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです」 (13-14節)。
26節によると、サウロが後にエルサレムに行った時、「弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた」。神様は、本当にタルソのサウロを変えることができますか。アナニヤは、それを簡単に信じることができませんでした。エルサレムの弟子達も、なかなかそれを信じることができませんでした。でも、時間がたつと、サウロの心に起こった変革は、明らかになりました。「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」 (ガラテヤ書1:23)。
歴史は、そういう劇的で、驚くべき変革でいっぱいです。「驚くばかりの」 という讃美歌の歌詞を書いたジョン・ニュートンは、奴隷商人でしたが、クリスチャンになって、イギリスで奴隷制の廃止のために務めるようになりました。LGBTの活動家であったロサリア・バッターフィールドは、クリスチャンになって、牧師と結婚して、2人の子供を産みました。クリスチャンを処刑することを以前喜んだアイシルの兵士は、今、イェス様を拝んでいます。
もし神様は、これらの人を変革することができれば、あなたが考えている人をも変革することができます。諦めないでください。この人のために祈り続けてください。
タルソのサルは、クリスチャンになって、パウロと呼ばれるようになりました。自分の変革を振り返った時、パウロは、こう書きました。「そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」 (Ⅰテモテ書1:16)。イェス様は、とても忍耐強いです。サウロのがんこな抵抗にもかかわらず、サウロに寛容を示しました。私のわがままな無関心にもかかわらず、私にも寛容を示してくださいました。ご自分に敵対する人に、今も、寛容を示しています。
また、イェス様は、粘り強くもあります。サウロがいくら抵抗しても、そのままにしておきませんでした。私がいくら無関心でいても、そのままにしておきませんでした。人を追い求めてくださいます。人を招き続きます。人をご自分に引き寄せて続きます。神様が 「天の猟犬」 と呼ばれています。猟犬は、狙った獲物を絶対に諦めません。イェス様のところに来るようにとあなたが望んでいる人のためにも、期待をもって、神様を仰ぎ見てください。