2018年2月18日 マタイ5:33-37 『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』
序文)主イエス様は、ここで、[誓い]を取り上げて、日常生活の言葉遣いの問題、細かな点について、クリスチャンの注意点を喚起しています。先回の学びで「結婚の誓い」が出てきました。スポーツ選手にとって、開会式の「選手宣誓」が馴染みでしょう。学校の入学書類に保証人は「誓い」を書かされているのです。生徒も学校の規則に従います、と誓います。教会では、洗礼式、転入式などで「誓約」があります。職務につくとき、就職式の「誓約」があります。使徒パウロもよく、教理的な事柄だけを強調しているように見えますが、実践的部分でも日常性を強調しています。「ですから、あなた方は偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは体の一部分として互いにそれぞれのものだからです」(エペソ4:5)。
Ⅰ 誓いに対する当時のパリサイ人、律法学者の説(33-36節)
1 旧約聖書に出てくる誓いに関する代表的聖句は以下の通りです。申命記6:13「あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。」レビ記19:12「あなたはわたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」出エジプト20:7「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」(十戒の第三戒)。
誓いは主を恐れて、主に仕える生活の一環として行うように。誓う場合は、偽ってはならない。誓ったことは全て主に対して果たすようにすること。旧約聖書の誓いの規定は、人間の罪と堕落の結果として生じた、偽るという傾向に手綱を付けることであります。嘘をつくこと、故意に事実に反することを口にすること。それは日常生活を無秩序に陥れるからです。
2 パリサイ人らは、偽って誓いさえしなければ、何を誓っても良いとしました。偽りの誓いでない限りは、天を指して、エルサレムを指して、神殿、祭壇など、あらゆるものを指して誓うことで、御名を用いないで誓うから良いとしました。詭弁ですね。主が言われました。「忌まわしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、こう言う。『誰でも神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金を指して誓ったなら、その誓いを果たさなければならない。』また、こう言う。『祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物を指して誓ったなら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらが大切なのか。ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。」(マタイ23:16-21)。
パリサイ人たちは、このように誓いに区別をつけて、拘束力があるとか、ないとかです。不誠実の極みでした。どのようなことでも、すぐに誓う。つまらないことでも誓う。これは、日常のお互いの言葉が信頼性に欠けているので、誓いによって、真実味を付け加えようとする姑息な手段となってしまっていた。
3 一方で、律法学者たちの中には、神・主の名前を発しないようにするために、一切何も誓わないと言う主張もありました。宗教改革の頃、アナバプテスト(再洗礼派)の人々や、ウェストミンスター信仰告白の製作されたころには、クエーカーの人々が宣誓と戦争に反対しました。再洗礼派では幼児洗礼否定、戦争否定、宣誓の否定、教会と国家の分離を主張した。一切の誓いを拒否しました。あらゆる状況の誓いを拒否し、禁じていました。旧約聖書の教えはどうなるのでしょうか?
Ⅱ 主イエス様の教え
1 誓いは、真剣で重要な事柄です。神様も誓われました。ヘブル6:17「そこで、神は約束の相続者に、ご計画の変わらない事をさらにハッキリと示そうと思い、誓いを持って保証されたのです。」
イエスさまも、大祭司の問いかけに、ご自身が誓われました。マタイ26:63—64「大祭司はイエスに言った。『私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか、答えを言いなさい。』イエスは彼に言われた。『あなたの言うとおりです。』第一ペテロ2:22「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見い出されませんでした。」
使徒パウロも誓いました。ローマ9:1「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。」第二コリント1:23「私はいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントに行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。」
信頼性と真実に生きている者たちは、本当の意味で誓うことができるのです。
イエス様が、神様やキリストの名前を誓いや呪いに用いてはならない、被造物を指して誓ってはならない、頭を指して誓うことまでもしたので、それらを禁じられました。
