18年12月23日クリスマス礼拝 マタイの福音書1:1、ルカの福音書 3:21〜38、
「わたしの愛する子&アダムの子」
マタイの福音書は新約聖書の一番始めにおかれています。旧約聖書の希望である救い主預言の成就として、深いつながりを証明しつつ、イスラエル人の信仰を呼びさまし、メシヤ=イエス・キリストであることを伝えようとしています。
救い主イエス・キリスト様の誕生に際して、神様の恵みの約束が、どのように不変で、確実で、不可侵で、守られてきたかを学ぶことになります。
始まりはイエス様の紹介です。それは系図からはじまります。神様の側の救い主の準備についてです。
Ⅰ 歴史的事実としてのイエス誕生
まず、イエス・キリストの誕生は、おとぎ話でもなく、作り話でもなく、歴史的事実であるという点です。福音書の記者マタイは、本書の主人公イエス・キリストの「系図」を巻頭に書きました。それによって主人公が客観的な公の戸籍を持つ歴史上の人物である事を示しました。
ユダヤ人の家には、家系図が驚くべき正確さで保存されており、家系の初代から系図は可能な限り正確に編纂され、かつ、保存されてきました。AD37-96に活躍したユダヤの歴史家ヨセファスは、ユダヤ人がパレスチナの外に居住している者でも、その子孫たちの名前が公の記録に載せられるために、それをエルサレムに送ったことについて書いています。特にダビデの子孫であった者たちは、旧約聖書が、メシヤはダビデの家から生まれると預言しているので、特別な注意を持って自分たちの系譜図を保存しました。公の登記とは別に私的な家系図を保存し、代々それを伝承した、とも書いています。
Ⅱ アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図
次に、イエス・キリストの誕生という事は、神の目から見るとアブラハムの時代にまでさかのぼる、すなわち、紀元前2000年の昔にまでさかのぼる神を畏れる信仰の流れの中で捕らえられているのです。イエス・キリストによる救いの計画が、クリスマスから始まったのではなくて、実は、その発端はもっと古くダビデ、アブラハムまでと言われているのです。それだけではなく、イエス・キリストの誕生は、終わりの時といわれています。第一ペテロ1:20「キリストは天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終わりのときに至って、あなたがたのために、現れたのである。」ヘブル1:1-2「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」
神様の目から見るとイエス・キリストの誕生は、始まりではなく、終わりの時であるというのです。
マタイはイエスの系図を自分の目的にしたがって整理をしました。17節、彼は系図を14代づつ、三つに分けました。そのために8節のヨラムの次にアハジヤ、ヨアシ、アマジヤという3代の名前を省きました。11節のヨシヤとエコニヤの間のエホヤキンという名前を省きました。12節サラテルとゾロバベルの間でベダヤ(第一歴代3:19)という名前を省きました。
私たちが旧約聖書を読みますと、もっと完全な系図が記録保存されています。それによれば、アブラハム以前アダムに至る系図もある分けです。マタイはこれらを省いています。もっともルカの福音書の系図は、アダムまでを掲載しているのです。
マタイがこのように一連の省きを行い、整理したのは、神の救いの約束という点から考えて、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(21節)
となるイエスの誕生が、はっきりと具体的に示された時代から書こうとしたからでした。
神の救いの約束は、アダムが罪を犯したとき、すなわち、人類のそもそものはじめから与えられたものでありました。それはアブラハムの時代になってはっきりと表され、アブラハムの子孫によって全世界が祝福を受けると保証されたのでした。
次にダビデは、紀元前1000年頃、神様から、その王座につく子孫の中から神の子を出すと約束を受け、その子によって、ダビデの王座は永遠に確立されると保証されました。サムエル第二7:13「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」それで、ユダヤ人は、これ以降、救い主をダビデの子と呼んで待っていたのでした。
マタイ1:1 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書き出したのはこのような理由でした。しかし、このダビデ王国は紀元前586年バビロニア帝国の手で滅ぼされました。主要な人々はバビロニア捕囚にあいました。このことにより、神の救いの祝福は消え去ってしまったかのように見えました。ことに、7-11節のソロモンからエホヤキンまでの13名の者たちは、神様の背く王たちが多く13名中7名は偶像崇拝と不道徳な生活に身を汚し王位をはずかしめ不敬虔、邪悪な王たちでした。10節のマナセなどはバアル礼拝を行い自分の子どもを火で焼いたばかりか、神に仕える者たちを迫害し、伝説では、大預言者イザヤをのこぎりで引き殺したと言う程でした。
さて、バビロニアからキリストまでの14代については旧約聖書に名前が無いし、彼らについては知る事ができない。これらの人々は旧約聖書の終わりから新約聖書の始めまでの400年間に生きた人々である。いいかえるとダビデ王家の王位継承は、この世の目には消え去ってしまったかのように、見る影もないものになってしまった時代です。
マリヤの夫ヨセフがダビデの王位を継ぎ王位に上るべき者であるということは、王家の落ちぶれた様を示し、王家の恥でもあった。ヨセフはまずしい田舎大工でしかなかった。救い主誕生の約束はもはや破棄されたかのようであった。すべてのものの終わりとなった。しかし、アブラハムに約束され、ダビデに確認された救い主は、人間的なものがすべて終わったとおもわれるような中で、イエス・キリストはお生まれになった。この事を系図は語っている。ここに歴史を支配しておられる神様が、人間の歴史の変転にもかかわりなく、その救いの約束を変えられることなく、確実に、誠実に実現してくださったということを知らされるのです。
