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2018年12月16日礼拝 説教 創世記3:14-15「時が満ちた」(録音音声あり)

2018.12.16アドベント(待降節)礼拝
マルコ1:14-15 創世記3:14-15「時が満ちた」 廣橋嘉信牧師
序言)救い主イエス・キリスト様の誕生についての、聖書の約束は、人間が罪を犯したその時から始まりました。創世記3:15は原福音(あがないの契約)といわれています。それは神様の永遠のご計画の中にありましたが、歴史的には長い時間をかけた待ち望みの中でついに実現しました。原福音に、堕落した被造物ことに人間を救うご計画の原則が啓示されています。聖書はそのことがいよいよ成就する時のことを「時が満ちて」と表現しています。クリスマス・アドベントに際して、神様の約束の始まりの言葉を学んで、どのように時が満ちたかを知り、救い主イエス様に感謝と賛美をささげましょう。

Ⅰ 創世記 3:14〜15
1 創世記によれば、人類の始祖であるアダムは、創造主から「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるときあなたは必ず死ぬ。」とのいのちの契約を与えられていました。これは人が神ではない、被造物に過ぎないことを分からせるための禁令でした。これは被造物である人が、主権者で創造者である神に従うかどうかのテストだったのです。人間の分限を分からせるためだったのです。被造物として神に従順であるかどうかは、みことばに従うかどうかで判断されるのです。創造主の特定のことばに身を低くして従う意志があるかどうかです。以来、人が神の約束のことばと祝福の内に人生を送り、創造の使命を果たすことで、永遠のいのちを得ることができるという契約が一人ひとりに神から与えられているのです。
アダムは神様のみこころに反して罪を犯し、実を食べて堕落しました。必ず死ぬ者となってしまいました。神様はアダムを尋問しました。「あなたはどこにいるのか。」それは恵み深い尋問でした。このことばは、今も私たち罪人に向かって発せられています。私たちを目覚めさせ、罪の懺悔と悔い改めを表明出来るようにとの計らいでした。
神は最後のアダム(主イエス・第一コリント15:45「こう書かれています。最初の人アダムは生きるものとなった。しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。」)を用意してくださいました。ローマ5:18-19にこのことが明白に記されています。「こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」

2 誘惑者の蛇すなわち一体化していた悪魔に対しては、神様は「のろい」をもって語られました。蛇への「のろい」は、表面は審判でありましたが、裏面は人類に対する救いの約束を意味しています。最初の福音は、蛇に対する断罪の宣告の中で語られたのです。それを聞いているアダムとエバにとっては、罪の闇の中に輝く希望の光として示されました。
神様の約束の第一は「私は恨みをおく」です。神は誘惑者に対して、呪いを下すときに「おまえはこのことをしたので」と断定して、判決を下されました。誘惑者は自分の意志の責任を問われ、独特ののろいのもとにおかれました。「おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。」この「一生」とは、この蛇一匹の一生ではなく永久にという意味です。永久ののろいです。蛇の末までつづく永久的な悲惨です。腹ばいで動き回り、ちりを食べるのです。神様が「必ず死ぬ」と警告しておられたのに、高慢にも、神に取って代わって「決して死にません」と断言して、人類を罪に陥れました。その高慢な姿勢に対して対照的な辱めさと低さがさばきとなりました。この蛇への刑罰は、人間にまで及びませんでした。悪魔は究極的に呪われており、最後の審判の時に永久に滅ぼされるのです。

