2018年11月11日 マタイ8:23-27「嵐よ、静まれ!」招詞 詩篇89:8-9
序文)主に従う日々は平坦ではありません。一人一人はさまざまな身体的、霊的危機に直面しながら歩みを続けています。弟子たちは勝手知った生活の現場、ガリラヤの湖で激しい突風に不意に襲われ、荒れ狂う波に翻弄され、死の危険にさらされました。突然やってくる事故、病気、死別、失業、台風、地震、火事、洪水、津波は一瞬のうちに私たちを窮地に追い詰めます。これらは、人の心に誘惑の嵐や、激情の嵐、悲嘆の嵐を巻き起こしてゆきます。そのようなことがらは、私に限って起こらないと言える人は誰もいません。
Ⅰ 弟子たちは、用意された船に主イエス様が乗り込まれたので、それに従って自分たちも乗り込んだ。湖の向こう岸に渡ろうと言われたので、船を漕ぎだしました。ガリラヤ湖は、もと漁師だった弟子たちにすれば、手に取るように隅々まで分かっていたところですし、操船術は玄人でした。イエス様は伝動活動で疲れ果てておられました。一日の疲れ、精神的、肉体的に重労働であることは30才まで大工として鍛えた身体を持っておられた主イエス様でも、船の中で熟睡するほどの激しいものでした。イエス様は元漁師の弟子たちを信頼して彼らの手に操船を任せて安心して眠られました。
そうこうしているうちに大暴風雨がやってきました。ガリラヤ湖の周囲500〜600mの高さの山々から、水面下180mの水面に吹き下ろしてくる風は、いくつかの川によってできた渓谷を通風溝のように駆け抜けて、恐ろしい暴風となり波を巻き上げ湖面に猛り狂いました。
湖に関して専門家である弟子たちは、その恐ろしさを十分承知していました。
それゆえにこそ、彼らの恐怖は深く強烈でした。船は風波に翻弄され、水も入り込み、沈没か転覆の危機に見舞われました。しかし、なお、そのようなときにも、主は眠っておられました。
嵐の最中、船で眠ったもう一人の人を聖書は記録しています。預言者のヨナです。彼は神様の命令を拒んでニネベとは反対の方向にあるタルシシ行きの船の中で、やっと神様の目から逃れたと思って安心して舟底で眠ったのでした。ところが神様は嵐を送り、船を木の葉のようにゆらしたとき、乗組員たちが慌てふためき,それぞれが信じる神々の名を呼んだのです。そのときでもヨナは麻痺した良心の故に眠りこけていました。神に背いた神無き現代人が、この世の荒波にもまれても図太く眠っていることがしばしばありますね。
でも主イエス様の眠りはそのようなものではありませんでした。聖い良心をもって、この危険の中で神を信頼し切った平安から眠り続けておられたのです。神に起こりくる一切をゆだねきった者の平安がここにあります。生きるも死ぬのも突然襲う嵐も神のため、神にあって一切をゆだねて闘う信徒に恵みくださる平安があり、身につける幸いを味わえるのです。ピリピ4:6、7。
Ⅱ 弟子達の反応 25節
弟子達は最初から主を起こそうとした訳ではありません。しかし、危険があまりにも迫ってきたために,主を起こさなければいけないと思ったのです。弟子達は「主よ。助けてください。私たちは溺れそうです。」と叫び、起こしました。
「私たちは溺れそうです」は言外の意味は「死にそうです」ね。いのちの危機に直面していると感じたのです。人生に起こる予定外の事件はあまりにも多く、私たちの心の平安を奪い取り、死にそうだと悲鳴が口をつきます。あわてふためくことにより自分たちの危険を増し加え、沈まなくてよい船を沈めてしまうのです。恐怖過剰は不信仰を生み出してしまうのです。主は言われました。「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられました。すると風も波も治まり、大凪になりました。
イエス様は、「なぜ、怖がるのか。」「信仰の薄い者たちだ。」と言われました。弟子たちは眠っておられたイエス様を呼び起こしたが、イエス様は弟子たちの信仰が眠ってしまっていたと指摘されました。彼らは、いままでに数多くの奇跡をもって働かれた主イエス様を目の前に見て来たのでした。そのみ声も聞いてきました。そのお方が、共に船に乗っておられるにもかかわらず、「溺れそうだ。」と叫んだのです。主が乗っておられる船が沈む可能性がある。主も共に溺れ死ぬ。と思いました。主が平然と眠っておられるのに、船が転覆して溺れ死ぬと思った。神の赦しがなければ髪の毛一本の地に落ちない、と言われた教えを忘れました。このように苦しんで恐れている自分たちをほっておいて眠っているなんてと思ったし、自分たちはもう死んだと同じだと騒いでいるのでした。