Ⅲ 系図は,イエス様の公生涯への橋渡しとして、この位置におかれています。この文脈が教えている事は、肉によれば人々はヨセフの子と考えていたが、実に天の声を聞けば、神の子であられたのだという事を示しています。マタイ福音書の系図と、ルカ福音書の系図について,聖書学上は論議がありますが、これに関しては、今日の学びに直接影響しませんから、別の機会にゆずります。
1 ルカの福音書の掲げた系図の教えている第一のことは、イエス様とヨセフの間です。イエス様は、人々の考えによればヨセフの子です。ところが、肉によればヨセフの子どころか、ダビデの子であり、アブラハムの子であり、さらにはアダムの子でもあります。イエス様の人性がアダムよりである事がはっきりと記されています。聖霊により、マリヤからイエス様は生まれたのですが、ヨセフの家督後継者として、ヨセフの子と呼ばれていました。この意味では、すべての人間がアダムの子であります。血のつながりをもっているのです。土に属しているのです。
2 霊によれば、神よりの子であります。アダムでとどまらない。神から。天から。天に属している。この点で、「あなたはわたしの愛する子」という声は、神よりの直接のつながりを持つ事の証明でありました。そして、第一のアダム罪と死を持ち込んだアダムのつながりを越えて、キリストが第二のアダムとして、いのちをもたらす存在であることも、考えあわせることができるのです。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(第一コリント15:22、45〜49)。
3 公生涯のスタート、バプテスマをうけたこと
ヨハネのバプテスマは古い罪を放棄し、きよめられて、救い主の時代へと入ること意味していました。しかし、イエス様がバプテスマを受けられたことは罪の放棄とかきよめのためではなかった。それはまず、一人のユダヤ人として、神がメシヤの先駆者として定められたバプテスマのヨハネの預言者としての権威に従うためでした。神の子としては、その立場が逆なのです。ヨハネ自身が「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに。」(マタイ3:14)と言っている通りです。しかし、イエス様は人間として、また父なる神のたてられた秩序に従って、ヨハネの権威に身を低くして従われました。さらに大切なことは、ご自身がこれから創造しようとしておられた神の国へと入るのに、このバプテスマという戸を通して入るのだということを示すためでした。世に死に、神に生きるという,人間の取るべき生活態度を、ここでも実践されたのです。
4 このバプテスマの出来事の中で、重要なのは、聖霊が降られたこと、天の父からの証言があったことです。
イエス様がバプテスマを受けて祈っておられたときに、天から聖霊が降られました。ルカはイエス様の「祈っておられる」という姿に、特に注意を払っています。祈りは、神の力とあかしを受ける重大で欠く事のできない恵みの手段です。個人祈祷、公の祈祷を問わず、もっといのりを盛んにしましょう。祈りは礼拝と同等の重さを持っております。祈っておられるイエス様の上に聖霊が降られました。
このことにより、神はイエス様がこれからなさる働きのために力を与えられたのです。特別な賜物が聖霊によって与えられたのです。イエス様はその誕生の時から、たえず聖霊に依存しておられました。そのことは、イエス様の人格と神性の結びつきから、当然と考えられています。しかし、イエス様が神としての働きを十分に発揮するのに人性の力を最高に用いられねばなりません。ですから聖霊の働きが必要不可欠であったのです。聖霊の働きにより、イエス様のことばも、人の心を見抜かれた力も、多くの奇跡も行われたのです。神でありながら、人となられたイエス様の働きを聖霊が助けたのです。
このことは私たちのうちにも起こっているのです。
神の人が立てられる時、按手によって、その人の与えられた賜物が、さらに力づけられるのは、同じ聖霊の働きです。教師や長老たちの按手は,単なる儀式では決してないのです。また、私たちが洗礼式の時の一人一人の受けた按手も同じです。これから、そのような場にのぞむとき、お互いは祈りをもって聖霊の力づけを求めるようにしましょう。
イエス様の場合、聖霊は限りなく与えられましたが、私たちの場合は、それぞれの賜物に応じて与えられるのです。
5 さて次に天からのみ声「あなたはわたしの愛する子、私の心にかなう者である。」を学びましょう。これは天の父が、イエス様の事を、間違いなく「愛するひとり子」であると証言されるとともに、今までの30年間を見ても「心にかなう者である。」これからも然りであるとあかしされたことを表します。もうすこし考えると、「あなたはわたしの愛する子」とは、詩篇2:7のことばでメシア的王を表す言葉として受け入れられています。「わたしのこころにかなう者」とはイザヤ42:1の一部分で,「主のしもべ」を表しました。神様はイエス様が神の油注がれた王・メシアであり、神の遣わされた子であることと、その生涯が苦難と十字架のしもべとしての歩みであることをあかしされたのです。教会が授けている洗礼は、主イエス・キリストと一つであることのしるしとして、一人一人が受けます。そのことにより神の子としての生涯が、キリストのみ足の後に従う生涯として、同じあかしを神から受けているのです。
結び)このキリストの公的な救い主としての働きが、土に属している、わたしたちに信仰による、霊の誕生を与え、まことの神による人間としての自覚を与えなおしてくださったのです。わたしたちの公の仕事が、ことに主からの大命令を実行する働きが、聖霊の力のもとに,より真実に熱心に進められるよう、祈りつづけましょう。そして、神に愛せられる子として、み心にかなう生涯を歩みつづけましょう。