2018年7月29日 説教個所マタイ6:24 ルカ16:13 「二人の主人に仕える?」
序文)主イエス様は「よりまさった義」の歩みとはどのような生活態度であるかを積極的に教えました。イエス様は御国の民(クリスチャン)たちがどのような態度で歩めば良いのかの指針を次々と教えられました。第一は宝について人生に対する指針19〜24節でした。今朝は24節です。私たちが人生で仕えている主人は誰か?です。
Ⅰ メッセージの宛先と内容
1 マタイは、主のメッセージを「だれでも」と人類一般に当てはめて書きました。「だれでも」ですから、私たちも入ります。例外はない。「仕える」の原義は「奴隷となる」です。それで同じメッセージをルカは「しもべは」と呼びかけたのです。当時、異邦人主人の「家の使用人」のことで、場合によっては「奴隷」です。
現代流には、雇った人、組織に仕えて働いている人たち全部に当てはまります。さらには、結びの言葉「神にも仕え」「富にも仕え」からすると、全ての一般人、ことにクリスチャンを指していると理解できます。イエス様は目の前にいる弟子たちに教えようとしておられるからです。
2 ふたりの主人には仕えられない。
これは主人に仕えるしもべ、人々に仕えることの忠誠心を求めているのです。仕えている家で働くのであって、となりの家や、ほかの家で仕えるのではない。その家の主人に忠実に仕える。
「憎む」とか「愛する」とか「重んじる」とか「軽んじる」と言われているので、精神的な心の動きが伴う、仕える姿勢が問われています。「憎む」は相対的な意味で使われています。積極的に嫌うという意味ではありません。全き愛を注いでいない。もっと忠誠心を注ぐ相手(富)が現れたので、今は、主人(天の神)を降ろして、他の者(富)に目を注ぐというほどの意味です。「重んじる」は注意をはらう。「どこまでも肩を持つ」。「軽んじる」は「見くだす」「評価しない」の意味です。
3 神に仕えるのを辞めて、富に仕える。
私たちが、主の弟子、クリスチャンとして、天の神様に仕える生涯で、もっと良いと思ってしまう競争相手は「マンモン」(富)です。本質的には所有物です。人間の忠誠心を所有物が奪うことがあるのです。物欲主義・物質主義のことと理解できます。神への忠誠心と直接に対立するのです。
Ⅱ あなたを破滅させる主人
テモテ第一 6:9-10「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めた為に、信仰から迷い出て、非常な苦痛を持って、自分を刺し通しました。」
使徒パウロは、若いテモテにこのように忠告しました。自分の生涯の主人として物欲を選びとった人々への強烈なことばが用いられています。生き方として、所有物の増大に心の目的を置いている人々すべてにあてはまる言葉です。パウロは金持ちになっている人々を思い描いているのでありません。金持ちになろうと躍起になっている人々のことを考えているのです。「誘惑と罠」に投げ込まれる。「罠」は他の場所で「悪魔の罠」として用いられています。主人として「富」を選び仕えている人々が陥る、三段階の滅び。第一「罠となる誘惑」、第二「欲」、第三「滅びと破滅に投げ入れる」。回復不可能な損失を人生と永遠にもたらすのです。
物欲主義の生き方は、曲がってならないところを曲がってしまいます。その結果「信仰から迷い出て、非常な苦痛を持って、自分を刺し通しました。」富を主人とした人生は、自分で自分を苦痛で刺し通すことになる。
富を得ようと金銭に仕えることを選んだ、理由は「自分の安心」が目的であったはずなのに、最終的に、心労と不安に駆り立て、自分自身を刺し通すという悲劇的結果を招くのです。
聖書の時代、財産として考えられていたのは、「穀物」で、それは腐る富である。「衣服」は財産で、ヨセフは兄弟達に衣類を与えた(創世記45:22)。ヨシュアの命令に背いて、アカンは美しいバビロニアの着物を盗ったために、自分と家族が死ぬ羽目に落ちた。パウロは、私は他人の金銭や衣服をほしがったことはない、といっている。優美な着物は虫に食われる。金銀は、いずれはさびる。全体がだめになる。
「天に宝を」の説教で解説したヤコブの手紙では、「あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。」(ヤコブ5:1-3)。実際は金がさびることがないのを知っていたが、このようにたとえることで、最高に貴重な物でも、崩壊する運命にあると強調することで、生き生きと警告をしている。地上のいっさいは永遠ではない。究極的に無価値である。際限の無い富への欲望は、恐ろしいさびで、人間の体や魂を食い尽くしてしまう。
ヤコブ5:4-5「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。」地主が未払いのままにしている賃金。
レビ19:13「 あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。」利己的な富める者は、不正によって富を獲得してきた。
ヤコブ5:6「あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」彼らが義人を殺したとヤコブは責めている。誰のことか明白ではないが、キリストの事と考えられている。
使徒3:13-14「 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、」
利己的で富む者が、貧しい人々と義人を虐げることで、キリストを再び十字架につけている。利己的な生き方はキリストを再び切りさいなむことをしているとヤコブは警告している。
Ⅲ あなたに永遠のいのちを得させる主人
テモテ第一6:11-12「しかし、神の人よ、あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」
クリスチャンの仕えている家は天の父の家です。地上では地区教会です。クリスチャンにとっては、富が主人なのではありません。富は管理するために託されていますが、主人は天の神です。教会の主はイエス・キリスト様です。「神に仕える」ことを徹するとき、富をあるべき位置につけることができます。その時に管理をゆだねられている者として全存在を御前に用いていくことになります。
いつの日か、決算報告を差し出す事になります。その日に福音のいのち、霊性、信仰生活、健康、情緒、職業、財産、福音の奥義、賜物、財産、献金、時間、家庭をどのように用いたかを報告します。主のために用いて、福音の前進のために生きましたと言えるように、思慮深く(抜けめなく)ありたいものです。管理を託されているすべてを「主のために用いる」ときに、忠実と言われるのです。管理を託されている事柄が、主人となって、たとえば、富が主人であるとして、生活をする事は、不忠実となるのです。富は、しばしば、私たちの経済生活を奴隷のようにします。富の奴隷になるのです。パウロが度々言っておりますように、私たちは主イエス様のしもべ(奴隷)なのです。
「忠実なしもべよ、よくやった。あなたはわずかな物に忠実であったから、多くの物をまかせよう」と主からいっていただきたいものです。
結び)生涯をかけて救い主である主イエス様にしたがって、地上では、今つながっている地区教会に仕え、天に宝を積みながら、主イエス様とともに嗣業を受け継ぐことを楽しみに生活しましょう。