3 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」神様は蛇と人間の間に敵意を置かれました。蛇と女を同罪としませんでした。むしろ、蛇と女を引き裂き、誘惑者から、連れ戻そうとしておられます。神は、罪を犯させた悪魔から私たちを引き裂いて敵対関係に置いて下さったのです。私たちの心は移ろいやすく罪の中に転びやすいのです。しかし神は、人間を誘惑者と敵対関係に置かれたのです。一緒くたにされませんでした。サタンと人間は別であると。神に似るように創造された人間はサタンと一緒ではないと言われたのです。
この敵対関係は「おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、」です。「おまえ」は蛇で、蛇はサタンを代表しています。とすると、「おまえの子孫」とは、神に敵対する「まむしの末」(マタイ3:7、12:34、23:33)として不信仰をもって神様に敵対しつづけるもの全体をさします。神様から永久に断ち切られた滅びの人々です。ヨハネ8:44〜45 「あなたがたは悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたは私を信じません。」
「女の子孫」とは、文法上は「男性単数名詞」なのです。これはキリストによってのみ成就する勝利の預言なのです。さらに女の上に与えられた約束に、信仰をもって立つ人々です。神様に信仰をもって従う人々です(ヨハネ黙示録12:17「すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。」)。神に敵対する悪魔とその仲間たちは、常に神に従う者たちに戦いを挑み続けています。しかし、それも「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」という約束に従って、神のたてられた「彼」が圧倒的な勝利を得るのです。悪魔は頭を踏み砕かれます。女の子孫は、せいぜいかかとに報復の一矢を見舞われるだけです。一方は致命的です。女の子孫である「彼」は勝利を収めます。ここに人類の内から選ばれた神の民がついに必ずこの世に対して決定的な勝利を収めるとの輝かしい福音の原型があるのです。
また、しかし、ここには、頭を砕かれた悪魔が逆襲して信徒達のかかとをねらうことが書かれています。誘惑者の反撃により、選びの民に被害がおよびます。迫害の中で血を流すこともあります。義人は損害を受けます。信仰に立つ者たちが苦しみに遭うことがあります。アベルがカインに殺されたように、ノアと家族が世のあざけりにあったように、神を恐れる者は蛇の子孫から苦しめられます。その頂点に立つお方が、救い主イエス・キリスト様です。十字架の苦しみと死をもたらしたことにより悪魔は、イエスに勝利を得たと思ったでしょう。しかし、この原福音の神髄は、この事柄が、悪魔への決定的な勝利であったのです。悪魔は頭を打ち砕かれたからです。「平和の神は、すみやかに、あなた方の足でサタンを踏み砕いてくださいます」(ローマ16:20)。キリスト信徒たちは、かかとをかまれることをいとわないで、あなた方クリスチャンの足でサタンの頭を踏み砕くのです。信仰者は足の力を込めて、サタンを踏み砕かなければなりません。
創世記3:15は、原福音です。ここからクリスマスの当日まで、救い主が来ることが歴史の中で延々と準備されて、ついに「時が満ちて」おいでくださいました。さらには十字架の贖いが成就しました。復活された主は、栄光の天にもどられ、再びお出でくださり、救いを完成し、神の国を完成する準備をしておられるのです。

Ⅱ 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコは、主イエス・キリスト様が、おいでくださって、宣教のはたらきを開始されるに際して、その内容を簡単に要約して三つの言葉で表現しました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
1 「時が満ち」 福音がもたらされる時がついに来た。神様の時は、創造の歴史以来の計らいの時であり、大きくは二つの流れで区切られる。それは救い主誕生の時と、再臨の時です。イエス・キリストの誕生は、神の救いの支配の開始であり、再臨は完成である。それぞれは神の国の開始と、完成をさします。ガラテヤ4:4-5「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」罪と悲惨と悲しみの時、忍耐と強い期待を込めて待ち望んでいた時、悔い改めの準備の時、決定的な決断と危険の時、神様が定め、約束された時、神が地上に救い主を遣わされ、憐れみと愛と最後の裁きの時が来た。神の国は来た。約束の成就の時が満ちたからである。創世記3:15以来続いた数々の預言が成就する時がついに来た。神の国への敵対勢力で最大の存在である悪魔は、イエス・キリストが使命を全うできないようにと誘惑し続けましたが、完敗した。

2 「神の国は近くなった。」
ユダヤの地上の政治的勢力はローマによって制圧されていた。宗教的勢力は悔い改めを退けてむなしい権勢を誇っていた。民衆はその中で葦のように揺れ動き、いつ倒れても、折られても不思議でない状況でありました。そのような時代背景の中で、主イエス・キリスト様は神の国の福音を伝え始められた。地上の勢力の何者にも左右されない、主権者であるお方が用意くださった福音、神が王の王である福音、神のみこころを実現する福音が伝えられ始めた。「近くなった」は,「神の国がまさに出現しようとしている」ということで、宣言通りに,神の国はイエスのことばとわざの内に現れた。もちろんその完全な実現は、なお将来にあるが、汚れた霊が敗北し、らい病人がきよめられ、罪が赦されていく中、人々は神の国の到来を体験することとなったのです。

3 「悔い改めて福音を信じなさい。」
人々は悔い改めてと言われています。今までの価値観に従った歩みを止めて神の国の価値観に従って歩むことを開始しなさい。もはや国境のない、歴史を越えて、世界中どこにでも存在する神の国の一員となって、神の義と愛に満ちた国の一員となって歩むことを決断するのです。もはや地上のすべての勢力に左右されない、神のご支配の恵みと愛の中で、まず神の国と義と求める生き方を開始するのです。
「信じなさい」と言われている。これはバプテスマのヨハネにはなかったことです。自分本位の今までの罪の歩みを止めて、イエス・キリストに信頼して、従う歩みを開始することです。主イエス・キリスト中心の歩みをすることです。神の国が始まったのです。主イエス・キリストと行動を共にする歩みのことです。「まず神の国と義を第一としなさい。」との歩みが、求められています。神の国の一員となった者は、今やキリストの大使として、この世に遣わされているのです。主イエス・キリスト様に召されたものとしてふさわしく歩むこと、主とともに歩むことです。この歩みは「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」(黙示録20:4)となります。
そして最終的には「神、人と共に住み、人、神の民となり」(ヨハネ黙示録21章)と言われているゴールに達するのです。

結び)キリストの福音を信じた者は幸いです。神の愛の満ちた救いに歩みましょう。あなたの救いの時が満ちています。ご一緒に第一ペテロ2章24-25節を読みましょう。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
アーメン

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