2 主は単純な正直さを求めておられる。会話において、いつでも真実を語る事を求めておられる。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言うように。それ以上は悪いことです。ヤコブは、この教えを正しく解釈して反映させています。「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、その他のなにを指してもです。ただ「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです」(ヤコブ5:12)。「はい」と「いいえ」は物事を、そうであるか、そうでないか、をはっきりと断言している言葉です。イエス様は、二度繰り返している事で、事実を事実として、誓いの重みを宣言するようにと言われました。物言いにおける真実です。曖昧、ごまかし、偽りの排除です。現代生活の最も欠けている点ですかね。会話における誠実さ、真実さ、正直さの欠如を突いておられます。自分の出来ること、責任を取れること、見通しがつけられること、など、そのままに言うように。
パウロは自分たちの実践をコリントの教会に書いています。「しかし、神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「しかり」と言って、同時に「否」と言うようなものではありません。私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって、「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです」(第二コリント1:18-20)。
Ⅲ 「誓い」についての聖書の教えを根拠にして、ウェストミンスター信仰告白 第22章「合法的宣誓と誓願について」は告白されています。誓いの部分だけを確認しておきましょう。
一項「合法的宣誓は、宗教的礼拝のひとつの部分であって、宣誓においては、正当な場合に、宣誓者はおごそかに誓って、自分の断言または約束の証人となり、その誓いの真偽に従って自分のさばき主となりたもうよう、神を、呼び求めるのである。」
二項「神のみ名だけが、それによって人が誓うべきものであり、宣誓において神のみ名は、全くきよい恐れと尊敬をもって用いられるべきである。それゆえ、あの栄光ある恐るべきみ名によって、みだりにまたは無分別に誓うこと、あるいは少しでも何か他のものによって誓うことは、罪深く憎悪すべきことである。とはいえ、重要な事柄においては、宣誓は旧約におけると同様に新約においても、神のみ言葉によって保証されているので、合法的宣誓が合法的権成によって課せられるならばそのような事柄においては行なわれるべきである。」
三項「宣誓する人はだれでも、非常に厳粛な行為の重大さを正当に考慮すべきであり、宣誓においては、真理であると十分確信していること以外の何事をも公言してはならない。だれでも、善で正しいこと、自分がそう信じていること、また自分が行なうことができ、行なう決意をしていること以外の何事をも行なうと、誓うべきでない。とはいえ、合法的権威によって課せられて、善で正しいことについての宣誓を拒むことは、罪である。」
四項「宣誓は、言葉の平明な普通の意味において、あいまいな言葉使いや隠しだてなしに、すべきである。それは罪を犯す義務を負わせることはできない。しかし宣誓するならば、罪の事柄でさえなければどのような事でも、たとえ自分自身の損失になっても果たす義務がある。またたとえ異端者や不信者にしたものであっても、宣誓を破ってはならない。」
誤った宣誓はしてはならないが、正しい場合に正しくなされる宣誓は、単に許容されるばかりでなく、宗教的礼拝の一部として、行なわなければならない事柄である。
宣誓は単なる信仰告白や祈りや主張ではない。それは神に向かって「わたしはこのように信じます」とか「わたしはこのように行ないます」と言い切ることではない。または「神さま、わたしの断言をこの人々が承認するように導いてください。助けてください」とお願いすることでもない。それは「神よ、来てわたしの証人となってください」とお願いすることである。しかも、それはお願いして聞き入れられてから、神のみ前でわたしの断言なり約束を相手に発表することではなく、すでにこの願いはききいれられたものとして、相手に向かって「これは単にわたし一個人の断言でなく、神も同意しておられる断言である」と、神の信用を自分の証人として使用することに等しいことである。
「このようなことは、果たしていかなる場合にしなければならないことであろうか。それは明らかにそのようにすることは、どこまでも神のために必要であり、神がそうすることを、私に要求しておられるとの確信に立った場合でなくてはならないように思われる。私がそう断言し、またそう約束することが、私の利益であり、それをしないなら、私のいのち、名誉、財産が失われるであろうから、と言うようなことだけでは、決してそれを合法化する十分な理由とはならないことを知るべきである。」(岡田稔著129〜130P)。
第二項では何が合法的宣誓であり、何が非合法的であるかを示している。
宣誓は神のみ名を呼んで厳かになされることだから、必要もないのにみだりに誓ったり、非常に重大な結果を伴うものですから無分別に誓ったりしてはならない。
「合法的宣誓が合法的権成によって課せられるならば」とあるがどのような場合をさすかは判断がむつかしい。合法的権威とは、国家的権成とか教会的権威等を指すと考えられる。
三項は二項の半面をのべている。みだりにまた無分別に誓うことの無いように注意事項がある。
四項は宣誓にあたっての用語、事実の一部を隠しだてしないこと、合法的宣誓がなされた場合、それを果たす義務について述べている。ごまかしの言葉や、誤解される危険の無いような言葉を用いなければならない。
結び)「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言うことは、なんでもない、当たり前のことではなく、神の民のしるしです。神の真実さを具体的に知る者ができる特性なのです。キリスト・イエスにおける神の不変の約束と、その成就が、「しかり。」です。私たちの、祈りにおいてばかりでなく、全生活の隅々まで、「アーメン。」と言える裏付けになっているのです。