船が沈没したら弟子達だけではなく主もまた危ないのですが。もしこの場面で、主イエス様が、突風の始まりから起き上がって、大変だ、船をうまく操れよ。お前たちは玄人ではないのか。と、慌てふためかれたら、弟子たちはどうなっていたでしょう。
主は、神のみ手の中で、自分の人生はあり、すべては主のゆるしのもとに起こる事だと知っておられました。その歩みの中に主が経験させようとしておられる憐れみや恵みや力や忍耐があるのでしょう。そのゆだねきった歩み、なすべきことをなし、眠るべきは眠る。神が、ゆるされたのであれば、その地上生涯も、これまでである。神がゆるされたのでなければ、何が起こっても守りはあると信じきって歩む。このように信じる。主は私たちと共におられる、私たちを住処としておられる。その内に住んでおられる。ならば、その地上生涯を支え守り用いられる。生きるのも主のため、死ぬのも主のために、用いられる人生と思い極めよう。
もし、弟子たちのように主を見て信仰を眠らせてしまうと、みすみす主がなしてくだろうとしている好意や善意を拒否してしまう事になりはしないか。主イエス様や聖霊様のお働きを通して、神様があなたに、また、教会にしてくださろうとしている恵みの御手を払いのけてゆかないように互いに注意しましょう。
私たちは、どのような状態の中にも、わたしたちのために御子を送って十字架の上につけてまで救主として下さった神のご愛を覚えねばなりません。ローマ8:31-39.
Ⅲ 主が湖に向かって風と荒波を叱りつけると大暴風雨は治まりました。弟子たちは、驚き恐れ「風や湖までが、言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方だろう。」と言った。
自然は人間のような心を持っていません。まして、神に逆らう罪の心を持っていません。主イエスは多くの人の心をいやし、救い、病人を治すという難しい働きをなさいました。この時、自然を左右する事等は、人を救うこととくらべれば,いと容易い事でした。自然は神が創造され、神が支配しておられるのです。神がみことばをもって自然の秩序と動きを定められました。(ヨブ記38:11)
神の命じたとおり働く自然は,神のみ心の一定不変の誠実さから生じる秩序正しさにより、人間の目にそれが法則として受け取られています。自然法則というのは、常に変わりない神のみ心とみことばのままに動いているのです。ですから、弟子たちは風も水も従わせる、このイエス様を、摂理をもって働いておられる神だと気づき驚き恐れました。
主イエス様は自然法則を破ったのではありません。すべてのことをみ心のままに導いて下さる神様が、弟子たちのために特別に心を砕いてくださったということに驚くべきだったのです。天地の創造主が、この小さい者たちのために、天地海風の日頃の動きを一時変更してもよいと思ってくださる。この恵み深い心を信じる。
苦しい時の神頼みと日本では言っているのですが、実は平穏な時の神頼みだけで、苦しい時は、人頼みではないでしょうか。本当に信仰は大嵐でも、凪ぎでも、平穏でも大迫害の中でも、どのような時でも、目覚めていて、主を信頼し、神の心とみことばにしっかりと捕らえられているのだと、いうことを確信することではないでしょうか。パウロがローマに護送されるとき、地中海で14日間の大嵐に会いました。その時、主があらわれて嵐を静めて下さったりはしませんでした。船は浅瀬の乗り上げ、壊れました。でもパウロは主のみ心を確信して、使徒27:22〜25一人も失われないと船長に告げローマの役人に告げました。また自分も必ず生きてローマに着くと疑いませんでした。
結び)私たちが本当に、恐れるべきは、突然襲う嵐ではなく、主のお心もみことばも信じないで、あわてふためく自分の不信の嵐なのです。この嵐により、主イエスをうらんだり、皮肉をもって見たり、主ご自身が弟子達のために働こうとされる好意、善意、恵み、を拒否してしまうのです。
主は私たちと同じ身体をもっておられました。弱さを経験し、疲れ、痛みを思いやることができます。この主イエス様が私たちの人生の船に同船してくださっているのです。家族も教会も滅びさる事はありません。主が共におられるのです。おられないように思える時でも、パウロのように、主のお心とおことばとを確信して、祈りつづけましょう。いま嵐に見舞われている兄弟姉妹のために主は立ち上がって「風よ静まれ、水よ凪げ」といってくださるのです。アーメン