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2018年9月30日 礼拝 説教 マタイ7:15-23「偽預言者に気をつけよ」(録音音声あり)

 

2018年9月30日 マタイの福音書 7:15〜23「偽預言者に気をつけよ」

 

序文)山の上の説教の結論部分で、狭い門から入れ、いのちにいたる門は狭い、門を見いだす者は少ない、と言われました。つづいて、狭い門への道案内人に注意するように、なぜなら偽預言者がいるからだ、と言われました。実はイエス・キリスト様が偽預言者だと疑われていたかも知れません。当時の人々は、本当の預言者と偽預言者をどのように見分けたら良いかを知らなかった。狭い門ではなく、広い門を教えて人々を惑わしているのを、警戒し、見分ける方法があると、主は教えて下さいました。

 

Ⅰ 偽預言者は旧約時代から、主イエス・キリストの存在していた時代、その後の使徒たちから始まる新約聖書の時代もいつも存在して神の民を惑わしていた。それは今の時代も存在しているのです。

 

1 旧約聖書は、民が、偽預言者、偽教師に迷わされる事例で満ちている。その一例として、エレミヤは「イスラエルの神、万軍の主は、わたしの名によってあなたがたに偽りの預言をしている、コラヤの子アハブと、マアセヤの子ゼデキヤについてこう言う。「見よ。わたしはこの者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す。王は、あなたがたの目の前で二人を打ち殺す。」偽りの預言をしていた二人の者が、主の裁きにあって敵の王様に殺される、と本当の預言を書いている(エレミヤ書29:21)。

 

2 人間的には、偽預言者の言うことの方がぴったりする。アブシャロムの死の接吻は有名である。「アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。」と答えると、アブシャロムは彼に、「ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」と言い、さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。」と言っていた。人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。」(第二サムエル15:2-5)。

 

3 使徒パウロは「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(第二コリント11:14)。彼らは、狼なのだが、羊の格好で来る。偽預言者は、本物の預言者、教師より快適なことを言う。本物の教師は、肉的に受け入れたくないことを言う。従って、民は、偽教師の方をより好むのである。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」(ローマ16:17-18)。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(第二テモテ4:3-4)。異端的な教えに人々をみちびき、それが主イエス・キリストの教えや、使徒的教えよりも優れているというのです。自分だけがしめされた教えだと言うのです。主の新しいみ声が聞こえてきたというのです。完結された啓示を、たりないので、追加があるというわけです。

 

Ⅱ 偽預言者に用心しなければならない。結ぶ実によって見分けなさい。

「用心しなさい」は現在命令形なので、いつも、絶えず注意を払いなさいといっている。羊の格好で来る狼なので、その存在を見破らなければならない。

すべてのことを見分けて」(第一テサロニケ5:21)「それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。」(第一ヨハネの手紙4:1)ここでは、実によって見分けなさいである。どんなに立派そうに見えても、青々と生い茂った見事な葉っぱを付けた巨木でも、そういう木の立派な姿ではなく、実を見なさいである。イエス・キリストは、立派に生い茂っていたけれど実を付けないイチジクの木をのろわれた。

 

マタイ21:19 「道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」

マタイ24:4-13「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」

 

実とは、その人の生き方、人格、品性、生活とすべての振る舞いのことである。その思いが、地上のことに向いていないかどうかである。さらに踏み込んで言うなら、それは彼らの教えの内容である。教理内容と彼らの生活ぶりが一致しているかどうかが試されている。主イエス・キリストの福音の教え、使徒的継承から離れて、自分の弟子を作る教えが危険である。

 

Ⅲ 偽預言者は、現代の偽教師に通じます。偽の教えを防ぐ道?

 最後に主イエスは教会のにせ教師についての一般的な警告を与えておられる。私たちは「にせ預言者たちに気をつける」べきである。この節と直前の節には驚くべき関連がある。もし「広い道」に足を踏み入れたくなければ、私たちはにせ預言者に用心しなくてはならない。にせ預言者は必ず現われる。彼らはすでに使徒の時代から現われはじめた。そのときからすでに誤りの種は蒔かれていた。以来にせ預言者は連綿と現われ続けている。私たちは彼らが現われることを見越して、警戒していなくてはならない。これは火急に必要な警告である。

キリスト教界には、牧師と名のつく者の言葉ならすべてうのみにしてしまうおびただしい数の人々がいる。彼らは、聖職者も平信徒と同じように誤りを犯す者であることを忘れている。牧師は無謬ではない。彼らの教えは、聖書の物差しで計らなくてはならない。聖職者には、その教えが聖書と一致している限りにおいて従い、その言葉を信じるべきであるが、少しでも聖書からはずれたことを教えるなら、決して従ってはならない。信じてはならない。

私たちは、彼らを「実によって」評価すべきである。健全な教理と聖い生活が真の預言者のしるしである。これを忘れないようにしよう。自分の教師が誤っていたからといって、私たちの誤りの責任は免除されはしない。「もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです」(マタ15:14)。

 

にせの教えを防ぐにはどうしたら最も安全であろうか。疑いもなく、聖霊の教えを祈り求めながら、神のみことばを規則的に学ぶことである。

聖書は私たちの足のともしび、道の光として与えられた(詩119:105)。聖書を正しく読んでいる人がひどく誤らされることはない。聖書の学びをおろそかにすることこそ、これほど多くの人がにせ教師に出会うそばから、えじきにされてしまう原因である。そういう人は、「自分は無学だし、何もかもわかったような顔はしたくない」などと云う。実は、彼らは怠惰で、なまけ者であるために聖書を読まず、自分で考える労を惜しんでいるにすぎない。にせ預言者の弟子づくりに何よりも貢献しているのが、へりくだりという仮面をかぶった霊的怠慢である。願わくは私たちがみな、主の警告を心にとめていられるように!世と悪魔と肉だけがキリスト者の道を脅かす危険ではない。まだ他の危険がある。それが「にせ預言者」である。羊のなりをして来る狼である。日夜聖書を読み、祈りの生活をし、真の信仰とにせの信仰の違いを見分ける者は幸いである。そこには違いがあり、私たちはそれを見分け、自分の知識を用いることが期待されているのである。(J.C.ライルの注解より)。

 

結び)私たち改革主義の信仰の表明は、聖書を全体として体系的に学ぶことです。総まとめ的な告白はウェストミンスター信仰規準に表明されています。

聖書の一部分だけを強調する教えや説教はバランスに欠けているだけでなく、主イエス・キリストの教えからもほど遠いと言わざるをえません。使徒たちが受け完結した啓示からも離れていると言わなければなりません。今一度、聖書全体と教えの全体をよく学び身につけることで、信仰生活の日常的なめぐみと祝福と希望を保ち続けましょう

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