2018年1月21日 信徒総会 礼拝
「信仰の完成者イエス」ヘブル12:1〜3
序)あなたの信仰生活は、今、落胆のなかにありますか?弱り果てて意気阻喪していますか。道が険しいと思っていますか?あなたは、今、放り出したいという気持ちになっていませんか?対策は、なにかあるでしょうか。それは、主イエス様をかつてないほどに凝視することです。
1 四面ことごとく神にそむく状態にあって、四六時中戦い続けるならば、そのようなことがあるのは当然予期できます。
預言者エリヤは偶像のバアル礼拝の最大の擁護者イゼベルとの長い戦いにおいて、ついに大勝利を治めたときに、急に、なにもかも放り出したいと思い、神様に死ぬことを願い出ました。エリヤはイゼベルの脅しを伝え聞いて、大変恐れました。自分のいのちを救うために立って逃げだし、ユダのベエルシバへ行ってしもべをそこに残し自分は一日の道のりほど荒野に入って行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言いました。「主よ、もはや十分です。今わたしのいのちを取ってください」(第一列王記19:1〜4)。
預言者エレミヤは、四面楚歌の中で、自分の使命に泣きます。「ああ。悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手になっている。私は貸したことも借りたこともないのに、みな、私を呪っている」(エレミヤ記15:10)。
イエス様の弟子達は、主の十字架の後に、意気消沈して恐れに取り囲まれていました。それが少しおさまった時に、昔の仕事に戻って行こうとして、そうしました。シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「わたしたちもいっしょに行きましょう。」(ヨハネ21:3)。この心理的状況は、何もかもおしまいだ。イエスの弟子としての道に立って従ってきたが、それを放り出して、また昔の職業であった漁師に戻ろうと言うのでした。
マルコというヨハネは使徒15:37〜38パウロやバルナバと一緒に伝道をしていましたが、パンフリヤというところであまりにつらい働きから逃げ出して、勝手に家に帰ってしまいました。このことが バルナバとパウロの「激しい反目」の原因となりました。後になって関係が回復しました。マルコは後に「マルコの福音書」を書きました。
その他にも多くの実例があります。彼らも、私たちも同じ人間の弱さを負っています。彼らと私たちの違いと言えば、彼らはその中から立ち直ったということです。最後まで信仰を全うしたということです。私たちは、これからなのです。そして彼らと同じ良い結末を自分のものとしければなりません。
2 クリスチャンの信仰生活は走り抜くべき決勝点があります。この道は散歩道を行くがごとくではなくて、目標を目指して走り続ける長距離マラソンなのです。その目的地は時間的には主イエス様の再臨であり、質的には、イエス・キリストに似るものと全人がなることです。長距離ですから、いっさいの重荷とからみつく罪とをかなぐり捨てなければ走り抜けません。これらが信仰生活の障害となって足もとにまとわりつき走れなくしてしまうのです。捨て去るべき重荷は個人個人によって異なります。誰でも荷を負いすぎて栄冠に至ることはできません。信仰の人生において不必要なものは整理しなければなりません。習慣、娯楽、欲望、人間関係の中で、あなたの障害となっていることがあるならば、それらを脱ぎ捨てて身軽になることが必要でしょう。からみつく罪を切り捨てるのには、どうしても信仰の完成者イエス様の助けを必要とします。
ペテロは第一の手紙で、「からみつく罪をかなぐり捨て」を「肉体に置いて苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」と表現しています。「罪と関係を断った」ということはその人の人生において「罪を犯すことが完全にないという意味ではありません。」「罪とはっきりと決別した」あるいは「困難を避けないで神に従うことがその人の行為の最も重要な動機付けであると示すようなやり方で最も明解に行動した」事を意味します。このようにたとえ肉体的に苦しみを意味しようとも、神に従うという決断をもって従い抜くことは、私たちの生涯に対して道徳的強化の効力をもたらす。神への服従が苦痛を避けたいという願望よりはるかに重要であるところでは、以前よりはるかに強固に罪とのかかわりを断つことに、私たちを献身させる。
それは人間的な感情によってではなくて、神のみこころに支配された生活を生きるという目的のためです。御心に添う歩みにおいてくる苦難が、神からのものとして謙遜に受けとめるとき、それは人の心を罪から聖別し、罪との関係を絶つようにさせ、また、心の中から世的な生活を捨てさせて、みこころにかなうようにと歩ませる。イエスのゲッセマネと十字架への歩みにおいて見習うべき模範がある。ともに十字架を負い肉体において苦しみを受けた人は、いよいよ罪との関わりを断ちきり、世から離れさせられます。罪との関わりを断ったのち、地上の残された時を、神のみこころのために過ごすようになります。人間のさまざまな欲望のためではなく、一つの神のみこころのために生きる。欲望に生きる生活は、その一つ一つの欲望に振り回されて、混乱の溢れる生活を行ってしまいます。「なぜなら(原文にある接続詞)、あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です」(4:3)。いままで十分罪をおかしてきたのだから、これ以上、罪に時を与えてはいけない。特に偶像崇拝の背後にある悪魔的勢力としばしば結びつく。異教社会では普通であった、ことがらが、人々を振り回すのです。