2018年3月11日 マタイ5:43−48 「天の父の性質にならう」
序文)主イエス様が17節から20節までのところで、律法の成就者としてのご自分と、その救いを受け取って弟子とされた私たちクリスチャンに求められている人生のあり様について、倫理的な側面の実例を21節から48節まで教えてくださいました。それは律法の全部についてではなくて、六つの例です。取り上げられているのは「殺人」と「怒り」さらに「姦淫・離婚」、「誓い」「法的権利」「愛」です。今朝は最後の「愛」についてと、この段落の結論部分です。「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と結ばれました。
Ⅰ キリスト教的「愛」
「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなた方は聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」このことばほど一般にはもちろん、クリスチャンの間でも誤解され、間違った適用をされたみことばは、そうありません。聖書の基本的な理解のために、聖書解釈学を18日の午後、クリスチャンライフ研修会で学び始めます。
さて、「あなたの隣人を愛し、」はレビ記19:18の引用です。隣人とはレビ記では同胞のイスラエル人のことと理解されてきました。同じ聖書の神様を信じ、礼拝している同胞、共同体の仲間のことです。「あなたの敵を憎め」は聖書の言葉ではありません。旧約聖書の思想の要約として「あなたの敵を憎め」と教えていると決めつけることはできません。ユダヤ教もそのようには教えていないのです。ただ、イスラエル人と異邦人に対する態度を、ハッキリと区別することは教えていると推論できるのです。イエス様の時代にクムラン教団の文書に似た表現があることで、それに対する警告がユダヤ教の文書に出てくる。「しかし、今や我々は、死海集団においては繰り返し教え込まれていたことを知っている。イエスがこの言葉を語られた時に、この集団のことを念頭においておられたということは可能である。」
「憎む」ことは、どのように憎むのか、三つぐらい考えられています。まず、神に敵対している方人々を敵とみなすこと。「主よ。私は、あなたを憎むものたちを憎まないでしょうか。私は、あなたに立ち向かう者を忌み嫌わないでしょうか。わたしは憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。彼らは私の敵となりました。」(詩篇139:21-22)第二は「愛を隣人に限定しなさい。」と読むことです。隣人に限定した結果として、その裏側に生じる態度が他の人を憎むとなるというのです。第三は憎むのは積極的ではなく、十分に愛を注いでいない状態を憎むと言っている、というのです(マタイ6:24、ルカ14:26、ローマ9:13[わたしはヤコブを愛し、エソウを憎んだ])。どれが良い解釈かを決めるのは難しいです。どれも通常の人間行動としてはありえますので!
Ⅱ 「しかし、わたしはあなた方に言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」主イエス様の教え。「迫害する者」は、「原語では現在分詞なので、今、現にあなたを迫害している者」を意味しています。「愛し、祈る」も「現在命令形です。」このような存在が、今いるけれども、と、話を聞いている弟子たちや、人々にイエスは命じておられるのです。当時だけでなく現代でもいます。政治的権力を持っている指導者たちからの公の迫害は、古来ローマ帝国でも、日本でも、ありましたし、あります。また家族や友人からもありましたし、あります。そのような人々に愛を注ぎ、いのりなさいと勧められています。ここで、迫害する者のために愛し祈るのですが、迫害された時だけ愛し、祈るのではないのです。そのように取るとそれは律法主義となります。イエス様がもっとも嫌っていることになるのです。そいう理解ではなく、誰が敵で、そうでないかと区別、差別すること自体を、イエス様は排除して、敵も味方も愛し、その為には祈るようにと積極的に命じているのです。弟子が愛する必要のない者はいない。祈る必要のない者はいない。誰にでも愛と祈りを注ぐようにとの勧めなのです。