ペテロの時代の社会問題は、今もさらに輪をかけて存在し、不道徳と酒と偶像祭りは、そのような中から信者になったものにとって、もはや十分である。かつての仲間が、今は放蕩に走らないのを不思議に思って悪口をいっても、もはやよいのです。神のみこころに生きましょう。悪口をいうー宗教的汚しごとをいう。中傷する。だれかの名誉を毀損する。クリスチャンになって以前の放蕩に加わらなくなった事は、彼らが「不思議に思って」いるだけではなく、やがては敵意を抱くにいたる。悪口をいうのはその現れ。なぜこうしたことがおこるのか。その理由は、疑いもなく、静かにして罪に加わらないことが、しばしばその罪を裁く事を暗示するし、自分たちの生きた方を変えるよりも、不信者たちは自分達の良心を痛めた人々を中傷したり、「正しい」クリスチャンたちも同様に不道徳なのだという噂を広めることで、自分たち自身の不道徳を正当化するであろうからである。
へブル人への手紙に戻りましょう。からみつく罪の中で、信徒になってからの罪もあります。重い心、落胆という重荷は、私たちをすべての奉仕から引きづり降ろします。つぶやき、不平、不満足という不信仰はからみつづけて、ついに反逆と荒廃をもたらします。疑いの心は焦燥を生みます。悲観に走らせるでしょう。神の愛と誠実さは見失われてしまいます。悲観が来ると自分のまわりのすべてのものの色が変わり灰色に見えます。すべてのものの魅力が薄れ、将来の展望は暗くなります。霊的力は失われ、抱負もなくなり精神的な麻痺がおこるのです。走り続ける事が出来なくなります。走る前にそれらは取り除いておくべきです。
今重荷をかついでいるのに気づいたならば直ちに捨て去りましょう。主イエス様に願って解放して頂きましょう。この信仰生活のために多くの励まし手がいるのです。雲のような証人に、あなたは取り巻かれているのです。彼らは先に走り抜いた者として、私たちの競技を見守り声援しているのです。すでに勝利を勝ち取った人々に見守られながらクリスチャンは走ります。彼らの声援を聞くとき、彼らも同じ問題にぶつかり、同じ戦いをしたのを知り励まされます。彼らはその中からゴールインしたのですから、私たちもついにゴールインするでしょう。この意味で、彼らは単なる街の声援者ではなく、自分も生と死を通して、キリストにおいて実現したものをひたすら目指して走る事が可能であると証明しているのです。
私たちに必要なことは、耐え忍んで走り抜くことです。そしてこの忍耐して走り抜く事は困難なわざです。ただ何もしないで横になって待つことではありません。病人が床に伏して治るのを待つことも忍耐ですが、此処でいわれていることはさらに困難な忍耐です。悲しみの時に身を横たえたり、静かに座するには大きな力がいります。しかしさらに大きな力を必要とするのは、心に重荷をおいつつ走ることでしょう。霊の中に深い苦しみを持ちながら、尚、目前の毎日の仕事を成し遂げることです。
わたしたちは日常活動のなかで、商売や職場や家庭や学校の中で、忍耐を持って走り抜くようにと進められているのです。このような忍耐が、信仰生活を推進します。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っている」(ローマ5:3〜4)。
3 そのような力はどこからくるのでしょうか。12:2〜3
信仰の創始者であり、完成者である主イエス様に目をそそぐことによって走り続けることができるのです。主イエス様が私たちの信仰の軌道を定められたのです。イエス様がそこを先導し、完成された道です。この道のどこにでもイエス様の足跡があります。イエス様が耐えしのばれた道です。天の栄光を離れ、罪深い地に降り、苦難の生涯を歩み、十字架を忍ばれました。恥とも思わないで十字架を全うされました。それで私たちは救われました。イエス様に従う道は十字架と苦難と辱められる道です。十字架の故にこの世の選ばれた者たちの救いが完成するという喜びの故に恐ろしい苦難を忍ばれた道でした。しかしこの道は栄光の道です。復活と栄光の御國に昇る道です。神の右の座にすわるという喜びのゴールがあるのです。この事を考えなさい。信仰の旅路の途中で休んでいることはできません。終着点にすでにおられる主イエス様を凝視して進みましょう。
信仰の創始者であり、完成者であるイエス様は、私の、そしてあなたの信仰の全領域に渡って活動しておられるのです。
「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗(敵意)をしのばれた方のことを考えなさい。」私たちの信仰上の困難を考えるときに、キリストの忍耐をよくよく考慮に入れなさい。主イエス様が耐え忍ばなければならなかった、数々の敵意のそれぞれの局面を考えなさい。反抗(アンチロギア)と訳されている語は、「ロギア」言葉上の反対「アンチ」であります。なによりも「言葉による敵意・反抗」をさします。キリストの場合はそれが「行為」にまで及んでいました。言葉で敵意をむき出しにして脅すだけではなく、行為に表した反応です。それは十字架上の辱めまで達しました。自分たちに対する言葉の敵意を反抗、さらには行為にまで達する反抗は、主イエスが受けたことですが、それを考えるには、「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないため」です。私たちは容易に元気を失い、疲れ果ててしまいます。一瞬間ではなく、ある期間ずっとであり、ついには決意そのものも弱まってしまいます。この傾向に対する対策は、主イエス様をかつてないほどに凝視することです。
結び)ヨハネ黙示録3:21「勝利をえる者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」