「それでこそ、天におられるあなた方の父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(45節)そのようにすると、子どもは天の父の子どもとして目立つし、そう出来ることは性質に預かっているからです。 子は父の性質に預かるのです。天の父は被造物の全て、人間の全てに、等しく自然の恵みを注いでくださっている。自然恩寵のことを言っています。イエス様は救いの恵みという特別恩寵のことを言っておられるのではありません。霊的な恵みのことを指しているのではありません。天の父が誰にでも、信じ悔い改めなくても救いを与えられると言っているのではないのです。誤解しないようにしましょう。
クリスチャンが良いことをするのに、迫害者も含めるというのは間違ってはいないのです。その迫害者が救われるかどうかということは、わからないのですから、それと関係なく、愛し祈るようにとイエス様が勧めておられるのです。
イエス様なさっているこの教えの実践は、十字架上のとりなしの祈りにあらわされています。「父よ、彼らをお許しください。彼らは、何をしているのか、自分ではわからないのです。」(ルカ23:34)「彼ら」の中にイエスに敵対しているローマ帝国関係者、ユダヤ教関係者、ののしり、つばきしている一般民衆、とりもなおさず、同じようにイエス様を理解し、読み取っていた、私たち罪深い者のために許しの祈りを天の父に捧げてくださったのです。
初代キリスト教会で最初の殉教者となったステパノも同じように祈りました。その姿を見ていた迫害者サウロは、のちにパウロに変えられたほど影響を与えました。クリスチャンは天の父の性質に預かる者とされているのですから、自分の内に住んでおられるイエス様が聖霊とともに働いてくださるように祈らざるを得ません。そうでないと、このような勧めは、なかなか実践できません。
Ⅲ 46-47節「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、異邦人でも同じことをするではありませんか。また、自分の兄弟にだけ挨拶したからといって、どれだけまさったことをしたのでしょうか。異邦人でも同じことをするではありませんか。」
ここに取税人、異邦人が出てきます。聴衆は、彼らは自分たちとちがうと自負心を持っていました。「まさっている」と考えていたのです。同じ水準ではないというのです。上だというのです。イエス様は、「まさった」という彼らユダヤ人たち聴衆に、そういうなら、さらに「まさった」、「完全でありなさい」(48節)と求めました。
普段イエス様は、いろいろの話の中で、また面と向かって取り扱われている場で取税人、異邦人のことを前向きに良く扱っておられます。ユダヤ人たちに反感を持たれるほどに大事にされています。しかし、ここでは、話をして聴いている民衆の感じ方に沿って勧めをしておられるのです。そのことによって、聴いているユダヤ人たちにチャレンジを与えられました。ユダヤ人たちにとって取税人、異邦人は部外者でした。それでイエス様は、その部外者といっている者たちが、あなた方と同じか、より良いことをしているではないですか。自分を愛してくれる者を愛しているし、挨拶してくれる者に挨拶していますよ。なにか「まさって」いますか。「まさって」はいないですね。無用に差別しているのは、根拠がないのでは?仲間、兄弟、部外者、敵対者にまで、愛と祈りは発展するようにと求められている。
結び)「だから、あなた方は、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
主イエス様は「あなた方は」と、20節以降に説明してこられたことの、結論を出されました。それはさらにまさった義についてです。取税人、異邦人、パリサイ人、律法学者にまさる義についてです。「完全」でありなさい。この原語は道徳的なことの完全さより意味は広い。全存在について「完成している」を意味している。使徒パウロはこの語を霊的な「成熟」を指して用いています(第一コリント2:6,14:20,ピリピ3:15)。神のみ心と完全に調和した人生を意味しています。このようにして神のご性質を反映させる生き方です。イエス様の弟子として、神様のご性質に従う者となるように求められているのです。弟子たるものの目標、理想に向かうようにと求められているのです。ルカはこの同じ文脈で「あなた方の天の父があわれみ深いように、あなた方もあわれみ深くしなさい。」(ルカ6:35)としています。未来において神様のご性質の写しの様な存在でありなさい。それを目指しなさい。神にならうものとなれる力は、助け主聖霊様が私たちのうちに住んでおられるところから、発するのです。それは恵みにおいて漸進的に成就していくことでしょう。期待しましょう。